エイムス①
馬蹄の音は聞き飽きた。
逃げて逃げて、逃げ続ける日々の中で嫌というほど聞いてきた。
王子の率いる精鋭軍に次々と僕らの軍が撃破されていく中、何時間も、何日も背にしがみ付いて逃げ続けたから。
それでもまだ救いの様に聞こえていた時期だってあったんだ。
「あと少しですっ、どうかそれまで気を確かに!」
革の鎧に身を包んだエイムスが、愛馬に鞭入れ大地を駆ける。
僕はその背にしがみ付いていた。
王都から救い出されて丸三日、追っ手を感じながらの逃亡は体力気力を消耗させ、眠る事さえ出来なくなっていたのを覚えている。夜遅くまでうなされて、気絶して、汗だくになって目を覚ます。そうして簡素な食事を腹に詰め込んだら、また馬に乗って駆け続ける。
「そういえば、一度くらいユレイン様と、こうして遠乗りに出掛けたいと思っていたのです」
逃避行の興奮からか、エイムスはよく喋った。
あんなにも彼女の声を聞いたのは初めてだったくらいだ。
騎乗中に僕が眠ってしまわない様、気を紛らせられる様にという気遣いだったのかもしれない。
あの時は、僕がこんなにも辛いのに何を呑気な事を言っているんだと、自分の事しか考えていなかったけど。
「我が家は男所帯で、私も男のような名前を付けられて、それがずっと恥ずかしかった。アリーシャ様やカミーユ様のような女の子になりたかったと、こっそり泣いていた時だってあるんですよ」
丘を一つ越えた。
遅れて馬車が飛び出してくる。
馬に乗れない姉上が乗せられているもので、少しでも軽くするべく僕はエイムスの馬に乗せられていた。長距離の馬での移動は、慣れがなければ腰痛で酷い事になる。その僕も、囚われていた時の憔悴から手綱を握らせるのは危ないと、同乗させられている。
エイムスの馬術は巧みで、僕が一人で馬を操るよりもずっと早く走らせることが出来た。軍馬というのは本当に、乗馬用の馬とは大きく違うらしい。
「笑うのが苦手でした。頑張る程に顔が強張って、睨み付けている様に見えると言われ、いつの間にか笑ってみせるのさえ嫌になっていました」
話は何度も途切れ、繋ぎ直して、また途切れてを繰り返した。
まとまりのない話は時折前後する。
けれどきっと、彼女なりに精一杯考えてくれていたんだろう。
我が身可愛さで閉じこもっていた僕を支えようと、不器用に。
「お慕いしていました、ユレイン様」
幾つかの丘を越えた所で、唐突にエイムスは言った。
当人も思わず口走ってしまった様で、彼女の耳が真っ赤になっているのが見えた。
「え、ど、どうして」
予想だにしない話だったから、塞ぎ込んでいた僕がつい言葉を返すと、それが彼女の原動力となった。
「す、好きだからですっ」
「そんなの、い、いつから」
好意を向けられているなんて感じたこともなかった。
いつもむっつり黙り込んで、時に睨み付けて……そこまで考えて、彼女の言っていた事と繋がったのを覚えている。
笑うのが苦手な少女。
頑張って笑おうとして、いつも失敗してきたから。
「出会った時からです!」
軍馬が丘を駆け下りる。
遠く見える街並みに、黒煙の掛かった場所がある。
鉄道だ。
あれに乗れば、故郷へ帰れる。
「荒っぽい兄達に囲まれて、女なのに男みたいな名前で、男みたいに振舞う自分が嫌でした。ちぐはぐで、気持ちが悪いなって、幼い頃はずっと思っていました。ですけど、失礼ながら……初めてお会いした時のユレイン様があまりにも可愛らしくて、あぁ、男の子だけど可愛い子も居るんだから、私が男の子みたいでも平気なんだなって、勝手ながら安心しちゃって」
「い、意味が分からない……」
「ははっ、私もそう思います。でも、それからずっとユレイン様を見てきました。大きくなって、ちゃんと男の子になっていくのを見て、私からは遠い存在になってしまいましたが、貴方と同じ国で、精一杯働いていけるのなら、それで十分だと」
それからはずっと、己を鍛えてきたと。
彼女が学園でも随一の腕前なのは僕も知っていた。
ようやく見つけたらしい同族もすっかり変わってしまって、友人である姉上達も様々な理由で昔の様ではなくなっていった。
「ですが今、私は私が誇らしいのです。こんな名前で、こんな私だからこそ、お二人を救い出すことが出来ました。好きになった人の為に、力の限り戦うことが出来る。こんな幸福があったのなら、今までの全てが報われます」
辿り着いた駅の前で、僕らが降りると同時に軍馬は崩れ落ちた。
彼女が幼い頃から一緒だっただろう、もしかしたら唯一心の底から安心できる友人であった愛馬は、エイムスの腕の中で息絶えた。
涙を拭う姿に何も言えないでいると、彼女はすぐに立ち上がって僕を見る。
「ここからは列車でどうぞ。一度ご両親に顔を見せて、安心させてあげて下さい」
「うぅん……あら、ようやく着いたのね。エイミー?」
馬車から降りてきた姉上が彼女を見付けた。
けれど、その身は既に新たな馬の上にある。
ここまで同道していた者達も皆同じだ。
「騎乗のまま失礼します、アリーシャ様。私はここから前線へ戻ります。どうかお達者で」
「え……ちょっと!? 少しくらい休んだらどうなの?」
「いえ。前線には兄達が居ます。父も、母も。ならば私もそこへ参じるべきでしょう。ご安心下さい、鉄の一族と呼ばれた我らロッドクワンテ家の守り、容易く抜けるものではありません。後方からクゥデルローズ家とベルファリオ家の支援も行われているそうですから、寄せ集めの軍勢など容易く蹴散らしてみせましょう」
いつになく勇ましさを見せる友人に、姉上も余計なことは言うまいと、応じることにしたのだろう。
「……そうね。私からもお父様へ打診するわ。家が傾いてでもロッドクワンテ家を支援しなさいって」
「ふふ、後ろから倒れ込んでこないで下さいね」
「あら、素敵な笑顔ね、エイミー」
「え?」
「いつもそんな風に笑っていたら、学園でも男達が放っておかなかったでしょうに」
「そう、ですか」
顔に触れて、形を真似ようとして、だけど上手くいかずに眉を寄せて、そうして彼女は僕を見た。
ふわりと、やわらかな笑みが浮かぶ。
北風に煽られたエイムスの、エイミーの長い前髪が広がり、美しい紫紺の瞳が晒される。
「それではお二人共、お達者で。アリーシャ様、今までありがとう。ユレイン様、もう一度会えたら、さっきの話の続きをさせて下さい。ではっ!」
休む間も入れず、隊伍を率いて再び駆け出した彼女の背を、僕らはどこまでも見詰めていた。
また会えると、それが当たり前であると信じたまま。
二日後、僕らは中継駅でロッドクワンテ家の率いる軍隊が、王子軍によって蹂躙されたことを知る。
※ ※ ※
馬蹄の音を聞く。
あの時とは違う、弾むような足音。
エイミーは僕らを救い出し、戻った前線で王子軍と最後まで戦ったと聞いている。
自分を好いてくれた女の子が死んだ。
僕にとっては結構な衝撃で、あの時行かせてしまったことをずっと悔やみ続けていた。
彼女は出会った時に僕を好きになったと言っていた。
なら、今がそうなんだろうか。
出会う時期はもっと後だった筈だし、状況も違うようだけど。
「辛くっ、ないですか!」
急に耳元で叫ばれてビクリとする。
今の僕は、エイミーの操る馬に乗って、マリーローズ郊外の草原へ来ている。
遠く工事の進む線路と、都市から登り続ける黒煙、抜けてきた田園風景はこんな寒い時期でも忙しく働く者が居た。吹き抜ける風は一年中冷たくて、遠い山の輪郭がはっきりと見える。
あの時と違うのは、彼女の前に収まっているという点だ。
王都から逃げる時は後ろからしがみ付いていたしな。
姉上と同じで一歳しか違わない筈なのに、後ろで跨る彼女の顔はしっかりと前が見通せている。見れば、鞍に敷物を重ねて座高を挙げていた。
普段と勝手が異なるだろうに、手綱捌きは実に巧みだ。
「へ、平気です!」
「良かったです!」
僕だって乗馬は出来る。
が、この頃は流石に経験が無かったらしい。
やって出来ないことは無いだろうけど、根本的に
エイミーは流石だ。
どこへ行くにも愛馬と一緒。
この歳でもう馬に慣れ切ってる。
一応は付いてこようとした付き人連中もとっくに置き去りで、そろそろ豆粒から砂にでも変わりそうだった。
「上手いですねっ!」
「そ、そそそうですか!? すばらしいですね!!」
褒めると、左右に回った腕が僕を締め付けてきて、速度が更にあがる。
「あの、もうちょっと」
「分かりました! もっと早くしますね!」
え、まだ早くなるの。
呟きは届かず、坂道を転げ落ちる様な勢いで馬が加速した。
前から叩きつけられる風だけで身体が吹き飛びそうだ。それをエイミーが支えてくれているけど、手綱を握る手が震えているのを見て冷や汗が出た。
「ちょっ、ちょっと待って! 待った! 一度速度緩めて止まろう!!」
「は、はい!!」
僕が切羽詰まった声をあげると、流石に今度は届いたらしく停止してくれた。
今良い所だったのによお、なんて言いたげに馬が鼻を鳴らすけど、それどころじゃないんだよ。
「エイミーっ、君、誰かと乗るのは初めてなんじゃない……?」
「っ、はい! そうです!」
「だったらいつもと同じ調子で走っても、掛かる重みは倍になると思った方がいいよ」
「…………あ」
一度降りよう、言って下馬した後に、彼女の手を確認した。
「やっぱり……ちょっとだけ肌が裂けちゃってるよ。血が滲み出してる。大丈夫? 痛くない?」
細かい診療までは出来ないが、王子との戦いの中で応急処置くらいは覚えた。
包帯も布も無し、けど水筒は持ってきてるから、まずは傷口を洗う。それからハンカチを広げて、手ごろな場所に彼女を座らせる。
あ、布あった。
でももう使っちゃったからいいか。
後は確か……。
「あ、あの……」
僕が傷をどうにかしようと考えていたら、不思議なものを見るみたいにエイミーが話し掛けてきた。
「私ですよ?」
「それがどうかしたの?」
「………………えっと」
「待ってて、確か向こうに薬草が群生してた筈なんだ。取ってくる」
マリーローズを追われてからは何もかもが現地調達だったからな。僕は拗ねていじけて、あんまり手伝わなかったけど、遠慮の無い奴が居たおかげでこの辺りには覚えがある。
僕が目当てのものを見付けて戻ってくると、追い付いたらしい付き人連中が狼狽えてエイミーを囲っていて、その中心で彼女は青褪めて表情を硬くしていた。
傷よりも、周囲が騒いでいることに怯えている様だ。
何でもないと思っていたことが、大事として扱われた時の不安さは分からないでもない。まして子どもの時分、騒いでいるのは大人達だ。
「おまたせ。はい、手出して」
「ぁ、うん」
彼らを押しのけてエイミーの元へ駆け寄る。
それにしても誰一人治療に頭が回らないなんて。
傷薬の備えも無く、もっと大きな怪我をしたらどうするつもりだったんだろう。
……王子と事を構える予定はないけど、万一に備えて訓練させる様に父上へ言った方がいいだろうか。
「女の子なんだから、傷は増やさない様にしないと……いや、ロッドクワンテ家の方針に口を出すつもりはないし、エイミーも頑張って鍛えてるんだろうから、別にそれが悪いとは思わないんだけど……ええと」
上手く言葉が出ない。
自分を好きだと言ってくれた女の子。その手が自分のせいで傷付いたのは、僕の配慮が足りなかったからだ。
人との関わりが苦手だって言ってたじゃないか。
しかもまだ子どもで、乗馬だって完璧だなんて言える筈無い。
「ごめんね、僕のせいで」
「……っ、い、いいえ! 違います! 私が加減を! っ、ぁ……ま、間違えたから」
ついつい大きな声が出てしまうのだろう、周囲に目をやり、顔を俯けて、更に何かを言おうとするけれど、声が上手く出ない。
あぁ、僕も経験がある。
逃亡中にやらかして、周囲から背を向けられて、どうやって喋ればいいか分からなくなった。
あの時確か、あの人は。
「うん。ありがとう」
短く、穏やかに。
上手く出来ているかは分からないけど。
なんでもないよという顔をして、隣へ座る。ついでに付き人連中も下がらせた。令嬢を怪我させた、なんて考えてるんだろうけど、ロッドクワンテ家じゃあんなの日常茶飯事だ。ちゃんと説明すれば分かってくれる。
「あの……怖かった?」
「え? ううん、エイミーは乗馬が上手いから、全然」
「そ、そう」
冷たい風が心地良くて、そのまま手足を投げ出して寝転がった。
思えば、前はこんな風に話したことさえなかったな。
話していれば、違ったんだろうか。
あんな、今生の別れとしての告白を受けなくても良い、別の……何か。
「ありがとう」
考えに耽っていたら、脚を抱え込んだ状態のエイミーが僕を覗き込んで来た。下から見る彼女は、前髪の覆いが外れていて、あの綺麗な紫紺の瞳が不安そうに目尻を下げているのが分かった。
「手、もう痛くないよ」
「いや、それは早過ぎるでしょ」
「でも、もう痛くないよ?」
ころころと笑う彼女を見て、いつか見た笑顔を幻視した。
あぁ、とても可愛らしくて、魅力的だ。
「それと……エイミーって、私の事?」
「え? あ!? ええと……ごめんなさい、勝手に」
昔を思い出していたからか、つい姉上達が使っていた呼び方に。
いやでも出発前にカミーユはエイムスって呼んでたよな……?
「ううん。嬉しい、かな。エイムスって名前、男の子みたいで……嫌、だったから。エイミー、エイミー、うん、可愛い名前」
もしかして僕、結構やらかしてないか。
まだエイミーと呼ばれる前だった彼女に、その呼び名を与えてしまった。
姉上か、カミーユか、他の誰かがすることを奪ってしまった。問題は、それで何かが変わってしまわないだろうかという点だ。
王子と敵対しない、姉上が王子と婚約しない、そういう未来を目指す上で、変化を加えすぎると予想も出来なくなってしまう。『タイムマシン』モノの演劇でも、後年そういった不安要素を物語に取り込んだ作品は幾つかあった。
流石に呼び方一つで未来が変わるなんてありえないとは思うけど。
「ありがとう」
僕の焦りを余所に、エイミーは柔らかく微笑んだ。
紫紺の瞳もよく見える。
きっとまだ、彼女の表情が硬くなり切る前だったんだろう。それなら、それでいい、のかな。
いや、彼女が辛い想いをしなくていいなら、それでいい筈だ。
いいことにしよう。
「それじゃあ命名ついでに、前髪短くしたらどうかな?」
調子に乗って要望まで付け加えてみた。
「そう……? 短い方がいい?」
「短い方がいいというか、エイミーの瞳って凄く綺麗だから、もっと見たいなって」
これくらい良いだろう。
だって本当に綺麗なんだ。
初めて僕を好きだと言ってくれた人だからっていう欲目もあるかもだけど、折角ならもっと素敵な女性になるといい。
「………………………………そう?」
「う、うん」
心なしか近寄ってきている様にも思えるエイミーへ、僕もやや緊張しながら手を伸ばす。
淡い金色の髪は綺麗だけど、それだけじゃあ勿体ない。
指先が前髪に触れそうになった所で、急に彼女が身を引いた。
しまったやり過ぎたか。
この辺りの距離感は上手く掴めない。
例え前の時間で、僕を好きだと言ってくれたからといって、今回もそうだとは限らないんだから。
「えと……それじゃあ、ね」
また少し硬さの戻ったエイミーは、自分の手で前髪を上げ、起き上がった僕へ言った。
「ユレインくんにだけ、見せてあげるね」
その綻ぶ笑顔に、僕はしばらく言葉が出なかった。
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