第2話 ハイヒールとフェニックス

 誰もいない教室で一人になった知広は何度も答案を確かめた後、意を決して職員室を訪ねた。

 目当ての教師は五組担任の数学教師の【浦川うらかわ秀司しゅうじ】だ。英語担当の教師の【山内】は若い男性教師だが、自分では判断できず、何でも学年主任の浦川の指示を仰ぐ。結局のところ、浦川の承認が必要なことは間違いなかった。誓って不正などしていないとはいえ、担任の浦川との話はどんな結果になるかはわからない。点数を変更してもらえたらしてもらえたで「我こそも…」と、不正に点数を上げようとする連中も出てくるかもしれない。目撃者はいない方がいいに決まっている。今日は部活動のない一斉下校の日で、居残りの生徒がいないのが有り難かった。


 …信じてもらえるだろうか…


 浦川を含め、中学校の教師と積極的に関わってこなかった知広が、自分から教師の元へ向かうのは初めてのことだった。緊張で胸がバクバクした。でも、ここまで来たらやるしかない。職員室の扉をノックし、小さな声で「失礼します」と声を掛け、扉を開ける。


「うっ…浦川先生はいらっしゃいます…か…」


 そろっと目を上げてみると職員室はガランとしていて、先生は二人だけだった。一人は今年着任した二年生担任の女性教師…名前は覚えていない。そして、もう一人は昨年度までは英語教師だったのが、今年から教頭になった【吉岡よしおか美桜子みおこ】だった。


「何ですか?浦川先生は今席を外してます。用件を言いなさい」


 座ったままこちらに目を向ける吉岡のとがめるような物言いが、知広を酷く不安にさせる。動揺のあまりに膝が震えだした。この厳しそうな印象の女教員のことが、知広はとても苦手だった。


「あ…いや…何でもないです…」


「今日は一斉下校ですよ。居残りは許可しません。あなた、三年生ね…何組の誰?」


「す、すみません。帰ります」


 知広は逃げるようにして、職員室を飛び出した。何も悪い事はしていない。けれど、大人の強い口調は、なぜか責め立てられているような気になってしまう。


 …諦めるしかないのかな…


 英語も数学も成績上位者はどんぐりの背比べ状態になっている。一点が大きく差をつけることもある。特に今回、数学の最後の大設問を落としてしまうと、通知表の評価にも関わってくる。公立の西和高校を受験するには中学校での評価がとても重要だった。


 …もう一回、浦川先生を探してみよう。


 知広は中央棟の二階職員室を出て、三年生の校舎である第一校舎北東一階に向かいかけて、ふと、生徒会室に行ってみようと思いついた。浦川は三年生の学年主任だが生徒会活動の顧問役もしている。今日は生徒会役員も全員帰宅しているはずだが、先生は何か作業をしているかもしれない。


 …生徒会室は確か第二校舎の南西一階だったっけ。


 知広は第二校舎への渡り廊下を目指して、足を早めた。


 第二校舎一階生徒会室。知広はドアにある窓から中を覗いてみたが、室内はガランとしていた。


 …いない、かぁ…


 心当たりは他にはなかった。途方に暮れて、ドアの前にたたずむ知広の耳に切れ切れに人の声が届いた。


「…おかげ…テスト…」


 それは女の声のようだった。相手は男のようでボソボソと聞こえにくい。


「まぁ、先生ったら!」


 今度は明瞭な声だった。甲高い笑い声がする。話している感じからすると、生徒ではなさそうだ。声のする方向を目指して歩く。校舎の西の端の奥まった場所にある多目的室…現在は物置きとしてプリントの入った段ボールが積んであるはずの部屋に人の気配がする。おかしなことに、多目的室のドアの窓は段ボールのような茶色い紙で塞いであった。


「大丈夫ですよ、…ミヤさん」


 中から聞こえてきたのは探していた浦川の声だった。知広は嬉しくなる。しかし、次に続いた浦川の言葉を聞いて、ドアをノックしようとした手を止めた。


「今回の数学は満点は一人だけにしましたから。英語も上位者は少し順位を下げてもらってます」


 …満点は一人だけにしたって…?


 その言葉から想像できるのは、先生自身が不正に加担しているということだ。知広は慌ててドアから離れようとしたが、うっかりと足元にあった掃除用の雑巾掛けに躓いてしまう。雑巾掛けがドアにぶつかり、ガンという音が響いた。


 …しまった。気づかれ…


「誰だ?」


 部屋の中から、誰何すいかする浦川の鋭い声がした。すぐにこっちに向かってきたようで、ドアの向こう側に気配があった。


 …どうしよう。きっと逃げても追いつかれる。


 朋也のように俊足でもっと運動神経が良かったら、姿を見られる前に走り去ったり、廊下の窓を乗り越えて外に飛び出すことも可能だったかもしれないが、知広にそんな芸当は出来ない。仕方なく、知広は怯えながらその場で待つことを選択した。


「久保?」


 ドアがガタッと開いて、急いで出て来たと思われる浦川は知広を見て、ギョッとしたようだった。知広の手にした答案の挟まれたファイルに目を止めて、「お前…まさか…」と、分厚い唇を歪めてつぶやいた。


「見られないようにコイツ押さえとくんで帰って下さい」


 浦川は中にいた人物に声を掛け、知広の顔を自分の胸に押し付けるようにして、ガッチリと拘束ホールドする。大柄で体格のいい浦川に比べ、小柄で痩せっぽちの知広は強い力で浦川のシャツにギュッと顔を突っ込まれ、鼻と口の両方が塞がって、呼吸困難になっていた。


 …苦しい…


 知広が何とか浦川を押し退けようと必死で叩いたり押している間に、コツコツと硬い靴音が近づき、すぐに遠ざかる。中にいた誰かが急いで横を通り抜けたのを感じた。


 …ハイヒール?


 知広が怪訝に思っている間に女の靴音は聞こえなくなっていた。廊下を通り過ぎて校舎外に出てしまったらしい。浦川は知広の頭を離すと、多目的室に引きずり込んだ。


「何でお前がここにいる?」


「それは…」


 恐ろしい形相の浦川に睨みつけられ、知広は怖くなって目を逸らした。すると、引っ付けて三つ並べられた会議用長机の上に女性用と思われるクリーム色のサマージャケットとセカンドバッグが置いてあるのが目に入る。浦川の方を向かない知広の目線を辿り、浦川は「チッ」と舌打ちした。


「クソっ、ここで待ってろ。逃げても無駄だからな」


 浦川はクリーム色のジャケットを引っ掴み、女が出て行ったと思われる方へ、凄い勢いで走って行った。


 …先生は…まさか…


 知広はヨロヨロと、残された浦川のセカンドバッグに近寄った。何か不正の証拠が残っているかもしれない。今、知広に調べられるのは浦川のバッグだけだった。


「え?これ…」


 浦川のセカンドバッグを開けると、中から出て来たのは膨らんだ茶封筒と腕時計だった。それも…


「嘘…【PATRICKパトリック PHELPSフェルプス】?本物?」


 一年ほど前に、時計好きで有名な今をときめく若手俳優【藤河ふじかわくりす】が、富裕層向けの海外オークションで、老舗時計の最高級ブランド【PATRICK PHELPS】のアイオーンという入手困難な腕時計を数千万円で落札したことが話題になった。

 しかし、彼はそれから半年も経たないうちに不治の病が見つかり亡くなる。くりすは遺言を残していて、その時計と共に焼かれて埋葬されたということが【時計に魅入られた俳優】として、暫くニュースで騒がれていた。その俳優が亡くなる前に、入手した時計をめてあちこちで露出していたので、流行に疎い知広も、時計のブランド名と共にくりすのSNSや動画を何度か目にしたことがあった。

 それと、知広の父親もアイオーンではないが、何百万円だかの【PATRICK PHELPS】を一本持っていて、自慢していた…


 …これは【藤河くりす】のと同じ【aeonアイオーン】。


 でも、デザインが全然違うから別物か。そういえば、亡くなった俳優が動画で蘊蓄うんちくを披露していた。動画で得た腕時計についてのにわか知識を思い出して確認する。

 文字盤の12時側の上部側面に彫られた製造年は【1947】。6時側の下部側面に彫られた個別製造番号は【SBM80221986】。75年前に作られた時計…


 その金の腕時計は古かったがとても綺麗だった。文字盤中央の透けるようにも溶けているようにも見える淡い緋色の不死鳥の装飾技術は芸術的な匠の技と思われる。しかし、それだけではない。知広は不死鳥の下に丸く開いたシースルの穴から見える繊細に重なった部品の動きに目が吸い寄せられた。狭く丸い窓の向こうで、時間差の小さな渦巻きを幾重にも作り出しながら、それぞれが独立して回転している。正確で緻密。それでいて、美しい動き。


 …あぁ、この時計はいる。


 こんな状況であるのに、その極小で複雑で精巧な機械マシンの世界にはからずも心奪われてため息が出る。


「なぜ、浦川先生が…」


 この時計は普通の中学校教師が入手できるような代物ではないはずだ。


 …まさか、何か悪い事をして手に入れたんじゃ…


 とても恐ろしい考えが頭をよぎった。浦川はテストの点数を不正に操作していたみたいだった。もしかすると、この時計も犯罪に手を染めて入手したのかもしれない。そして、そのことを知ってしまった自分は…どんな目に合わされるかわからない。


 …逃げよう。


 どうしていいかわからなかった。両親はあてにならないが、朋也達なら何とかしてくれるかもしれない。知広は時計と封筒を元通りバッグに戻すと、急いで多目的室を飛び出した。

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