第一章:日善中学校

第1話 奇妙な答案

 西和せいわ市立いちりつ日善ひよし中学校三年五組。

 運動音痴の出席番号11番【久保くぼ知広ちひろ】は、自分が投げたボールの行方を見届けた後、おそるおそる前方に立っている少年の様子をうかがった。予想通りというか、当然というか…体育の授業のソフトボールで、知広とキャッチボールのペアを組まされた出席番号12番【高坂こうさか朋也ともや】はうんざりした顔をしていた。


「おい。ふざけるな」


 朋也が苛立いらだつのも無理ないなと思う。知広だって、正しい投球という行為がよくわからないまま、気合いだけで放ったボールが、向こう側にいる朋也のグラブまで無事に届くとは、これっぽっちも思っていなかった。しかし、向かい合った二人の中間地点…ド真ん中にポトリと落ちた後、ピタリと静止するとも思わなかった。


「誰もいないド真ん中で勢いを殺すな。バントじゃないんだ。せめて、こっちまで転がせ」


「ごめん。あのさ、バントって、何?」


 知広の発言に朋也は驚いた様子だった。いつもはキリリと一文字に引き結ばれた唇も、無防備にぽかんと開いていた。いつもクールな朋也にしては珍しい。

 実はソフトボールの授業はもう2週間目に突入し、すでに他クラスとの合同授業に入り、クラス対抗の試合も経験している。もっとも、知広はベンチならぬ地べたで控えていたから、試合には出ていない。


 それにしても、ソフトボールを含めた球技というのは、いっぺんに大勢が出て来て何かをするし、イレギュラーなことばかりが起き、必ず途中でクラスメートの何人かが興奮して怒鳴ったりするのが恐ろしい。何より解説書付きでないのが本当に困る。覚えた法則に準拠しなければ、どう動いていいのかがわからない。

 もう一度、チラ見すると朋也がこちらを睨んでいた。知広はビクッと肩を揺らす。切れ長の鋭い目をした朋也の顔は怒っているように見えた。


 …朋也くんて、本人は否定するけど、絶対お父さん似だよね…


 知広は朋也の父親をニュースの報道で見たことがあるが、精悍な見た目で…男の色気があるというのか抜群にいい男だった。朋也によると【猿山のボス猿並みに女にモテてた】らしい。

 ところが、男性ホルモンのテストステロンが供給過多だったのか、エロ魔人だったかは知らないが、二年前に子供の学校関連の知り合いを含む複数の女性への性的暴行の罪で捕まって、今は檻の中にいる。

朋也の母親は逮捕直後から離婚準備を進め、当時、小学校低学年だった妹だけを連れて出て行ったという話だ。朋也は脳梗塞の後遺症で体が不自由な父方の祖父に引き取られて暮らしている。


 父親の犯罪歴もあって、女子達は朋也には決して近付かないが、入学して間もない時に、同じクラスで席が近く、読書の趣味が合ったことで知広は朋也と親しくなった。三年で再び同じクラスになってからは、以前にも増して行動を共にしている。朋也は無愛想で人を寄せ付けない雰囲気はあるが、実は真面目で…優しい。


 六組の粗野で体がデカい【畑中はたけなか大輝だいき】や、二組のチャラ男【大野おおの悠真ゆうま】もそんな朋也に惹かれて集う仲間だ。この二人は決して素行も成績もいい奴ではないが、運動音痴で流行りを知らない学年カースト下位であろう知広にも悪意を向けず、気安く接してくれるのが有難い。


「知広なぁ…バントも知らないなら、試合見てても何してるか全然わかってないだろ?」


 二人の間に落ちたボール拾って、近づいてきた朋也が呆れた口調で問うた。近くで見ると、寄せられた眉の下の目は困惑の色を浮かべている。


 …怒ってたんじゃなくて、呆れてたのか。


「そうだね。でも、朋也くんが凄いのはわかるよ。投げても打っても捕っても」


「はぁ?俺だけ見ててわかるかよ。全体見て、何やってるか把握しろって」


「あはは。つい目で追っちゃってさ。ごめん」


 知広の口癖は【ごめん】だ。いつもいつも謝っている。それは朋也に限らず、他の人間に対しても、だ。謝らなくていいことまで反射的に謝る。卑屈で自信の持てない自分が嫌になる。

 ちょっとの間、知広はぼんやりしていたらしい。朋也が知広の背中をバンと叩いたことで、ハッとする。


「集合だ。行こうぜ」


 準備運動を兼ねたキャッチボールを終わらせたらしい五組と六組の男子らがゾロゾロと集まって行く方向を朋也が指で示す。

 知広と朋也がグズグズしていたので、見咎みとがめた体育教師の原センが「早く来い」と、がなり立てていた。原センは気が短い。原センの説教で試合中止…になって無関係なクラスメイトらにとばっちりがいくことは避けたい。オロオロとそんなことを思っていると、隣にいたはずの朋也はもうクラスの男子集団に向かって全力で駆け出していた。朋也は陸上部に混じっていてもおかしくないくらいの俊足だ。


「朋也くん、足速っ」


 思わず呟き、知広は慌てて遠ざかる朋也の背中を追った。


 放課後、知広は朋也に声を掛けようと探した。しかし、終礼のチャイムと同時に教室に飛び込んで来た生徒に先を越されてしまう。


「くっそ、朋也。最後の一本くらい打たせろよ」


「クラス対抗だろが。俺は手は抜かない」


 朋也を押し潰す勢いで、ふざけて背中に伸し掛かっている大きな男子生徒は、隣の六組の【畑中はたけなか大輝だいき】だった。大輝は膝に酷い怪我を負わされて、強豪クラブチームをやめるまでは、県下で名を馳せる優秀なサッカー選手の卵だったという。身長は180cm近くて体格に恵まれたフィジカルの強い将来有望な逸材だったという話だ。


 今日の体育の合同授業は五組対六組。最後にピッチャー交代で出て来た朋也とバッターの大輝の一騎打ちとなり、結局、大輝は朋也のボールを打てずにアウトになったようだ。五組が勝利した…のだと思う。


「な、朋也、俺んち来いよ。ゲームでリベンジしてやるぜ」


「お前んちの母さん、俺のこと嫌ってるだろ」


「関係ねーよ。ババァが何か言ってきたら、また壁に穴開けてやらぁ」


「穴、何個目だ?」


「みっ…わわっ」


 答え掛けた大輝の体がクルリと反転する。次の瞬間にドンと鈍い音がして、床を見ると大輝が転がっていた。


「重い!うぜぇ!暑苦しい!」


 ニヤリと唇を吊り上げた朋也ともやが仁王立ちで大輝を見下ろしている。どうやら大輝を床に投げたのは朋也らしい。大輝の方も床に大の字に寝そべり、朋也に向かって腕を突き上げて「くっそー」と言いながら笑っていた。


「行ってやる。ただし、爺さんがデイサービスから帰る五時までだ」


「そうこなくっちゃ!よっしゃ、朋也をガンガン撃っちゃる」


「協力しないのかよ」


「今日は対戦。お前をボコる」


 大変やかましい会話だったが、他の連中はそんな二人を無視している。それもそのはず…今日は先週受けた期末テストが返却され、教室内の受験生達はピリピリしていた。今後の成績で進路が決まる。家の事情で進学すら危うい朋也や、幼少からサッカー漬けで勉強はからっきしの大輝など、相手にするはずもなかった。

知広にしても、普段は仲が悪くて、自宅に寄り付きもしない両親が、知広の進学についてだけは共に口を出し、県下トップの西和せいわ高校に入るようにと妙な圧力をかけてくるので、成績と内申点を下げるわけにはいかなかった。


 ところが…中二の学年末テストに引き続き、今回の期末テストにも妙なことがあった。前回は気の所為せいかと無理やり思い込んで涙を呑んだ。でも、二度も続くのは変だ。友達として最も信頼のおける朋也に相談したかったが、大輝の登場で声を掛けるタイミングを失ってしまった。知広は仕方なく手元の青色ファイルを眺める。ファイルに挟まれた悩ましい答案が薄っすと透けて見えた。


知広ちひろ、どうした?帰らないのか?」


 気づくと、教室内は朋也と大輝と知広の三人だけになっていた。どうやら、知広がなかなか帰る仕度をしないのを気にして、朋也の方から声を掛けてくれたらしい。


朋也ともやくん…」


 朋也は手元のファイルを見て、事情を推察したようだった。


「点数良くなかったのか?」


「うん…何か変なんだ。数学と英語」


「点数が間違ってるのか?」


「ううん。書いたはずの答えが…消えてる」


 答案を見せながら知広は朋也に話す。全部埋めたはずなのに、数学の応用問題の途中式の一部が書かれておらず、中央の穴埋め問題に空欄が一つある。英語の左下の端の解答欄が二つ空欄になっている。


「どう考えても書き損じはなかった。それに見て。ここも、ここも…書いた跡はちゃんと残ってる。朋也くんは信じてくれる?」


 今回の期末テストはおかしな引っ掛け問題はなく、知広の見立てではノーミスで満点をとってても不思議はないと思っていた。答案を取り上げて、斜めに見たり、光に透かしてみた朋也は知広の言うことを信じてくれたようだった。


「ほんとだ。跡が残ってる。じゃ、誰かに消されたってことか?先生に抗議しろよ」


「…やっぱりそうした方がいいよね」


 知広は不安だったが、朋也の言葉に小さくうなずく。


「今回のはひねった応用はなかったろ?知広なら見直す時間もあったよな?」


「もちろん。ちゃんと見直したよ」


 傍で朋也とのやり取りを見守っていた大輝が「みんなで行くか?」と言ってくれたが、朋也が「俺達がついて行くと、逆に印象悪くなるぜ」と、肩をすくめて止めた。「それもそうだな」と、大輝も納得する。


「二人ともありがとう。一人で行ってみる」


 知広がそう伝えると、二人は気掛かりな表情で「直してもらえるといいな」と、知広を残して教室を出て行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る