知らない景色①

 沈みゆく月を背に、魔獣の蠢く森を行く。

 側面を掠めた光弾に目を焼かれながら、登り坂へと脚を掛ければ、地面が急に沈み込んで転倒する。


「っ、くそ!」


 前へ出る。

 子どもの身体は小さい分、転んでもすぐに起き上がれる。

 身体を使う感覚は鈍り切っていたが、身軽さはこの上ない利点だった。


 そうして逃げる僕の背後で、無理をして飛び出したエミリーが再び飛来した光弾を打ち払う。

 手には剣。

 僕が魔力で糸を編んだ様に、エミリーもまた魔力で武器を打ち上げた。

 形は歪で拵えすらない、稚拙なものではあったが、その行動に何度も命を救われた。


「…………っ」


 また、だ。

 また僕は、彼女に守られている。


 未来の知識がある癖に、子どもならざる思考が出来る癖に、本能というのは拭い難く咄嗟の判断を規定してくる。


 積み上がった問題や厄介を前に、逃避・思考放棄は昔からの悪癖だ。

 問題は誰かに押し付けて、その結果の責任も誰かに負わせ、自分は高い位置で守られるまま被害者ぶって。

 分かっているのに咄嗟の行動が出ない。

 戦える力があるのに逃げを打ち、無駄に追い詰められていく。


「ほらほら、もっと逃げないと危ないですよ。休んでいる時間はありません。このままでは減点だ」


 クリオス卿は森の中であっても平然と追ってくる。

 地形を変化させることが出来るからだ。

 僕らは荒波みたいな地形を行くのに、追う彼は均した地面を踏んでくる。加えてこれが彼の領域の効果なのか、妙な息苦しさや手足の痺れを感じていた。


 物陰へ飛び込む。

 けれどさしたる時間は稼げない。


「うんうん、いいですねえ。相手からどう見えているかを考えるのは、戦闘に於いて重要なことですよ。未熟な者ほど、相手を度外視して自分がどう動きたいかだけを考える」


 粘土を捏ねる様に、簡単に地面が抉られる。

 直後に飛んでくるのは光弾だ。

 分かり切っていた攻撃に蜘蛛の巣を巡らせて受け止める。だが、それすら見越して上空へ放った弾が落着した。

 反応したのはエミリー。

 剣で打ち払おうとするけど、足場が崩れて受ける位置がズレる。

「っ、っっ!」

 手首が、腕が捻じれる。

 逸らし損ねた光弾は僕らの足元で弾け、熱した油を浴びせ掛けられた様な痛みが全身を襲う。


「ほら減点だ。よぉく観察して、相手ならどうするかを想定すれば分かるでしょう?」


「ぐ、ぁああ!! ああっ!」

「……、っ!」


 怯んだ僕の身を掴んでエミリーが走る。

「駄目っ、無理しないで、エミリー!」

 言っても聞かない。

 最早喋る事もせず、延々と繰り返される攻撃から僕を庇う。


 いつかの様に、彼女はやっぱり……。


「おや、上手く隠れましたね。どこに居るのかなあ? 一度で正解を引けるでしょうか、それっ」


 飛び込んだ窪地に小さな川が流れていた。

 上流から下流へ、長く窪んだ道が続く。


 僕は妨害の糸を張り巡らせつつ、下流へ向けて一直線に駆けていく。脚を怪我している癖に、当たり前の顔をして後ろに付ける少女に苛立ちすら覚えながら、この下らない追いかけっこの終着を悟った。


 随分と前から分かっていたことだ。

 これは追い込み。

 捜索隊から離れる様に、派手に騒いだとしても気付かれない様に、森の奥地へ誘導されている。

 あの場所を王子殺害の現場にしようと考えていた彼の事だ、多少は周辺の調査をしたんだろう。つまり僕らは今、魔獣の巣か縄張りへ向かって逃げ続けている。そうして喰わせた上で死骸を回収し、不幸な事故として報告する。


 分かり切った終わり。

 崖へ向かって飛び出していくのに等しい。


 やるべきことははっきりしているのに、だって今すぐでは無いから、今はまだ逃げていられるからと背を向けている。


 人は疲れ続けるよりも死を選ぶこともある生き物だ。

 だって楽だから。

 待っていて一方的に訪れる死よりも、自ら動いて疲れる方が苦しいから。


 馬鹿は死んでも治らない。


 本当にその通りだ。


 手は残されているのに、僕はずっとそれを躊躇っている。

 疲れるから。

 苦しいから。

 今はまだ、エミリーが守ってくれているから。

 クリオス卿が適度な余裕を与えてくれているから。

 そうして守りを失い、追い詰められて、殺しに転じてきた彼を見て、ようやく思い知る。あの時苦労しておけばよかった、楽な時に楽をするのではなく、楽な時に苦労をして、苦しい時を少しでも楽に出来ていれば、なんて。


「っっ、っ!!」


 振り返る。

 脚を止める。

 全力で魔力を振り絞り、ばら撒き続けてきた蜘蛛の巣を一点へ引き寄せる。


 河原へ降りてきたクリオス卿を包み込む様にして網を織り、締め上げた。

 だが。


「っほう! 実に素晴らしい!」


 感嘆一つで斬り捨てられた。

 彼もまた僕と同じ『告解』型だ。

 他者の魔術を侵食して弱体化させる力に秀でている。

 それにおそらく、糸を編む僕と、彼の魔力性質は相性が悪い。


「ははは、いやあ今のは驚きましたよ。本当に惜しい。私の手で貴方を育ててみたかった。きっと一流の魔術師にして差し上げられたことでしょう」


 振るった彼の手に流体が纏わり付き、細く長い剣を形作る。

 地面を蹴り、追い付くのは一瞬。


 眼前で大量の魔力光が弾けた。


 受け止めるエミリー。だけど、脚の踏ん張りが効いていない。いやそもそも体格が違い過ぎる。多少魔術で力が拮抗出来たとして、姿勢の不利は致命的なほどに彼女を押し込んでくる。


「貴女もまた優秀な戦士だ。懸命に彼を護ろうとする姿、見ていて思わず感じ入るものがありました。ですがやや力任せ、がむしゃらが過ぎる所は減点ですねぇ」


 痛めている右脚を追い込む様に力を掛け、下がろうとすれば更に押し込んで封じてくる。

 彼女の背後から飛び出し、側面から攻撃を仕掛けようとした僕は呆気無く弾き飛ばされ地面を転がった。


「いけないいけない。今のは驚きましたが、手口が拙いですね」

「……くそが」


 頬に擦り傷が出来た。

 血がにじむ程度の些細なものだ。

 だけど痛みは痺れを伴い、視界を明滅させる。

 あぁ、いい加減はっきりしてきた。この魔力の性質が。


 身を起こし、ふら付きながらも前を見た。


「貴方の魔力は流体化に適している。そうだな」


 エミリーと鍔迫り合うクリオス卿へ向けて、彼が好みそうな話題を放り投げる。

 周囲に漂う魔力光、魔術行使によって発生する残りカス、それを盛大に撒き散らしていく。


 出世頭の青年は、そう周囲に見せかけたいのだろう温厚な顔をこちらへ向ける。


「よく分かりましたね。素晴らしい。えぇ、私の魔力はよく物体へ染み込みます」


 地形の変化、着弾と同時に飛び散る光弾、そして僕とは相性最悪な染み込む性質。

 なにより剣を形作る所をわざとらしく見せ付けてきたじゃないか。

 自分の出した問題を、自分の想定した通りに解いてみせた生徒を見て、満足げに頷いて見せた。


「ユレイン様には本当に申し訳ないと思っているのですよ? まさかここまで相性が良かったとは。貴方の編んだ糸に、私の魔力は良く沁みる。腐食、綻び、あらゆる弱体化が実に効果的でした」


 それで? と彼は問う。


 設問を終えて、答え合わせをし、その上であからさまな大仕掛けを繰り出そうとしている僕を前に、採点者を決め込んでいる。


「随分と走った。月灯かりももう薄くなっていて、気付けばそろそろ夜明けじゃないか」

「えぇ、私もやるべきことがありますので、そろそろ戻りたい所ですね」

「地形変化で隠した檻や死体が見つかると困るだろうからな。しかもここまで派手に地形を均してきた。後ろ手に誤魔化すのだって手癖が出る。誰かに気付かれたらここまで追跡される危険だってある。ここで仕掛けてきたのだって、川原なんていう分かり易い地形を変化させれば、明らかな痕跡になってしまうからだ。あるいは元からある流体自体には干渉できないのか」


 耐えるエミリーを打ち払い、彼は顎へ手をやった。

 想定外の回答に対して、何点を付ければいいのかと悩んでいるのかもしれない。


「ふぅむ。では貴方は……もしかしてここで援軍がやってくると踏んで、時間稼ぎに打って出たと? だとしたら落第だ。そんな痕跡を私は残さないし、周辺の警戒だって怠っていない。誰も居ないんですよ、ユレイン様。貴方を助けてくれる人なんて、この近くにはどこにも」


「あぁそれは良かった」


「うん?」


 溢れ出す魔力光が粉雪のように周囲を漂っている。

 だからこの状態なら誤魔化せる筈だ。

 情報は秘匿したい。誰かに知られたら、その瞬間から貴族の時代は終わってしまう。


「クリオス卿。あんたは人目に付かないよう僕達を追い込んでいたつもりなんだろうがな」


 本当はその通り。

 この期に及ぶまで決断一つ出来なかった馬鹿が、引き伸ばし続けた切り札だ。

 だけど条件が満たせていなかったのも事実。

 捜索隊から十分に離れた状態、つまりクリオス卿が多少派手に暴れても誰にも気づかれない状態でも無ければ危険だったから。


「追い込まれてやったんだよ。他の誰も巻き込まない為になァ……!!」


 

 

 !!


「ごっ、が、は……っ!?」


 瞬く間に全身からラストが溢れ、言葉を発しようとした口から大量の血か溢れ出た。

 クリオス卿へ向けようとした腕が異常な程に強張り、瞬く間に腱が切れた。

 激痛すらどこか遠く、過負荷を受けた脳が意識を押し流そうとする。


 出力を誤った。

 いや、一度目ではっきりしていたことだ。

 子どもの身では耐えられない。

 成人していてさえ限界状態だったものを、魔力量だけ膨大で、感覚の追い付いていない、肉体の完成していない幼少の身で扱える筈も無かったんだ。

 平民程度なら、あるかどうかも分からない様な魔力量であれば問題は無かった。

 だけどこの身は七大貴族の血を引いている。

 高い魔力を持つほどに高位の貴族とされるこの国で、僕らはあまりにも新式に向いていない。


 だとしてもやる。

 このままじゃあ死ぬだけだ。

 死ぬのは御免だ。

 疲れるより死ぬ方が楽だって?

 そうじゃない。

 そうじゃないんだよ。

 死んで、何も成せなくなる方がずっと辛い。

 それを俺は知っているだろう……!


「ぁぁ、ぁああ゛あ゛あ゛っ!」


 吹き出す錆と共に糸を紡ぎ、腕に巻きつけ、皮膚へ差し込み、力任せに抑えつける。

 『告解』の特性は弱体化。

 本来なら敵へ向けるべき力を己自身へ。

 そうしてようやく僕は新式の魔力精製に耐えられる。

 あくまで数分の事だ。

 それも成人していた状態でだとするなら、今は十秒あるかどうか。


 喪失の感覚が蘇ってきた。

 錆を貯め込んだ者が引き起こす、白化現象。その先に起こり得る変容。人が人ならざる者へと転化する、怖気を催す景色を、何度も見てきた。

 あんな風になるのは嫌だ。

 僕は人間でいたい。

 だけど。



 かつて僕を護る為に背を向けて、擦り潰されていった少女を見る。

 それが未来の、身に付けた力あるからこそのことではなかった。彼女はあろうとなかろうと誰かを護ろうとする。

 だからさ。

 あまりにも僕らしくない、不確かな言葉で願う。

 この状態で戦える十秒足らず、その貴重な時間を使って。


!!」


 即座に彼女は身を引いた。

 僕が異常な魔力を放っているとか、そういう理由じゃない。もっと単純に、求められた言葉だけを理解して、頷いてくれた。


 だから僕だって、立ち向かえる。


「なんだ…………………………………………なんだなんだなんだなんだっ、なんだそれは!? 化け物!! 人間じゃない! そんなっ、そんな力を人間が振るえるものか!!」


 目標を捉える。

 身体強化を施し、一歩を踏み出した。


 景色が後方へ吹き飛ばされ、気付けば僕はクリオス卿の遥か背後に回って己を制動していた。

 突進の余波だけで森の一角が丸ごと吹き飛び、減速にさえ長い距離を要する。

 横をすり抜けただけなのに、彼が展開していた守りが徹底的に粉砕され、本体が石ころみたいに転がっているのが見える。だが、仕留めていない。


 狙いを外した。

 力があり過ぎる。

 けどこの位置なら。


「ひぃぃぃやあああああ!? なんだっ、そんな! 理解不能だ! ふざけるなクソガキが! そんな設問を私は用意していない! 私の解答から外れるんじゃない!」


 手を翳す。

 糸で全身を雁字搦めにし、無理矢理に狙いを定めて、ただ放出する。


「くるなっ、くるなくるなっ、化け物があああ!! ああっ、た、たすけ――――」


 濁流と化した無数の糸が、そのままクリオス卿を押し包んでいく。

 悲鳴はすぐに、聞こえなくなった。


    ※   ※   ※


 朝日に溶けていく魔力光。

 それに交じって醜い赤錆が生じていた。


 力尽きて膝を付いた僕は、失せた魔力糸に埋もれていたクリオス卿が、どうにか生きているらしいことを確認する。


 もう限界。これ以上の行使は本当に命に係わる。

 今だってどんな後遺症を抱えるか分かったものじゃないんだ。

 子どもに百キロ二百キロの荷物を背負わせて山道を歩かせたようなもの。どこかイカれて駄目になる。


 身体が急激に冷えてきた。

 手足の感覚が無い。

 平衡感覚を失い、垂れた鼻血が口元へ流れ込む。とっくに血の味しかしなくなっていたのに、妙に甘く感じられた。きっと味覚もおかしくなっているんだろう。


「はは……」


 だけど、守れた。

 ちゃんとエミリーを守れたじゃないか。


 そうさ、最初から分かっていた。

 新式を使えば勝てる。自滅しない算段だってあった。あとは、条件が揃うのを待つだけで、その流れも上手くいった。怖くて、しんどくて、決断を後回しにはしたけど、上手くはいった。

 この力はきっと僕の切り札になってくれる。

 他の誰にも教えず……あいや、エミリーは、うん、大丈夫だ、黙っててくれる。理論だって分かっていないだろう。

 でもこれ、学の無い平民でも簡単に習得できるくらい、単純な方法だからなあ。

 あまりにも簡単過ぎて、新式が世に出てからしばらく、高名な魔術師様とやらが散々否定して、広まるのが遅れたくらいだ。


 まあでも、今はどうでもいい。

 温かいベッドが欲しい。紅茶が飲みたい。母上のポトフが食べたいな。あぁ、これが終わったら、ちょっと我儘を言って会いに行かせて貰おう。

 それで。

 それで――――。



 獣の咆哮が鳴り響く。



 そうだ。

 僕らは魔獣の巣へ誘導されていた。

 あれだけ近所で大暴れしたんだから、気付かれて当然だ。

 縄張りを荒らされた獣は果敢に挑んでくる。この寒さの中で巣を失えば死ぬだけだ。文字通りの命懸け。

 そうして森の奥から大挙して現れた獣の群れを、横合いから伸びてきた何かの腕が掴み取り、握りつぶした。


「…………はあ?」


 突然、身構えていたことに理解不能な出来事が重なって、呆けた。

 僕なんかよりよっぽど恐ろしく見えたんだろう、魔獣達が矛先を変えて、いや、既に逃げ始めている。

 それを森の中から伸びる無数の手が次々と掴み取り、握り潰しながら薄闇の中へと引き摺っていく。


 なんだあれ。

 魔獣は、分かる。

 猪が変異したものだ。

 異常な体躯も、牙も、図鑑を調べれば絵図くらいはあるだろう。

 だけどあの、介入してきた化け物はなんだ。


 獲物を追い掛ける為にか、木々をなぎ倒しながら這い出てきた存在を見て震えがきた。


 体毛は熊に似ている。

 なのに胴が、手足が半端に細い。

 まるで熊を人間へ寄せようとしたみたいに。

 その癖全長はそこらの大木ほどもある。

 長さが揃っていないからだろう、不器用な四足歩行で這いずりながら、体毛の隙間から気色の悪い触手が伸びて周囲へ片っ端から喰らい付いている。

 その触手から落ちる、見覚えのある赤錆はなんだ。


 理解が出来ない。

 尋常な生き物じゃない。

 魔獣ですらアレに比べれば雛鳥に思える。


 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!! と、何処か人間を思わせる声帯で化け物は叫ぶ。


 まさかアレが檻の中身?

 いや大きさが違う。だけど、開いた口から覗く牙は、あの乱雑な破壊を思わせるのに十分で。


 なんだ。

 何が起きている。

 普通じゃない。

 はこんなの居なかった。

 居る訳が無い。

 だってあれじゃあ、まるで。


 まるで、転化した人間じゃないか。


 魔境の主じゃないのは明らかだ。あんなのが居たら、だって木と同じ高さに頭があるんだ、遠巻きにでも目撃例は山と出る筈。

 じゃあなんで居る?

 ついさっき、あるいは数日中に、発生した?

 分からない。分からない。理解できない。

 ほんの少し前に同じ様な言葉を聞いた気がした。

 結局同類。

 自分に理解できる範囲で、自分に処理できる範囲で、優秀な結果を納めてきた人間の思考。生まれながらに地位が高ければ、それは多くの虚飾を得て天まで跳び上がるだろう。


「…………はは」


 クリオス卿の相手は勝算があった。

 だけどアレは、あの意味不明な化け物はなんなんだ。


「くそが」


 呟きが聞こえた訳でもないだろうが。


「っ……!?」


 化け物が、こちらを見た。

 狙いを定め、前足に力が篭る。

 来る。


 目の前にあるのは恐怖だ。


 新式の力は絶大だ? いいや、それでも敵わなかった相手は居る。だからこそ僕らは捕まって、首を落とされたんだから。何一つ過信は出来ない。

 それ以前に。

 自分を捕食しようと迫る獣のような何かを見て、単純に心が挫けた。


「ぁ、ぁ、ひひっ」


 逃げる。

 いつかのように。

 今までの様に。

 勝てる戦いだけは適度に拾って、不明な場所へは踏み込まない。


 そんな僕と、化け物の間に、踏み込んでくる影があった。


「あ…………………………………………………………………………………………」


 いつか見た光景だった。

 逃げる僕を背に負って、死へと立ち向かう少女エミリーを見送った。


 


 あの時僕は、だって彼女が死んでしまうなんて思わなくて。


 


 また会える。

 だからその時こそ、伝えてくれた好意に返事が出来ればって願って。


 


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 見送った記憶は捏造だ。

 罪悪感から僕が勝手に作り上げた、誤魔化しにもならない嘘。

 お前は初めて自分を、心から好きだと言ってくれた女の子が、分かり易い死地へと向かうと知って、その別れからさえも逃げたんだ。

 卑屈に笑って、見ないふりをして、そんなことよりも早く逃げたいって背を向けていた癖に。


 


 こんな景色、僕は知らない。


「っっっ、ああああああああああああああああああ!!!!!!」


 死へ向かって駆けていこうとする少女の肩を掴み、前へ出る。

 視界は涙で一杯だった。

 怖い。苦しい。逃げたい。


 なのに、その死から背を向けることだけは絶対に出来なかった。

 こんなにもくそったれな僕を庇って死んだ、一人の女の子を見捨てるなんて。


 姉上が見ている。

 首桶に落ちて尚、どうしようもなく自分勝手でクズな弟を、ただ慰める為だけに笑って死んだ姉上が、今もずっと僕を見ているんだ。

 あの笑顔に報いなくてどうする。

 あの笑顔を守らなくてどうする。

 不器用で、本当の笑い方さえ知らなかった、とても身近にいた女の子が、心の底から笑える様に。


 そうして先を見た。


 打ち倒された木々の向こうに聳え立つ理解不能の化け物、その向こうにある、胸を焼くほどに美しい光の景色を。

 夜は明けた。

 この身はもう踏み出している。

 後は障害を打ち払うのみだ。


 魔力炉を換装す――――――――――――、この先には終わりしかない。

「――――――――」


 それが、どうした!!


 旧式から新式へ。

 高純度の魔力を無理矢理絞り出し、掴み取ったのは大槍。

 糸を紡ぎ、形状を織り成した僕の武器。先ほどの力任せな魔術行使とは訳が違う。

 ほつれた糸は引き千切った。

 だからか、異常なほど魔力が身体に馴染む。

 いずれ解けて千切れる世界だとしても、紡いだ時間に嘘はない。


 地面を叩く様にして駆ける人外の化け物を見据え、踏み込んで、


「いっけぇぇぇぇえええええええええ!!」


 投擲する。

 森を叩き、空気を貫き、音すら置き去りに放たれた大槍は、迫る巨体を撃ち抜いて、その存在全てを消し飛ばした。


 開けた景色の向こうで、涙に濡れた陽光が燦々と降り注いでいた。



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