マリーローズ①


 暖炉に火が入れられ、部屋の中は温かな空気で満たされていた。

 壁の随所には彫刻が施され、床には足が沈み込むような分厚い絨毯が敷かれている。

 天井が複数のアーチを描いているのは確か、そういう流行に合わせて造りなおさせたからだったか。


 艶やかで清潔感溢れる衣服は心を穏やかにしてくれる。

 少し固さのあるベッドはずっと前から好んで使ってきたものだ。

 柔らか過ぎれば身体が落ち着かず、そうなるように作らせた。

 枕は胡桃の殻を詰めたもので、振り掛けた香水がほんのりと甘い香りを漂わせている。やや古臭い印象は受けたが、間違いなく僕の好みと合致する。


 身を起こしていた僕はふっと力が抜けて寝台へ倒れこむ。


 何だ。

 ここは何処だ。


 僕は走馬灯でも見ているのか。


 死者は、その直前に思い出の中へと逃げ込むこともあるという。


 姉上を殺した者共に報いをと暴れようとしたのに――――――――――――結局何も出来ずに首を落とされ、挙句逃避するだなんて。


「くそったれ……っ」


「あー、いけないわよ。そんな言葉を使う子は叱られてしまうわ」


 悪態をつく僕に、見知らぬ子どもが身を乗り出して寝台へ登ってくる。


 幼子とはいえ身なりからして貴族だろうに、男子の寝所へ入り込むどころか、寝台へ登るとは何事か。

 少女は真っ赤な髪をさらりと肩から流しながら、僕の事を覗き込み、じっと見詰めてきた。


「本当に大丈夫? ユレイン」


 僕の名前を知っている?


 いや、僕の見ている走馬灯なのだから、そういうものなのだろう。

 にしても馴れ馴れしい奴だ。

 遥かに目上の者を呼び捨てにするなど。


 もしかして高位の者かと考えたが、記憶にはない。

 七大貴族であるクゥデルローズ家の嫡男より上となる貴族などそうはいない。万が一にでも失礼の無い様にと、礼を尽くすべき者共の顔は全て把握してある。


「もうっ」


 少女が拗ねたよう言って頬を膨らませる。


「姉様に返事なさいっ。貴方いきなり倒れたって聞いて、予定も止めにして看病しにきてあげたのよっ」


 僕の膝の上で腰に手を当てて胸を張る、その少女の言葉に大きな違和感を覚えた。


 なんだこの子ども。


 姉?


 最初もそう言っていた気がする。

 確かに、姉上は彼女のような赤髪だったが、もっと捻れ曲がっていた筈だ。

 少女が身を揺らす度、さらりさらりと髪が流れる。

 落ち着きがあり、清純さを感じる様は好感が持てる。

 といっても、相手は所詮十にも満たないそこらの子どもで。


「っ!?」


 頭に痛みが奔って、咄嗟に手をやろうとして気付いた。


 手が小さい。


 いや、


「どうして」


 声が高い。


 いや、


「違う。そんな筈」


 首が繋がっている。

 触れてみて、けれど強く確認しようとして、不意に首が落ちる感覚を得て身体を硬直させた。

 恐る恐る指先で撫でてみて、ようやく納得出来る。


 ある。


 確かにある。


「僕は、何だ。誰だ、この身体……一体、っ」


 理解が及ばない。

 気味の悪さに吐き気がしてきた。


 これは夢? 走馬灯? そう言い切るにはあまりにも感覚が鮮明で、繋がらない記憶に寒気がする。


!」


 また少女が身を乗り出してきて、僕の視界を埋め尽くす。


 烈火の如き赤髪を揺らしながら、信じ難い事実を叩き付けるようにして少女が声を張る。


「貴方はユレイン! よく分かんないけど大丈夫だから! 貴方は私の大切な弟なのよ! しっかりしなさい!!」


 ユレイン=ロア=クゥデルローズ。

 そうだ。僕の名前。じゃあ、お前は。


 お前、は。


「……もしかして私のことも分かんないの?」


「ぁ、ね、うえ……?」


 言えば、少女は日輪のような笑顔を咲かせた。


「そうっ! 私は貴方の姉様よ! アリーシャ=レイ=クゥデルローズ! ふふっ、ユレインが私のこと忘れる筈なんてないわよねっ!」


 記憶にある彼女とは似ても似つかない。

 けれどどこかで、そうであった過去を知っていたような気もする。


 さらりと流れるストレート。


 吊り目がちな目尻も今はまだ柔らかい。


 何故?


 分かってる。

 納得は出来ずとも、自分と姉上の状態を見れば予測くらいは立つ。

 歌劇でそういった演目が流行ったことがある。

 非業の死を遂げた英雄が過去に戻ってすべてをやり直す、そんな物語。

 英雄を名乗るにはお粗末過ぎる自分に自嘲の一つも漏れる所だが。


 ちいさな手で顔を覆った。


 訳も分からず震えてくる。

 涙が流れた。


「ユレイン? どうしたの? どこか痛いの?」


 心配そうに見てくる少女は確かに姉上だ。

 髪はストレートだけど、まだ穏やかで優しかった頃の彼女。

 そんな時期があったことすら忘れていた。


「姉様……っ」


 僕は思わず彼女を引き寄せて、力一杯抱き締めた。

 生前は一度だってやったことのない行為。けれど、あの笑顔を見てしまったから。死なせてしまった、酷い言葉を沢山投げつけた。なのに最期は僕の為に笑って死んでいった。何一つ状況は分からないけれど、生きている姉上が今ここに居る。


「ごめんなさいっ、姉上! ごめんなさい、ごめんなさいっ、僕は……!!」


 この身体は不便だ。幼いからか、簡単に涙が溢れる。


 姉上は最初、唐突に泣きついた僕に戸惑った。

 いきなり意味の分からない謝罪を重ねられたら僕だって訳が分からなくなる。

 姉上は一度首を傾げつつも、やがてこちらの背をさすってくれた。


「いいのよ。怒ってないわ」


 そして。


「大丈夫よ、何も怖くない。姉様が貴方を守ってあげるんだから」


 根拠も無く放たれた言葉があまりにもらしく思えて、また少し、僕は泣いた。


    ※   ※   ※


 「はい、あーん、して」


 幼い姉上がスプーンを差し出してくる。

 麦と果物を、乳と蜂蜜で甘く煮た病人食だ。僕は倒れただけで熱もないのだが、彼女が無理を言って作らせたらしい。


 正直言って恥ずかしい。


 肉体が若返っていようと、精神はとうに成人している。

 女児のママゴトに付き合わされるような、というか、その通りな状況で困り果てていた。


 本当は今すぐにでも部屋を飛び出して色々な確認をしたい。

 今が何年の何月なのか、政治的な状況や家々の関係性など、子どもの頃には知りえなかった情報を集めたい。なにより、自分が本当に過去へ戻ってきたのかという疑問にも確かな答えが欲しい。


「ユレイン」


 いや居るのだ。

 目の前に縮んだ姉上が居るし、僕自身が同じように縮んでいるのだから、もう十分だろうとは思う。

 一体どこの魔術が若返りなど達成した?

 仮に出来たとして、僕達を処刑するに当たって恩情を掛ける余地など無かった。

 一つ浮かぶとすれば王子の言っていたヴァルマンの木とやらだが、調査させるなら尚の事この姿では足手纏いだ。


「ユレイン」


 何より間違い無く僕は、姉上は、首を落とされた。


 あれで復活するとなれば、僕らは創世の神によって産み落とされた救世主と同格だなんてことになってしまう。


 過去に戻っている時点で似たようなものかも知れないが、どちらにせよ原因も分からず今を享受するような愚は犯したくない。

 僕は、姉上は、一度破滅したのだ。

 処刑場でギロチンに掛けられ、いや、クゥデルローズ家や連なる多くの貴族らを巻き込んで、あの怖ろしい内乱を経て敗北した。

 ああしておけばよかった、などと考えたのは一度や二度じゃない。

 些細な偵察一つ怠っただけで大量の兵を失った。

 原因の究明は必要だ。

 なら一つ、確認しておくべきことがあるじゃないか。


 僕が結論に達し、傍らの姉上へようやく目を向けた時、彼女は謎の笑顔を浮かべていた。

 決して好意的ではない、僕にとってはある意味見慣れた、怒りを孕んだ表情に顔が引き攣る。



「……はい、姉上」


「あーん、しなさい」


「はい」


 すっかりヤケドの心配が無くなったスプーンの粥を差し出す、恐るべき姉上に従って僕は大きく口を開けて、あーん、を受け入れた。


 品の良い甘さと溶けるような麦の食感に口の中で唾液が吹き出た。

 久しく味わったことのない、かつては当然としていた筈の味に身体が震える。

 この身体にとっては当たり前の事の筈なのに、今までの思考全てが端に追いやられたように腹がすいた。


 思わず姉上が持つ椀を手に取ろうとして両手が伸びる、と、彼女は僕が欲しがっていると察したのかとても満足げに笑みを濃くして次なる粥をスプーンで掬う。


 本当は一気に掻き込みたかったのだが、今取り上げればまたあの笑顔がくる。

 遥か年下となった姉上に何をと思うかもしれない。

 幼子の怒りなど確かに大したものじゃない。

 なのにあの表情、彼女からの怒りは僕にとって逆らってはいけないものとして完全に染み付いてしまっていた。


 こんな時期から姉上は姉上だ。


 仮に過去へ戻れたのだとしても、今でこそ温厚そうに見えていても、いずれはあの高慢で自分勝手で…………僕なんかの為に笑って死ねる、馬鹿な女に成り果てる。


 お腹の底が痛くなって、両手でぐっと押さえ込む。

 体の中で何かが暴れているみたいだ。

 駄目だ。

 このままじゃ駄目だ。


 どうにかしないと、再びあの処刑場に戻される。


「姉上」


 まずは確認せねばならない。


 僕は首を落とされ過去に戻った。

 なら、目の前にいる姉上もまた、あの処刑場からやってきたのではないか。


「うん?」


 何にも考えてなさそうな間抜け顔に多少不安を覚えるも、とりあえず聞いてみることにした。


「姉上は、未来の記憶がありますか」


 彼女はにんまり笑って答えてくれた。


「えぇ、あるわよ」

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