マリーローズ④
「ユレインは、どうしてあの子を助けたの?」
帰りの馬車で唐突に姉上が切り出したものだから、僕は思わず表情を固めて彼女を見てしまった。
真っ新な瞳。
まだ恋を知らず、嫉妬を知らず、薄汚れた貴族社会に揉まれていない、僕の姉上。
二人だけの馬車の中、彼女が僕を見詰めている。
「え、ええと……」
駄目だ、言葉を用意していなかった。
考えろ。えっと、だから、ええと……。
狼狽える僕を余所に、姉上はにんまりと笑みを湛えた。
「ふふぅん。姉様は弟のことをよぉぉっく見ているのよっ。それに『分かって』しまうのよ。そういう風に出来ているのね、私って」
「あはい」
いつもの病気か。
とはいえ、図星を突かれたのも事実。
これは好機だ、姉上の情操教育、続きと行こう。
「まず、彼の罪はなんでしょうか」
「うん? 私のポーチを盗んだことよね?」
「はい。では何故彼は姉上のポーチを盗まなければいけなかったのでしょう」
「そんなの、欲しかったからじゃない?」
「女物の?」
「あれ?」
あんまり難しくならないようにしないと、と少し考える。
そういえばまだ僕は七歳だ。先日確認が取れた。つまり姉上は八歳で、淑女としての教育は始まっているものの、幼子であることは理解しなければいけない。
「おそらくですけど、彼は姉上のポーチをどこかに売り飛ばして、お金にしようとしたんでしょう」
「まあ、酷い事をするのねっ」
「ですが、彼はまだ僕らとは変わらない年齢でした。どうしてお金が必要だったんでしょうか」
「欲しいものがあったから?」
「親から貰えばいいでしょう?」
「じゃあ、貰えなかった?」
「それはどうして」
「うーん、分からないわ……」
まあ当然か。
僕もそうだが、国を代表する七大貴族で、しかもクゥデルローズは近年の工業化に成功して富は有り余っている。
お金で苦労するという経験を僕らは積んでいなかった。
無いという発想が持てない。
でも、この本拠地マリーローズが、今日行ったアーケード街のような綺麗な場所だけでないことを僕は知っている。
川を挟んだ向こう側、工業区で労働者がどのような生活をしているのか、逃亡生活の中で嫌というほど味わったからな。
「盗みは悪い事です。今回、盗まれた姉上が彼に怒るのは当然でしょう。ですが僕らはクゥデルローズ、この都市をいずれ統治する義務を負っています」
どちらが、とはまだ決まっていない。
そう、決まっていない。
姉上が王子や、どこか別の家へ嫁ぐのであれば僕が。
何処かから婿を入れるのであれば姉上とその人物が。
「それがどうしたの?」
「王家が貴族院との間で結んだ宣誓について――――あいや」
話が細かくなりすぎる。
こんな授業じみたことはいいんだ。
「すみません。もっと単純に、パーティで酷い演奏を聞かされたとしましょう。この場合、誰が責められますか?」
「それは……招いた人、パーティを準備した人よね」
主催者、という言葉が出てこなかったのだろう。
ともあれ話は通じている。
「そうです。演奏者も罰を受けるかもしれませんが、真っ先に責を負うのは主催者です。酷いパーティだったのなら、もう二度と招待を受けて貰えないかもしれません」
「そう、ね」
「都市の統治者も、これと同じだと思いませんか」
一般市民であれば好きに罪人を非難するくらいはいいだろう。
けれど統治者がそれではいけない。
都市内の犯罪率は、統治する者が改善していくべきものだ。
そこまで考えて、ふと以前の自分ならこんなこと考えもしなかったなと思い至る。
きっと姉上を諭そうとしているからだ。
逃避行の最中でも似たようなことがあったな。
平和な時分では面倒だったことも、同道する彼らへ教える内に前よりしっかりやるようになった礼儀作法とか。
「お父様が悪いから、あの子が私のポーチを盗ったの?」
「そこまでは言いません。彼が盗みを働いたのは、確かに罪です。ただ、統治者の一族として、僕らも考えていかなければいけないんじゃないでしょうか」
父上の批難にも繋がってしまったからか、まだ姉上の瞳に納得は無い。
これは言い方を間違えたかもしれない。
うーん、姉上は昔から父上大好きだったからなぁ……。
やや慌てて言葉を探していると、お行儀良くポーチを抱えて座っていた姉上がぐいっと身を乗り出してきた。
「…………でも、ユレインがあの子を助けたのは、そういう理由じゃないでしょう?」
「え?」
「姉様には分かるんだからね。誤魔化しても無駄よ」
「いえ……本当にそれが理由で」
「ふーん」
しまった、何かを間違えた。
だけどその何かが分からない。
姉上は僕が誤魔化したと思い込み、そっぽを向いてしまっている。
「あの、姉上……?」
「姉様はちゃあんとユレインを見ているんだから」
それ以来、屋敷に到着するまで何を言っても反応してくれなかった。
戻ってからというもの分かり易過ぎる程に僕へ愛情を向けてくれていた姉上、彼女が完全に臍を曲げてしまったことは明らかで、なぜか、僕は足場を失った様に狼狽えて、落ち付かなかった。
「正直に話したら許してあげるわ。それまでは口を聞いてあげないんだから」
馬車を降りる際、そう言い残して去って行く姉上を見送り、僕は馬車の脇でがっくりと項垂れた。
「なんで……? え? なんで?」
※ ※ ※
宣言通り、本当に姉上は僕と距離を置き始めた。
あんなにも懐いていたのに、呆気無く開いた関係に愕然とする。
父上にも正妻にも『ユレインが正直にならないから』と言って、食事中でもそっぽを向いている。その癖、ちらちらと様子を見てくるからやりにくいことこの上ない。
父上はお手上げ状態、正妻は相変わらず考えている事が読み辛い、相談できる相手の居ないまま、僕は数日を過ごしていた。
「あぁ……騒がしいと思ったら、今日はベルファリオ家とロッドクワンテ家の二人が来ているのか」
授業もお休み、朝からやることも見付からず、ふらふらと家の敷地内を歩き回っていた僕は、厩の近くに見慣れた馬車が停まっているのを見付けた。
どちらも七大貴族の一角で、昔から姉上と一緒に居た取り巻きだ。
姉上と年齢が同じなのも偶然じゃない。
時代に乗り切れなかった二家はクゥデルローズとの距離を縮めるべく、正妻の妊娠に合わせて子を成した。貴族社会じゃ珍しいことでもない。異性であれば婿、同姓であっても友人として、関係を強化出来る有効な手段だ。
「苦手なんだよな……あの二人」
なにせあの姉上と学園時代を共に過ごしていたくらいだ。
片や男との爛れた噂の絶えなかった何かと身体へ触れてくる女に、片や何を考えてるかも分からない無口女、どちらも僕が苦手とする種類の人間だ。
まあ……あくまで学生時代の感想で、王子と対立してからは結構見方も変わったんだが、付き合い易いかと言われると悩んでしまうもので。
「部屋に籠もろう。駄目だ、廊下なんて歩いてると不意に遭遇してしまう」
貝のように閉じこもり、何も考えずじっとしているのは得意だ。
僕にだって趣味くらいはあるが、特に姉上の癇癪が酷かった時期は視界に入らない様過ごす必要があった。
静寂、無音こそ僕の友人だ。
いや、僕にだって友人くらいいたぞ。
あれ、居たか?
……まあいい、些細な事だ。
「よーし、今日は何もせず過ごすぞー」
物音を立てず、気配を殺して、部屋の中で呆けた様に過ごす。
真っ白に、真っ白に、このまま塩になってしまおう。
そんな風にしていたら、部屋の扉がノックを受けた。
嫌な予感がする。
侍女へ不在を伝えて貰おうと呼び出したが、相手の行動がそれよりも早かった。
「ばーんっ! うっふふ、弟くん見ーっけ!」
「………………カミーユ、自分で扉を開けるのははしたないよ」
乱暴に開け放たれる扉と、飛び込んでくる二人。
後ろにむっつり顔の姉上まで一緒だ。
ふわふわ青髪の令嬢が優雅な足取りで僕へ歩み寄ってくる。幼いながらに洗練された動きだ。扉を開けた時の粗暴さはあれど、流石ベルファリオ家の娘といった所。
姉上はまだまだ粗っぽさが抜け切れないからな。
「遠巻きに何度か見たことはあったけど、近くでは初めまして、だよね」
蜂蜜を塗りたくった様な甘い声が耳元を撫でてくる。
距離が近い。顔も近い。
流石学生時代は男をとっかえひっかえしていたと言われていた女。こんな年頃から片鱗を見せているとは。ちょっとぞくっと来たのは気付かれてない、よな?
「お、お披露目の十歳までは異性と会っちゃいけないんだよ」
い、いいぞロッドクワンテ家の。
その調子でこの蜂蜜女を締め出してくれ。
苦手なんだ、こうしてぐいぐい来られるのは。
「クゥデルローズ家とベルファリオ家は親戚関係があるからいいのよ。私とアリーシャは姉妹みたいなものなんだから。ロッドクワンテ家も遠縁だけど血の繋がりがあるでしょう?」
「そ、そっか、ならいいのかな?」
駄目だ、こっちも乗り気なんだった。
「あ、姉上……」
「ぷい」
せめてもと救いを求めたが、案の定そっぽを向いてしまった。
ならなんで一緒に来たんですか、助けて下さい。
「ぁ…………………………ぽぅ」
しかもロッドクワンテ家の令嬢が僕を見て変な声を漏らしている。
淡い金色の髪が目元を覆うまで伸びており、目の色が伺えない。
相手の底を推し量り、好きに支配して人と接する僕からするとやりにくいんだこの人は。
「ほら自己紹介自己紹介。身分の低い方から、ね?」
「あ、はいっ。あの、えっと、ロッドクワンテ家の…………ムス、と」
「聞こえないわ。ちゃんと言わないと」
「エ、エイムスと言いますっ。よろしくお願いします!」
王国の剛剣、鉄の一族、勇猛果敢な古き英雄の末裔。
故に女でさえ男っぽい名前を付けられるんだと、嘆いていたのを何度か聞いた。
エイムス。エイミー。
捕まった僕らを助けるべく真っ先に蜂起し、そのまま王子軍に擦り潰されてしまった命の恩人だ。
「それじゃあ次は私ね」
歩み出てくるのは蜂蜜女。
短いスカートを揺らしながら、ちょっとだけお尻を突き出して微笑んでくる。
「改めまして、お初にお目に掛かります、クゥデルローズ家のご長男ユレイン様。ワタクシは、王国の双薔薇と謳われたベルファリオ家の長女、名をカミーユ=ベルファリオと申します。クゥデルローズ家とは古くから親戚関係にありますので、ご承知とは思いますが、どうぞ今後ともよしなに」
双薔薇。
クゥデルローズ家と対を成すと言われたベルファリオ家は、産業革命に乗り切れず古い慣習のまま領地を運営している。一方で学生の時分には流行の発信源となり、強い影響力を振るっていたけれど。
「ご丁寧に感謝します」
こうなった以上は逃げられない。
気分的に避けたいのはあるけれど、二人には返し切れない恩があるのも事実だ。
「僕はユレイン=ロア=クゥデルローズ。そちらの、姉様、アリーシャ=レイ=クゥデルローズとは異母となりますが、弟として良くして頂いております。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
しっかりと礼をして、二人の様子を伺う。
目元の隠れたエイムスは相変わらず呆っとしているが、蜂蜜女、もとい少女であるカミーユは何故か僕を見て唇を舐めた。
目が明らかに肉食獣のものだ。
もしかしてこんな幼い時から?
僕が気付いてなかっただけで、実は前もこんな目を向けられてたのか?
「まあっ、しっかりとご挨拶が出来るだなんて偉いわね! それに……あーん可愛いっ! 流石アリーシャが手紙でいっつも可愛い可愛いって言ってるだけあるわあ!」
「わ、ああ!?」
いきなり抱き着かれ、頬に口付けされた。
強烈な甘い香り。
香水とは違う。
身体に染み付いた意識を酩酊させる色香に足元がふらつく。
待て、相手は子どもだぞっ。確かに過去へ戻ってきてから味覚や感じ方なんかが成長してからとは違うと思っていたが、この程度で僕が惑わされてなるものかっ。そうだ、既に僕は立派な男として成長した経験がある。女の相手など手慣れ、て…………まあ、公爵家の跡取りとして慎重な立ち回りが求められていたからな。女など幾らでも寄ってきていたが、利益目的の連中なんぞ見るだけで吐き気がしたし、姉上から押し付けられる裏工作に忙しくて、遊ぶ暇など。
考えて辛くなってきたので忘れよう。
嵐は過ぎ行くのを待つのみだ。
「ちょっと!? 離れなさいよ!」
姉上が上擦った声で嗜めてくる。そうです姉上。出来れば速やかに彼女を引き剥がしてくれ。僕には無理だ。
「なによお、アリーシャってばお姉ちゃんぶっちゃって。可愛い弟が居るのよっていっつも自慢してきて、なのにお披露目までは駄目なんだからっていじわるするんだもんっ。もう自己紹介も済んだんだからいいしょう? 私とアリーシャは姉妹みたいなもの。なら、ユレインくんだって私の弟みたいなものじゃない」
「そういうことじゃなくってっ!」
「うふふ。ユレインくん、最近アリーシャが亀さんみたいに意地っ張りになっちゃって、相手してくれなかったんだよねー? かわいそー。私の家にいらっしゃい、今よりもっと可愛くしてあげるわ」
「あーっ、もうっ、ユレイン!!」
「はい!!」
ふわふわの飴細工みたいな声を貫く、烈火の如き姉上の怒声。
その声に服従するのはもう本能みたいなものだ。
以前なら反発もあっただろうけど、嫌悪は薄れているし、油断もあった。
思わず直立不動になる僕を見て、カミーユは大きな瞳を丸くして、それから溶けるみたいに微笑んだ。
「わー、こわーいお姉ちゃんだねー」
「カミーユ、貴女はこっちに来なさい」
「はいはい。それじゃあ弟くん、またねー。あ、エイムス置いて行くから、気晴らしの遊び相手にしていいよー」
え、なんで? という疑問を差し挟む暇は与えられなかった。
怒れる姉上に首根っこを掴まれて、カミーユと二人で部屋を出ていく。
後に残されたのは僕と、
「……………………」
何故置いて行かれたのかも分からない、ロッドクワンテ家のご令嬢エイムス一人。
目元の見えない、伸び過ぎた前髪の向こうから、何か強い視線を送られている気がするのだが。
どうしようかと悩んでいたら、侍女が閉じようとしていた扉へ飛び付いて、戻って来たカミーユが笑顔で言ってくる。
「アリーシャがねぇ、最近無視しちゃっててユレインくんが落ち込んでないか心配なんだってー。だから私達二人で元気になって貰おうって来たんだけど……あっ、ごめんこれ以上は無理みたーい」
姉上の怒声が聞こえてきたから何が起きたかは分かるけど。
ようやく静かになった部屋の中、閉まった扉から振り返ると、置物みたいに直立するエイムスが居た。
「ええと」
つまり。
「エイムス、お姉ちゃん……?」
呼び掛けに彼女はビクリと身を震わせ、軍隊みたいな動きで僕へ向き直った。
「い……」
「い?」
「今から遠乗りに行きます!」
それって馬の、と聞きかけた僕の腕を掴んで、了承の言葉も待たずに引っ張って行く。
どうにも僕には拒否権が無いらしい。
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