冬の到来③

 昔、気に入っていた服にほつれ糸を見付けて、僕は誰にも言わず引き千切ってしまった。

 みっともないものを着てきてしまったと思い、隠したかったのか、単純にはみ出たものが気に入らなかったのかは覚えていない。

 上手く処理すればもっと着ていられたというのに、結果として服はそこから裂けていき、補修しても跡が残るからと処分してしまったんだ。

 なまじ好きなものなんて作るから落ち込む。

 以来、僕は衣服には品格のみを求める様になり、好みなんて忘れ去っていった。


 第二の生は僕にとって、この上無い幸福の連続だった。


 姉上に会えた。

 父上や正妻にも。

 かつて想いを伝えてくれたエミリーや、僕らの逃避行を支えてくれたカミーユとだって、前では考えられないくらい親しく接している。

 世話になった男へほんのちょっとだけ報いることが出来た。


 見栄と、打算と、保身と。

 安全だけが欲しくて、見せかけの栄誉に憧れて。

 何もかもを、嘘で固めた言葉で得られると信じていた僕は、誰とだって本心から接したことなんて無かったんじゃないかと思う。

 自分の事に精一杯で、誰かを慮る余裕も無く、奪い取った功績を嬉々として着飾る癖に、いざ自分が奪われたら喚き散らして。


 今だってそう変わらない。

 子どもの皮を被っていられるから、昔ほど表出していないだけだ。

 何の責任も負わず、庇護されて生きるというのは心に余裕が出来る。

 肉体の感覚もまた庇護者を求め、無条件の安堵を覚えることもある。


 だけどきっと、僕は僕のまま。

 いつか皆よりも我が身可愛さで、誰かを足蹴にする日が来るんだろう。


 それを、嫌だな、と。

 思える程度には変化した。


『えぇ、でも』


 真っ赤な景色が目に焼き付いている。

 だって、いっぱいの目で見ていたんだから。

 いっぱいいっぱい手を伸ばして、たくさんたくさん殺して、恐怖を支配できたことが嬉しくて、あんなにも無邪気に笑っていたじゃないか。


『続けたいのなら、記憶の内側をくすぐり続けるほつれた糸を、決して引き千切ってはいけない』


 うるさいな。


『そうだね。でも、忘れないで』


 うるさい、うるさい、うるさい。

 押し潰して引き千切って捩じって曲げて、爪を立ててじっくりじっくり血を絞り出す。

 これがやりたかったんだ。

 これが楽しくて仕方ないんだ。


『糸は、まだ繋がっているんだから』


 燃え盛る王都の中心で、化け物が咆哮していた。


    ※   ※   ※


 汗だくになって目が覚めた。

 身体が酷く熱い。

 まるで内側に火が点いたみたいだった。


「…………あれ?」


 なんだっけ。

 思い出せない。


 何か嫌な夢を見た気がする。

 とても鮮烈で、忘れ難い筈の何か。


 だけど綺麗さっぱり消えていて、まあ夢なんてそんなものかと起き上がる。


 身体が妙に軽い。

 汗を掻き過ぎたからかも知れないな。

 自室の寝台から起き出した僕は、傍らにある水差しから一杯注いで、そのまま飲み干した。なんだか喉が渇きが消えない。飲んでも飲んでも足りない様な、いや、でも飲み過ぎるとお腹を下すし、もう十分か。


「んん~っ」


 伸びをする。

 うん、やっぱり身体の調子がいい。

 今日ならエミリーから一本くらい取れるかもしれない、なんて。


「ん?」


 なにか視界を掠めた気がして振り返る。

 けれど僕の寝室は変わらず平穏で、綺麗に整えられている。

 思えば戻ってきてから、人と過ごすことが増えて、部屋に閉じこもることも減った気がする。

 勉強で机には向かい合うけど、教科書など義理で開いている様なものだ。

 幼児の座学などお遊戯そのもので退屈だから、適度に間違えて、適度に悩んでみせて、僕らしい成績へ落とし込んでいく。最近は、エミリーにどうやって教えてあげようかと、教材を確認するつもりで受けているから、まだ少しはマシになったけど。


 なんとなく、使っていない棚が気になった。

 そういえば一度も開けていない。

 どうせ玩具か下らないものだろうけど、この頃の僕は何を仕舞い込んでいたんだっけか。


 棚へ手を伸ばした所で、僕の起床に気付いた付き人が入ってきたのでお湯と布、着替えを用意させた。

 そういえば汗が気持ち悪い。

 身体を拭いて、香油で髪を整え、真新しい服に腕を通す。

 その頃には棚のことなどすっかり忘れて、僕は姉上達の居る談話室へと向かった。


 何事も順調だ。

 僕が何をするでもなく、この頃の姉上は素直だ。

 髪だって捻じれていないし、周囲に居るのは仲の良い友人ばかり。

 多少、意地を張ったり面倒くさい部分はあるものの、上手く派閥の何処かへ嫁ぐように計らってやれば危険も失せる。あるいは婿を迎えてもいい。

 そうなると家を出るのは僕になる。ならばそう、例えばロッドクワンテ家へ婿入りする、なんて道もあるだろう。

 エミリーとの関係は心地良い。

 幼児相手に好いた惚れたを語るつもりはないが、まあ、良縁であることも確かだし、父上も承知していることだしな。男子が一人実家で居候になる訳にもいかないのだから、仕方ないだろう?

 なんにせよ今語るのは冗談みたいなもの。


 このまま王都で臥せっている王子が死んでくれれば万々歳。

 父上が詰めていることだけは心配の種だが、この頃なら陛下もまだお若いし、新たに世継ぎを産ませるのだって難しくはない筈だ。


 あぁほんと、あのクソ王子が死んでくれたら一日中笑い転げていられるだろうな。


 いやその前に、一度くらい毒で痩せこけた顔を拝みに行くべきか。

 駄目だ駄目だ。

 もし弱々しく『助けてくれ』なんて言われたらその場で吹き出してしまいそうになる。

 いっそ指差してそのまま死ねよとでも言ってみたい。

 僕だけが信頼できる重臣だと洗脳して、他の何もかもを遠ざけさせて、当たり前の顔で頼って来たアレを手酷く裏切ってやるんだ。あぁ一度くらいその時の絶望の顔を見てやりたい。

 羨ましいな父上、毎日だってアレの無様な姿を見ていられるんだから。


 あぁ本当に殺してやりたい。

 目玉を抉り、髪を引き千切って、首を絞めて青ざめていく顔色を間近で観察してやりたい。何度殺したって足りやしない。姉上を殺した。僕を殺した。父上を、正妻を、僕の実母も、エミリーやカミーユや、それこそマリーローズに住むあらゆる人々を殺した。それを、あんな冷めきった目で見てきやがって。

 絶対に許さない。

 肌に焚火を当ててじっくりと焼いてやろう。

 骨まで炭にしてやるんだ。

 一時間でも、二時間でも、ゆっくりと丁寧に火入れをする。

 問題は泣き叫ぶ声が耳障りじゃないかという点だ。

 けどこればっかりは仕方ないか。第一そんなに時間を掛けると飽きてしまう。いやどうだろう? 案外面白くてしばらく遊んでいられる気がする。あぁでも、


「………………ユレインくん?」


 廊下の交差路で立ち止まっていたら、横合いからやってきていたエミリーが不安そうに声を掛けてきた。


「…………ああ」


 ええと。


「どうしたんですか、エミリー。あっ、おはようございます」

「う、うん。おはようございます。うん」


 どうしたんだろう?

 僕が首を傾げていたら、彼女はぱっと口元を笑みにして駆け寄ってきた。揺れる前髪の奥、綺麗な紫紺色の瞳が見え隠れする。

 あぁ、本当に綺麗だ。

 ざわついていた心が落ち着いてくる。


「談話室、行くところ?」

「はい」

「じゃあ、一緒に行こ?」

「はい」


 手を取られ、心地良さに身を委ねながら歩いて行く。

 深まる寒さも一時落ち着き、日中は外でも一枚減らして居られる様になった。南方、大陸側の血が濃いカミーユなどはぶるぶる震えているけど、僕らにとっては慣れた寒さだ。


 それでも繋いだエミリーの手が暖かくて、知らず荒れていた心が平穏を取り戻していく。


 なんだ、最初はどうにかしなくちゃって使命感みたいに考えてしまったけど、もう十分に状況は好転してる。

 大丈夫だ。

 上手くいく。

 このまま、穏やかで楽しい日々を。


「そうだ。ユレインくんは聞いた?」

「なにをですか?」

「まだ内緒の話なんだけど」


 ちらりと周囲を確認したエミリーが耳元に顔を寄せてくる。

 こそばゆい気持ちになりながら、僕は彼女の言葉を待つ。


 それが平穏の終わりであるとも知らないまま。


「近い内に、ここでベリアルド王子を療養させることになるんだって」


 あの王子がやってくる。





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