魔境にて①

 呼吸が上手く出来なかった。

「っ、あ゛! ああ! っ、ひ! はあ!!」

 手足が震え、涙が溢れて、間接全てが錆び付いたみたいに硬くなっている。


「ああああああ、あああああああああああっ!」


 生きている。

 なんでか生きていた。


 崖上から放り投げられ、そこに居る者が麦粒よりも小さく見える様な距離を落下して、どうして僕は生きているんだ。


 咄嗟に生きようとした。

 普段子供らしく見せる為に手を抜いていた魔術を全力で使用して助かろうとした。

 だけど、咄嗟に僕が使ったのは旧式の魔力精製ではなく、炉心革命以降に開発された新式だ。

 比較にならない程の精製量と純度によって、貴族が受け継いできた魔術の適正すら容易く呑み込み、錆び付かせたあの。

 僕ら貴族は、高位であればあるほど、生まれながらの魔力量が優れている。それは幼少期ですら下位の熟達した魔術師を上回る程だ。

 だから咄嗟に使用した新式の出力は瞬く間に僕を苛んだ。


 落下して死ぬよりも、更に恐ろしい白化現象が、その前段階となるラストの発生すら引き起こした。


「ぁああっ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だああ! 化け物になんてなりたくない……僕は人間だ、あんな化け物なんかに……ぁああ!」


 僕の持つ『告解』の属性は新式にある程度は適応出来る。

 だが、所詮はある程度の範疇に過ぎない。

 不意の行使で出力を誤った上に、この身体はまだまだ成長途中、成人後の感覚では使えない。


「誰かぁ、誰か助けてくれ……僕は…………僕はっ」


「あぁ、うん。良かった、無事みたい」


 泣き叫ぶ僕の背を撫でる手に気付いた。

 それはまだまだ小さかったけれど、いつか差し伸べてくれた手と同じ人のもので。


「……………………エミリー?」


「うん。何も考えず飛び出したけど、上手くいって良かった」

 温かな感触が僕を包み込んでいる。

 彼女の手が背を撫でる度に、それと意識するだけで、あんなにも乱れていた心が落ち着いて行く。

「助けて、くれたの……?」

「うん。当然でしょ」


 にこりと笑ってみせるエミリーに心底安心出来た。

 情けない、恥ずかしい、けれど、本当に恐ろしくて仕方なかった。

 味覚のみならず、感性や感覚までも退行しているのは理解していたが、潤む瞳だけは慌てて拭き取る。

「ふふ」

「み、みないで」

「はぁーい」

 茂みを背に、地面との間に挟まる形で彼女は僕を抱いていた。

 『契約』の属性なら身体能力を爆発的に向上させることが出来る。確かに、あの崖を降りろと言われたなら、不可能じゃないだろうけど。


「っ怪我は!? エミリー、怪我してない!?」


 ようやく今の状態を理解し、慌てて彼女から離れて肩へ触れる。

 小さな肩、身体を動かすのが上手だといっても、子ども一人抱えて降りてきたのだ。


「平気。最後に姿勢が崩れちゃって、ごろんって茂みに寄り掛かっちゃっただけだから」

「本当に……?」

「うん。ほら、痛くないよ?」


 立ち上がって、左脚で地面を蹴り、肩を回して見せる。

 顔にも、見えている肌や衣服にも、傷らしい傷はない。

 精々、雪が付着しているくらいだ。


「良かったぁ…………」


 心底安心してへたり込む。

 お尻が冷たくなるけど構うもんか。

 本当に、エミリーが無事で良かった。


 それに僕も無事だ。


 心に余裕が出来たことで、改めて崖を見上げる。

 向こうで手を振っているのが分かった。顔も判別出来ないが、父上や姉上が居るのは間違いないだろう。

 そして、


「あれは……」

「うん。魔鳥の巣が途中にあったよ」

 崖の半ばに相当数の鳥の姿が見えた。

 ここからだと小さく見えるが、実際はかなりの大きさだろう。

 落下したということは、僕はあの巣を通り抜けてきたんだ。まったく記憶に残っていない。

「よく無事だったね……」

「ちょっと乱暴にしちゃった」

「……そうなんだ」


 エミリーはたまに、いや結構頻繁に凄い事をする。


 距離も近くて人数が多い為か、今は崖上に気が向いていて、そのせいで騎士達も降りては来れない様だった。


「あれがこっちへ向かない内に、一度崖からは離れた方がいいよ」

「あぁ、うん。そうだね」


 手を引くエミリーに従って、僕らは樹海へ入っていく。

 八年後には切り拓かれて鉄道が通っている、魔境と言われた場所。

 今は、それこそ魔獣達の巣だ。


「そうだね、逃げなきゃ」


 ここなら追っては来れない筈。


「よし。逃げよう。もっと、遠くへ」


    ※   ※   ※


 幸いだったのは、あの魔鳥の巣があった為か、崖付近には他の動物が見当たらなかった。

 しかも雪の大半は大きな木々が受け止めてくれているので、森の中で雪に足を取られることは少なかった。高所から降りたので、気温だって少し上がっている。


「エミリーは、魔獣の性質って分かる?」

「少しだけ」


 手を繋いで歩きながら、そんな事を話す。

 通常の獣と魔獣との違いは、平民と貴族の違いに似ている。

 格式を重んじる者ならば目を怒らせ否定する話だが、ある程度の分別があるなら当然と知っていること。


「土地や自然の中にも魔力はあって、僕ら人間も、獣も当たり前にそれを摂取してる。大地から力を吸い上げて育つ植物、例えば小麦とかにも」

「うん。授業で習ったよ」

「僕ら貴族は、大昔のまだまだ神秘の濃かった時代に、精霊とか妖精とか、そう呼ばれている存在と契約して肉体へ取り込んだ。彼らは魔力の塊だ。だから貴族は平民とは隔絶した魔力量があり、世界を支える柱としての責務によってこの国を統治している」


 ただ、魔力とは人体にとって本来異物だ。

 何世代も重ねてきた事で馴染みこそしたが、過剰な使用によってラストを生じさせる。

 今でこそ極めて優秀な、極一部の魔術師にのみ発生する現象だが、いずれはほぼすべての貴族を苛む災いとなる。


「いつしか僕ら貴族は魔力を自ら精製できる魔力炉を備える様になり、それを制御して、体系化し、思う侭に振るえる様になった。けど獣は違う。奴らは常に身体の中で暴れる魔力に犯されていて、使い果たしたなら死ぬしかない。だから魔獣は皆狂暴で、新しい魔力源を探し続けてる」


 平民と言えど多少の魔力はあり、貧弱だが炉も備えている。

 人が魔獣に襲われる事件が絶えないのは、そういう理由だ。


「えっと……それじゃあ、ここは結構危ないの?」

「ん……大丈夫だよ。並の魔獣なら僕がやっつけるから」


 我ながら見栄を張ったものだと感心する。

 あんなに泣き叫んで、助けて貰ったのに。

 まあ、エミリーを死なせる訳にもいかないからな。


 さっきは慌てて新式を使ってしまったが、旧式でだって魔力量だけなら僕はエミリーより上だ。

 問題はこの身体じゃあ、かつての様に繊細な制御が望めないことか。


「ふふ……うん、ありがとう」


 あぁ、エミリーがすっかりお姉ちゃんの顔になっている。

 情けない姿を見せてしまったからだろう。


「大丈夫ですから」

「そぉお?」

「魔獣を見付けたら、まず僕に任せて下さい。やっつけます」

「そう」


 そうだよ!


 くそう。今になって醜態が恥ずかしくなってきた。でも本当に問題はない筈だ。流石に主と呼ばれるほどの個体と遭遇すると危ないが、所詮は獣、手玉に取る方法は幾らでもある。


「じゃあ偵察しますから、ちょっと待ってて下さいっ」


 張り切って魔力炉に火を入れた。

 新式ではなく旧式。あれに比べればもいい所の精製量だが、本来魔術はこの程度で十分なんだ。

 循環する魔力が全身を刺激し、活性化させる。


 舞い広がる魔力光も僅かに、僕の肉体は人間のものから魔術師へと切り替わった。

 そうして足元へ手を翳す。


「糸……?」

「はい。僕の魔力は糸を編むのに向いています」


 指先から伸びていく魔力の糸にエミリーが顔を寄せてくる。

 手を仄かに覆っているのは魔力紛。魔術を使う時に出る、使い損ねた余りカス。出力を上げた時や、身体に無理が掛かっている時ほどこれが出る。

 そうして伸びる魔力糸は、地面へ付く頃にはただの糸同然のものとなり、

「足元、気を付けて下さい」

 更にここから、蜘蛛の巣の様に広がっていく。


 雪の下へ潜り込み、草の隙間を這いまわって、広く広く周囲を知覚する僕の糸。


「………………すごいね」

 エミリーが感心しているが、こんなのは小手先だ。

「周囲には何も居ませんね。このまま進みましょう」


 僕があっさりと言って歩を進めていくと、エミリーが横から顔を覗き込んで来た。


「どうかしましたか……」

「ううん、なんにもー」


 またお姉ちゃんの顔になって……。

 くそう、あんまりにも素直に褒めてくるからだよ。


 それから僕らは適宜立ち止まって糸を張り巡らせ、しっかりと安全を確認しながら進んでいった。


 奥へ奥へ、意味も無く深みへと。


 けれど、小高い丘を見付けて駆け寄った所で妙なものを見付けた。


「…………檻?」


 檻だ。動物なんかを入れる檻。

 ただしそれには異常が二つあった。正確には三つ。


 まず檻は破壊されていた。大きく鉄格子がひしゃげ、役割を果たしていない。

 次にかなりの大きさだ。馬を二頭くらいは押し込めそうだった。


 そして最後に、周囲には真新しい人の死体が転がっていた。


「っ!?」


 エミリーが咄嗟に僕の腕を掴み、身を寄せてくる。

 彼女を庇いながら僕は死体を観察した。おそらくは檻の中に閉じ込めていた生き物にやられたんだろう。損壊が酷く、どれもすさまじい表情をしている。


 僕はすぐさま蜘蛛の糸を展開して周囲を探った。

 それらしき存在は、居ない。

 居ない、か。

 傷口が凍結していないから、それほど前の話でも無いだろうが。


「ユレイン、くん?」

「あぁ、すみません。状況を確認していただけです」

「そうじゃなくて……怖く、ないの?」


 言われて、ようやく自分の行動が子どもらしからぬものであることに気付いた。

 死体は見慣れている。

 王子に追われる日々を送る中、戦場跡を通っていくこともあったし、死体に隠れてやり過ごしたこともある。

 新式の、しかも平民の出力任せな魔術で吹き飛ばされたものに比べると、これはまだ人の形を保っているからな。


「こういうのは初めてでしたか」

「うん……ユレインくんは」

「僕も初めてです。だけど、エミリーが居るから見栄を張っています」


 格好付けて行って見たが、前髪の隙間から覗く彼女の目には心配がある。


「…………離れよう。ここには居たくない」

「そう、ですね。一度戻り……いや、でも……」


 戻って、あの王子とまた対面することを考えただけで身が震えた。

 おかしな話だ。死体はこれっぽっちも怖くないのに。

 いや、そうでもないのか。

 いつだって怖いのは動かないものより、動くものだから。


「ちょっと待ってて下さい。何か使えるものがないか探してきます」


 エミリーを茂みの奥へ連れて行ってから、改めて周辺を探った。

 天幕は見当たらず、一か所に荷物を纏めているだけ。日帰りで何かをするつもりだったのか。小さな荷車は、あの檻を無理矢理運んでくる為だろう。森の中とはいえ契約型が居ればやってやれないことはない。


 死体の数と荷物の数も一致しているから、戻ったら父上に言って調査して貰えばいい。後の事はしったことか。

 檻の中身とだって遭遇しなければいいんだ。

 蜘蛛の糸を張り巡らせ、何処か落ち付ける場所を見付けたら、それで。


「おまたせっ。あの人達の荷物を一つ貰って来た」

 茂みへ戻ると、エミリーが分かり易くほっとした表情で僕を迎えてくれた。

 息をついて荷物を降ろす。

 大人向けの背負い袋だから、流石に持ち難い。

「あっ、私、持つよ。強化出来るし」

「それなら僕だって少しは出来ます。告解型でも、このくらいは」

「そう……うん、なら、いこ」


 エミリーに手を引かれ、僕達は足早に現場から離れていった。

 意図してかは分からなかったけど、彼女の先導する道も崖からは遠ざかっている。


 戻れば王子と向かい合うことになる。

 じゃあ何処へ行くのかといえば、アテなんかなかった。

 そもそも全てを捨てて逃げるふんぎりさえ付かない。

 自分のやりたいことも分からないまま、僕らは魔境を彷徨い歩く。


「……お腹空いてきちゃったね」

「ごめんなさい」

「ううん。ごめん。いいの」


 そうして、陽は暮れていった。





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