牢獄にて②


 木漏れ日の中で僕はまどろんでいた。


 あぁ、これは夢だ。


 あるいは過去の記憶。


 まだ自分の未来を当たり前に信じていられた時代。

 公爵家の跡取りとして周囲から敬服され、乾いた清潔で上等な服を纏い、さて今日の香水はどうするかなんて考えていられたかつての日々で、その日は特に浮かれていたことを覚えている。

 貴族式の振る舞いを苦手とする者だったから、仕方なく下賎な手段に甘んじ、情報収集に勤しんでいたのだ。

 言い出したのは姉上だ。

 王子に擦り寄る平民女を調べろ。

 あわよくば八つ裂きにしろ、などと。


 本来は人をやって調べさせるつもりだったが、そうなる前に偶然面識を得てしまったのが運の尽きだった。

 上手く取り入ってみせなさい、人伝ではない情報を持って来るのよ、などと言って強引に関係を続けさせられた結果だ。


 おかげで折角の休日を、殺風景で煌びやかさの無い、粗暴な者達が多く行き交う広場でベンチに座って待ちぼうけ。


 ようやくやってきた女に僕は一喝した。


「お待たせしま――――」

「遅い」

「ええっ? まだ時間前ですよ?」


 事もあろうに口答えまでして、木陰の手前で立ち止まった女は広場中央の時計台をビシリと指差す。

 高い魔力を持つ女は、髪が光を帯びたようになることもあると言うが、彼女の貴族女にはない溌剌とした振る舞いは時折その様を思い起こさせる。

 へらへらと締まりの無い表情は、けれど不思議と不快ではなかった。

 媚びて擦り寄る者の顔は幾度も見てきたが、どれとも一致しないからだろう。

 まあ平民の考えることなど理解する必要も無いが。


 ため息をつく。


「この僕が待った。待たせた君は僕へ謝るべきなんだ。その程度も分からないのか」


「今そういった言葉を言おうとしたのと、前に早く来てたから今日はもっと前に来たのに、更に早く来るんですもん」


「なんだ? その物言いでは僕が君と早く会いたくて約束の時間をどんどんと前倒しにしているようじゃないか。不愉快極まる話だ。平民女とこうして話してやっているだけでも感謝すべきなんだぞ」


「ははーっ、ありがたきしあわせー」


 言って彼女は地面に膝をつき、煽られた紙のように地面に付した。


「……なんだそれは」

「あれ? 知りませんか? 最近流行ってる東方見聞――――」


「僕が言っているのはその振る舞いの事だ。みっともない。感謝は相手に向かい合って言葉を尽くすか、相応の品を後ろへ控えさせて握手を求めるもの。地に這い蹲るなど奴隷も同然だ」


 蛮人の文化と当時は蔑んでいた。

 事実、王国の常識に照らし合わせれば、国民は愚か支配者階級まで木造の家に住み、床に座り、床で寝るなどという貧相な国の話でしかない。


 物珍しさで劇場を騒がせていることは知っているが、優美で洗練された我が国には及ぶべくも無い。


「あーっ、いけませんよそんな言い方。彼らには彼らの考えとか、いろいろあるんですから」


 彼女は容易く俺の側へ歩み寄り、指を立てて極東の話を捲くし立てた。

 あちらにも騎士のような者がおり、自らを殺して主の為だけに生きるだとか、そこらの小僧が貴族院で習うような算術を習得しているだの、指を組み合わせるだけで火を吹いたり風を巻き起こしたり、魔術とは全く別の、獣を使役して戦わせるような神官がいるだとか、とにかく眉唾な話が次々と出てくる。挙句壁も床も天井も黄金で彩られた都があっただのと、書いた者はどうせ中原辺りで麻の薬にでも溺れていたんだろう。


「大体、主君の為に己を殺すというのが奴隷そのものだ。主はどこまで行っても主であって、他人でしかない。大切なのは一族であって主ではない」


「えー、でもユレインさんのお家はベリアルドのお家に仕えてるんですよね……?」


 不愉快な名を聞いた。

 しかもなんだ。

 僕はさん付けで、あの王子をより親密そうに呼ぶだと……?


「不敬罪でお前を処刑してやろうか」

「え!? あっ、あーっ、あの今のはベリアルド、様がそう呼べって……あの、内緒にしといて下さいませんか……?」


「ふんっ! 平民女には理解出来ないだろうが、貴族が主を持つのは利害関係からだ。確かにベリアルド王子は我がクゥデルローズ家よりも強く、大きい。だから彼らから与えられる利益に応じて我らも恭順を示し、国の平穏が保たれる。相応の利益を渡せなくなったら話は変わるがな」


 それは我が家に従う者達も同じ筈だった。


 与えられなくなったクゥデルローズ家に仕え続ける必要などどこにもなかったのに、王子に食い散らかされる中、彼女らは……。


 首を振った。

 所詮は夢の中。

 過去の記憶。

 僕の意思など関係無しに会話は再生され、やがて終わりが見えてくる。


「はいはい。わかりましたよ、ユレインさん」


「…………ユレインでいい」


「はい?」


「いいか。コレはあの王子と同じようにという意味じゃない。僕は今、市井に潜り込んでいる状態だ。もしこんな所に七代貴族の嫡男が居ると知れたら面倒が起きる。それを回避する為に仕方なくだ。仕方なくお前のような下賎な者に、僕の名を呼び捨てる許可を与えてやろうというんだ」


「……なら普通に偽名でいいんじゃ? あとそれ、王子が言い出した時と全く同じこと言ってます」


「なにか言ったか」


「いいえーっ。わーい嬉しいなあ。じゃあ今度から二人だけの時は呼び捨てにしますね」


「ふんっ」


 二人だけ。

 そう、今だけの事に過ぎない。


 学生の身分を終えれば、姉上が出て行った後でクゥデルローズ家を背負って立つべく、僕も覚えなければならないことが山とある。

 遊んでいられる今の内に。

 顔も良く、忠実で、貴族としての振る舞いを弁えた女など幾らでも居る。

 普段からそういった高貴な者を見ていると、たまに珍品へ興味を持つくらいはあるだろう。

 姉上からの命令で仕方なく従っているに過ぎない僕は、王子のような醜聞を晒すこともない。


 所詮人との関係なんて利用し、利用されるだけのものだ。

 僕が彼女と交流することで情報を得ているように、彼女も王子の庇護を受けたように、僕と接することで後ろ盾を得ようとしていたに違いない。


 今が終われば、きっと。


「そろそろ時間ですね」


 駆け始めた背中へ手を伸ばす。

 この、影とも日向とも付かない木陰の中からするりと抜け出した彼女は、陽光を浴びて輝くように立ち、僕の方へ振り返る。


 何一つ悪意の読み取れない笑顔に不安が膨らんでいく。


 どうせ、お前だって。


 だから早く。


 早く、僕を……裏切ってくれ。

 幻滅させてくれ。失望させてくれ。希望など無いと、権力に擦り寄るだけの凡百と変わらないと、思い知らせてくれれば。


 そうでなければ。


「行きましょう、ユレイン!!」


 呼び掛けられ、僕が恐る恐る伸ばした手を事も無げに掴み取り、そして――――


 そして、



 どうしたんだったか。



 僕は彼女に引かれるまま光の元へ出て行ったのか、気安く触るんじゃないとでも言って慌てて振り払い、木陰に留まったのか。


 思い出せなかった。


 記憶を再生する夢の中、僕は握ってきた彼女の手を感じながら、押し留められたみたいに硬直した。


 未来は確実に、絶望へ通じているというのに。


    ※   ※   ※


 目が覚めて最初に見えたのは、重たい手錠からこぼれ続ける赤錆のような光の粒だった。

 最悪の気分で起き上がると、既に起き出していたのか向かいの牢から声が来る。


「あらユレイン、貴方も起きたのなら湯を貰いなさいな」


 朝日に釣られて顔を挙げると、それを浴びた姉上が珍しく上機嫌に鼻歌を唄っていた。

 頭に残っていた女の顔があっさりと掻き消され、苛立ちを覚えつつも、先日の悪態を思い出して俯く。


「看守。ほら看守、ユレインが起きたわ。用意なさい」


 姉上が鉄格子をノックし、いつも入り口で書き物をしている物言わぬ男へ呼び掛ける。


 相変わらず過ぎる振る舞いに呆れると同時に、彼女が僕以外へ声を掛ける様に驚いた。


 牢屋へ入れられてから、僕以外の誰にも声を掛けたことなんてなかったのに。

 いや、先日になって食事係らを一蹴していたか。

 一度口を開いて留めるものを無くしたのか、煩い限りで腹が立つ。


「……全く、ワシはお前らの家来じゃないぞ」


 酒焼けした声で鉄格子の前へやってきたのはいつもの看守だった。

 白い髭を短く切り揃えており、肌は焼けているものの清潔感のある服装をしている。

 手には桶、そこから湯気が立ち昇っていた。


「自分で言い出したことでしょう? 私は手伝いをしてあげているだけよ」

「きゃんきゃん喚き立てることのどこが手伝いなんだ。……ほら、お前は少し下がれ」


「あ、あぁ……」


 事態が呑み込めずに呆然としていたら、看守が鋭い目を向けてきて壁まで下がった。


 彼は腰の鍵束から一つを取り出すと、出入り口の鍵穴へ差し込む。


「言っておくが、出口の扉は別の奴が管理してる。ワシを人質に取った所で、表の貴族様はあっさり見捨てて騎士団を呼ぶぞ」


 姉上にも同じようなことを言ったのか、彼の後ろで諸手を挙げて肩を竦めていた。

 そういえば、手枷が外されている。


 どういうことかとむしろ僕は慌てた。


 牢屋へ放り込まれて以来、湯など貰った試しが無い。

 服もそのまま、髪も肌も汚れたままとなっていた。

 あまつさえ、手枷を外すなど。


 いや、と。


 置かれた桶と布、そして入り口から漂ってくる芳しい香りに沸き立ちそうな心が、一気に冷え込んだ。


「そうか……」


 男が扉を開ける。

 手枷を外してくれるのだろう、鍵穴のある側面を見せろと示してくる。


 外した所で今更だ。


「俺達の処刑日は、明日の正午だったな」


 打てる手も、その時間も無い。

 尊厳を踏み躙られ、飢えに苦しむ日々が終わる。


 死ぬんだ。


 それでも湯は温かく、こびり付いた泥のように落ちていく垢を見ながら肌を磨いていると、朝日の中で涙が出るほど清々しさを覚えた。

 滋養をたっぷり含んだ濃厚な、温かなスープと共にパンを齧れば、かつての煌びやかな生活とは比較にならないというのに、こうさせてくれている何かへ感謝を想わねばいられなかった。


「食ったら手伝え。自分の使った寝床くらい、自分で掃除していけ」


 食事の後は看守と共に牢屋内を清掃した。

 ここへ放り込まれた直後であれば憤慨し、無駄と分かっていた彼への暴行へ及んだかもしれない。


「そこ、もっとちゃんと磨け。やれやれボンボンは掃除も碌に出来んのか」


 身体を清め、温かな食事で腹を満たす。

 それだけで人は穏やかになれるのだと知った。


 口は悪かったが、何故か今になって面倒を見ようとするこの看守に、僕は感謝すら覚えて従った。


 掃除というのは意外に心地良く、拭き清めていると己の中にあった暗いものまで拭き取られていくような気がした。

 我ながら単純な話だが、存外に悪くない。

 悪くないと、思えた。


 そして掃除を終えた後に、新しい服を与えられた。

 乾いていて、洗濯されたばかりの清潔な服だ。


 着ていた物に比べれば貧相極まりないものだったが、既に汚れきった服よりもよっぽど心地良く、とてつもない上物に思えた。


「……感謝する」


 道具を片付けて離れていこうとする看守へ、僕は言葉を掛けた。


 自分でも驚いているというのに、看守もまた驚いたように僕を見て、眉を下げた。


「仕事だ。本当に気遣ってるなら、食事係のアレも止める」


 その通りだと後になって気付く。

 ただ、不思議と感謝の気持ちは薄れなかった。


 見ていると、男はため息を付いて髪を掻く。


 しばしの無言に疑問を覚えたものの、彼は牢屋前から離れていこうとはせず、躊躇いつつも口を開いた。


「あんたらの起こした内乱で、ウチの息子は死んだ。ずっと苦しめばいいと思ってきたが、そのあんたらも明日には死ぬ。それで終いだ……だから、まあ」


 再び、ため息。


「最後ぐらい、綺麗に過ごせ」


 床に吐き出された想いはどんな形をしていたのだろうか。

 気持ちが緩んでいた状態に突き出された思わぬ話、返せる言葉は思い付かなかったし、返すべきでないこともすぐに分かった。


 それ以上は何も言わず、男は牢の鍵を閉め、いつもの場所へ戻っていった。

 筆を取って書き物をする様子をしばらく眺めていたが、やがてため息をついて鉄格子から離れる。

 どんな想いが落ちていったのかも分からないままに。


 最後の一日、か。


 手錠が外されたとはいえ、それによって掛かった負荷は今も体内に残っている。

 どうせ牢の壁を破ったところで周囲は固められているだろう。逃げ出せたとしてもう匿ってくれる場所は無く、遠からず捕まって殺される。最後に一暴れなどと思った所で、この状態では魔術を発動させることすら出来ないだろう。


 寝台へ腰掛けて目を閉じた。


 もうどうにもならない。

 絶望は確かに残っていたが、不思議と落ち着いていた。


 身体が多少清潔になり、腹が満たされたからかもしれない。


 だとすれば僕は相当に単純だ。


 あんなにも怖れていた癖に、姉上に恨み言まで言って……。


 気付けば手枷もないのに背中を丸め、両手を股の間に置いていた。

 すっかり染み付いた姿勢に自嘲しか出てこない。

 手枷が無くなっても、僕はまだ繋がれたままなのだ。


 姉上は相変わらずパズル遊びをしていて、両手が自由になったからか今までよりはかどっているように見える。

 もしかすると今日の内に出来上がるかもしれない。

 出来た所でなんなんだとは思うけれど。

 部品一つ一つを寝台へ並べ、吟味するように確認していく姿は子どもの頃を思い出す。

 思えば遊興なんて贅沢は遠い過去の話だ。

 血みどろの戦争、飢えと恐怖に包まれた逃亡生活、そしてこの牢屋での……どうしてこんなことにと考えて、元凶たる女が目の前にいることを思い出す。

 恨み言は出てこなかった。

 なんとはなしに眺めた先で、姉上が部品の一つを摘み上げていた。

 貴族令嬢が持つようなものではないにせよ、随分と古ぼけている。


「あぁ……」


 そうだ。


「そのパズル」


「組み上げ方でも思い出した?」


 問われた言葉にも納得する。

 生憎そこまで覚えていないけど、確かに僕も触ったことがあった。


「いえ。でも確かそれって、僕が父上に買ってもらった奴ですよね」

「そうよ」


 そして姉上に取り上げられた……んだったか。


 まあ自分で一度完成させた覚えはあるから、それほど気に病んでいなかった気がする。

 僕が六つか七つの時に出来たことが、もう成人すら通り越した姉上に出来ない。

 ちっぽけな優越感に浸り、馬鹿らしくて笑ってしまう。


「なんでそんなものを持ってきたんですか」


 他に必要なものは幾らでもあった。


 逃亡中の生活は悲惨で、どこからともなく物資を調達してくれる姉上の取り巻きが居なければ野垂れ死んでいただろう。

 買い漁った宝飾品の詰まった宝石箱でもあればと何度思ったか知れない。


「屋敷が燃え落ちる時、とにかく何か持ち出さなきゃって咄嗟に掴んだのがコレだったの」


 慌てていて碌な判断も出来なかったのか。


 僕もそれどころでは無かったとはいえ、手持ちの金品以外は何も無かったからな。


「どうしても完成しないのよね……なんでかしら」


「組み方が悪いのでは。そのパズル、ハマる箇所が複数ある上にただ組み合わせるだけでは形にならなかった覚えがあります」


 およそ幼児がやるような難易度では無かった気がする。

 でも出来た。

 どうしてだったか。

 覚えていないが、出来上がった綺麗な立方体を見て相当な満足を覚えた筈だ。


「ユレイン、貴方覚えていない? このまま出来上がらないままなのは気持ち悪いわ。あ、そうだ――――看守、ほら看守。ちょっと鉄格子を開けなさいな。ユレインと一緒にパズルをするから、ちょっとあっちに行きたいのよ」


 ため息が聞こえた。


「……出来る訳が無いだろう」


 同感だ。


「今更逃げたりしないわ。それとも、ラストが溜まり過ぎて白化現象まで起こしてる、明日処刑される憐れな姉弟が怖いのかしら?」


 そういう問題でも無いと思うが。

 別にパズル遊びがしたい訳でもなかったものの、今朝からの看守であればあるいは、などと呑気なことを考えてしまう。


 揃って鉄格子に張り付き、様子を伺う僕らに看守は頭を掻いてため息をついた。


「すまんがこの後、客人がくる予定だ。牢からは出せない」


 まず最初に僕が青褪めた。


 けれど、次の言葉を聞いて、僕以上に顔色を変えたのは姉上だった。


 清掃や湯浴み、食事は処刑前の慈悲かとも思ったが、どうやら違ったらしい。

 仕事と彼も言っていた。

 今更撤回する気は無いものの、落ち着きかけた今を掻き乱されるには十分な名前で。


「来るのは――――ベリアルド王子だ」


    ※   ※   ※


 姉上が壁を向いて座っている。

 自分で寝台を壁際からズラし、鉄格子へ背を向けて座れるようにして以来、パズル遊びも止めてああしている。


 余程顔を合わせたくないのだろう。


 あの女にもそんな女々しさがあったとは驚きだ。

 両親を殺され、友人だったのだろう取り巻きも殺され、今また自身も殺されようとしている。

 恨みこそすれ、まだ気を残しているのかと呆れる。

 姉上の執着を目にすれば、迂闊に殺せば霊となって王子を追い回しかねないと処刑を取り止めにしてくれるかもしれない。古来より女の恨みを買うことほど怖ろしいものは無いからな。


 やがて出入り口の扉が開かれ、ぞろぞろと騎士が駆け込んできた。

 一人が看守から鍵を受け取ると彼もまた追い出され、その後にゆったりとした足音が降りてくる。


 二人分。


 その瞬間にとても嫌な予感がした。


 僕も姉上のように背を向けていれば良かったと後悔したのは、憎ったらしい王子の顔が見えたからではなく、奴の後ろで心配そうにする女の姿があったからだ。


「イアリス……」


 目が合った。

 途端に猛烈な羞恥を覚え、僕は顔を背けて俯いた。


 あぁ、確かに姉上は正解だった。


 王子に見られるくらいはどうでもいいが、彼女に今の、情けない自分を見られるのはあまりにも深く僕の胸を抉ってきた。


「ユレイン……さん…………?」


 あまりにも変わり果てているからだろう、イアリスの声は震えていて、知らない相手へ向けるようなものだった。


 僕自身、湯浴みの時に自分の顔を確認した。

 痩せて頬はこけ、目は狂人のように真っ赤で、落ち窪んでいる。

 腕は老人のように痩せ細り、白化した皮膚が剥落はくらくすることで身体のあちこちに血が滲んでいる。

 清潔さを好み、整髪油でいつも髪を輝かせていた僕が今や、掻けばしらみが出るような有り様で、当然ながら髪は伸びきってぼさぼさだ。髭は大して生えてこなかったが、みっともないのは同じだろう。


 くそっ、王子の奴、あろうことかイアリスを連れて来るなんて。


 彼女はしばらく絶句し、そして対面の姉上の背を見詰め、顔を俯けた。


 聖女などと呼ばれているが、彼女の心根は変わっていないのだろうと思えた。

 多少の安堵を覚えつつも、だからこそ変わり果てた自分が情けなかった。


 小窓から外の空気が運ばれてきて、咄嗟に僕は息を吸う。

 澱んだこの牢屋で得られる数少ない贅沢だ。

 けれど王子にとって、いやイアリスにとっても、それは違ったらしい。


 王子は風によって舞い上がった牢屋内の空気に眉を寄せた。


「臭いな……」


 何気無い一言だった。

 別に僕らを蔑む訳ではなく、まして挑発する意図もなく、不意に沸きあがってきた感想を口にしただけのような呟き。


 それだけに僕らの羞恥は過熱した。


 今朝まで本当に酷い有り様だったのだ。

 今朝になってようやく取り戻した人間らしさなのだ。

 肌を磨き、食事を摂って、掃除をして、着替えもした。

 けれど王子にとっては僕らのようやく得られた、らしさすらも不潔で耐え難い悪臭だったらしい。

 何も言わなかったが、イアリスも同様に顔をしかめているから、同じ感想なのだろう。


 ここまで違ってしまった。


 馬鹿をやったのは姉上も王子も同じだったのに、勝ったか負けたかでこうも違う。


 沈黙する僕らに耐え切れなかったのか、何かを言おうとしたイアリスを王子が遮った。視線でやりとりする仕草に苛立ちを覚えつつも、予め取り決めがあったのだろうと予測する。彼女は純粋に僕を心配して見に来てくれたのだ。


「全員外へ出ろ」


 王子の命令に騎士達が戸惑う。


「こいつらを見れば分かる。ラストが溜まり過ぎて魔術は使えん。あの痩せ細った腕で鉄格子が破れると思うのなら言ってみろ。安全は確認しただろう? これ以上俺を煩わせるな」


 彼が一睨みすれば騎士達はビクリと身体を震わせ、逃げ出すように出て行った。

 大勢引き連れてきたのは、僕らを脅す為ではなかったらしい。


 残ったのは牢の中の僕らと、王子と、イアリスだけ。


 王子は騎士達が出て行った後もしばらく周囲を探っていたが、やがて姉上の背中を見やり、けれどすぐ僕へ振り向いて歩み寄る。


「ユレイン=ロア=クゥデルローズ」


 燻りのような声に身を震わせた。


 僕らを負かし、今まさに命を奪おうとする男。

 次々と領地を食い破られる様は恐怖でしかなかった。

 馬鹿ではあったが、怖ろしく強かった、この国の覇王にならんとする男。


 処刑前日に顔を見に来た、などという下らない理由でやってくる奴じゃない。


 人を遠ざけ、それで尚も声を小さく、呟きにも似た音で彼は告げた。


「ヴァルマンの木について、なにか知っているか」


    ※   ※   ※


 咄嗟に幾つもの思考が溢れた。


 ヴァルマンの木。


 それについては何一つ知らなかったが、今の王子にとってとても重要且つ、周囲に知らせることの出来ない内容であるのは確かだ。


 だからコレは、取り引きの可能性がある。

 もしヴァルマンの木について何らかの情報を提示出来れば助命を請えるかもしれない。

 問題は知らないという点だ。

 それでも交渉を進める手法はある。


 一つは知っているフリをする方法。


 とぼけて情報提供を渋りつつ、より有利な交渉条件を引き出すのはよくある手段だ。

 けれど発覚した場合、可能性は絶望的となる。そもそも知らないのだから、撒き餌となる情報が何も無い。却下だ。


 次に、協力を申し出る方法。


 情報は持っていないが、今無いだけで、提供出来る様になる可能性があると思わせること。

 王子は態々足を運んで僕に聞いてきた。

 それは七代貴族であるクゥデルローズ家なら知っているかも知れないと彼が考えている証拠ではないか。

 家を探れば……すでに焼け落ちてしまったが、僕なら王子もしらない家の秘密に心当たりがあるかもしれない。

 ここから出して、調査へ協力すると約束すれば助命は考えられる。

 王子がソレにどこまで固執しているかだが、絶無だった可能性に一筋の光が生じたのであれば、試さずにいられるだろうか。


 いける。

 いける筈だ。


 最初の一言が肝となる。


 王子の興味を引き、試そうと思わせることが重要。


 処刑など替え玉を使えばどうとでもなる。

 その手間さえ惜しまれるようなものではいけない。


 どんな、何を言えば、この恐るべき男の気を引ける?



「ふふ、ははははっ、あっははははははははははは!!!」



 猛烈に回る思考を焼き付けたのは、王子でもイアリスでもなく、鉄格子の更に向こうに居る姉上だった。


 彼女は、あの女は、捻れ曲がった烈火の如き赤髪を揺らめかせ、周囲を叩き伏せんばかりに哄笑した。

 決して後ろを振り返りはしなかったが、その瞳が嫉妬の炎を宿している事だけは分かる。

 笑い声に混じる侮蔑と恐喝。

 いつだって彼女は己を周囲の上に立たせ、当然と足蹴にしてきた。

 唯一の例外である、王子を除いて。


「お人形遊びもここまでくると酔狂を通り越して見世物になりそうですわよ、ベリアルド王子」


 焦る僕を置き去りに、いつものように暴走したまま、自ら崖の向こうへ飛び込もうとする。

 止めろ。

 可能性が。

 交渉次第で未来が開けるかもしれないんだ。


 けれどいつものように、僕の想いは届かない。


「先日こちらにも随分と増長した子豚さん達が来たものだけど、どうやら随分と苦労なさっているようね。そのように卑しい女を傍らに置かねばならないほどに、王国は困窮しているということかしら。それにしても少女趣味を疑うわ。人の形をしているとはいえ、家畜も同然の平民にお仕着せをして、聖女? ああああああぁ、聖女だなどと喧伝して、周囲にまでごっこ遊びを強要するだなんて、もっと早く言って下されば私が一緒に遊んであげましたのよ? 遊びが高じて国まで傾け、大昔の聖女伝説にまで縋ろうとするだなんて、今の玉座はさぞお花が咲き誇っているのでしょうねぇ」


 王子は無言で姉上の背を見据えていた。


 怒りは見えない。

 見えないからこそ怖ろしい。


 この男が怒りを見せた結果、クゥデルローズ家とそこに連なる全ての者達は惨殺されたのだ。


「お、王子、お話についてですが――――」

「アリーシャさん、私…………っ」


 なんとか言葉を搾り出したが、イアリスと声が被り、彼女がこちらを向いたことで何も言えなくなった。


 ただただ見られたくない。

 情けない。

 恥ずかしい。

 見ないでくれ。

 僕はこんな、こんなんじゃないんだ。


 耐え難い屈辱に絶望感が増していく。

 頭も碌に働かない。


 何か言わなくては。


 あの女の言葉を止め、王子に話を聞かせなければもう…………。


「誰の許しを得て声を掛けているの」


 喉の奥が黒煙に燻されたようなざらつきを得た。

 それが姉上の声だと気付くのに僅かな間が必要だったほどで。


 彼女もまた、この牢屋の中で僕と同じように溜め込んでいたものがあったのかもしれない。


 悪魔のような女が振り返り、食らい付かんばかりに鉄格子を握り込む。

 地獄の業火を背負いながら、その声は終末を告げる角笛のように静けさを引き裂いた。


「気安く話し掛けないでと何度も言ってるでしょう!? 聖女だなんて呼ばれてどれほど思い上がったのかしらッ!! あぁぁぁ汚らわしい女ッ! 本当にベリアルド様を想うのなら、アナタのような者が近寄るべきではないのよ!? なのに今でもまだすり寄って王子の慈悲を啜ろうとする……ッ! ねえ何人殺してきたの? どれだけの人から私達のように全てを奪ってきたの? それでよく聖女だなんて呼ばれて平気でいられるわねえ!? あぁああぁぁぁ汚い髪、駄目よそんな髪にどれだけ宝飾品をぶら下げても、アナタの醜さは隠しきれないのよ? ははははははは!! そうやって俯いて生きていくのがお似合いよ。ねえ王子――――」


 そして勢いよく捲くし立てていた姉上の目の前で、ベリアルド王子はイアリスを抱き寄せ口付けた。


「……………………」

「……………………」


 あまりにも自然に。

 まるで、いつものことのように。


 王子と唇を合わせたままのイアリスが、目を動かして僕を見る。


 羞恥に頬が染まり、けれど、拒絶や怒りなどはなく。


「っ、ベリアルド様っ、他の方が居る前で、んんんっ」


 離れかけた唇を更に求め、王子の方から彼女の後頭部へ手を回して、金糸のような髪へ指を絡めながら更に密着する。

 二人の重ねた唇から水音が混じる。

 あれは、なんだ。

 舌を絡めているのか。

 なんで。

 なにが。

 意味が分からない。

 そんなことをされて、どうして君は。

 暗く澱んだ瞳で王子が求めるように見れば、まだ少し周囲を気にしていたイアリスがそっと力を抜く。

 彼女の腕が王子に回され、その背をあやすように叩いた。


 受け入れた。


 その光景が僕には、王子という怪物にイアリスが食われていくようにも見えて、ただただ停止して眺めていた。

 いつか日向から手を伸ばしてきた姿が頭に浮かぶ。

 触れた手の温かさと柔らかさ。確かに感じた、安堵のようなものが掻き消えていく。


 漏れ出てくるのは想いの残滓だ。


「ぁ、ぁ――――は、はは……」


 空っぽの声がする。

 僕と姉上、どちらのものだっただろうか。


 もしかすると、まだ想いを残していたのかもしれない者が見せるあまりにも生々しい姿に、今はもう絶望しかなかった。


 やがて身を離した二人は少しの間見詰めあい、先に目を伏せた王子がこちらへ向き直る。

 身を整え、何かを言おうとしたイアリスを遮って、ベリアルドは吐き捨てるように言った。


「時間の無駄だったようだ。イアリスの苦悩も知ろうとせず、事ここに至って反省の一つも無い。その醜く汚い言葉しか吐き出さない口は、刑場では縫い付けておくよう命令しておこう」


 行こう、言ってイアリスの肩を抱き、ベリアルドは去っていく。

 イアリスはまだ何か言いたげにしていたが、強引に進み続ける彼にまた口を噤み、従った。


 閉まる扉の音は、微かに見えた救いの終わりを意味している。


 彼女の熱が牢屋から消えていく。

 柔らかだった声の震えも、何もかもが消え失せた後、


「ああああ、あああああああああああああああああああっっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 崩れ落ちた僕は荒れ狂う感情のまま叫び出し、


「おまえさえいなければあああああああああ!!」


 鉄格子の向こう側で立ち尽くしていた姉上へ、恨みの全てをぶつけ始めた。


    ※   ※   ※


 「どうしてお前はそうなんだ!!」


 恐怖も何も消え失せていた。

 怒りとも付かない荒れ狂う感情を、あの恐るべき姉上へ容赦無く投げつける。


「僕はずっとずっと我慢してきたんだ!! お前の馬鹿みたいな執着に付き合ってッ! お前の嫉妬心なんてクソ下らないものの為にいつだって奔走させられッ、やりたくもない汚れ仕事を押し付けられてきただけなのにぃ……!! 少しくらいお前も我慢しろよ!! なんで僕ばっかりなんだ!! なんで僕ばっかり苦しまなければならないんだよお!!! お前のせいで殺されるんだ! ごめんなさい申し訳ありませんと頭を下げることも出来ないのか!! 誰のせいで父上も皆も死んだと思ってる!?」


 手が痛むのも構わず鉄格子を殴りつけ、殴りつけ、本当に指の骨が折れた。


 なのに痛みなんて感じない。

 胸の苦しさはとうに限界を超えている。


 光が見えたんだ。


 可能性はあったんだ。


 上手く交渉を進めれば生き残れたかもしれないのに。


「いつもいつも下らない感情に振り回されてッ、折角の希望もなにも、お前はいっつも僕から取り上げてばっかりだ! もううんざりなんだよ!!」


 諦めたままで居られたら、こんなにも苦しい想いはしなくてよかった。

 一度見えてしまった生があまりにも眩しくて、自分の向かう先にある暗闇が途方も無く怖ろしく思えてくる。


「どうして……!! どうして……っ、僕ばっかりこんなに苦しめられるんだよぉぉぉぉおおおおおお!!」


「ユレイン、手が」


「っっっうるさい!! どうせ死ぬんだ!! 僕もっ、お前もっ、明日には首を落とされて死ぬんだよ!! なにもかも終わりだ!! ここまで引きずり込んだのはお前だッ!! お前のせいで僕は死んだよぉ……っ、ぁっ、ぐ、ぁああああああああああああああああああ!!!!」


 鉄格子へ額を押し付け、崩れ落ちていく。

 ついた膝が冷たいことにすら腹が立って、今度は床を殴り始めた。


 何もかもどうでも良い。

 生きていることに何の希望も見い出せないのに、なんでこうも生きていたいんだ。


 どうして殺されることがこんなにも怖いんだ!


「分かった。分かったわ、だから、手を治療しましょう……?」


「僕に話しかけるな!! 汚れてるのはお前だ! お前こそが卑しい女だ!!」


「看守! 看守!! ユレインが暴れているわ!! 早く来て止めなさい!!」


「うるさい……っ。うるさいっ、うるさいっ、うるさいうるさい!! 死ねよ、早く死ねよクソ女ァ!! 僕に悪いと思うなら、僕より先にお前が死んでみろ!! 泣き叫ぶアンタの姿を見て少しは溜飲が下がるだろうさ……! そうだよ死ねっ、死ねっ、死ねェ……!!」


「看守ッ!!! ユレインが!! 早く来なさい――――!!!」


 やがて血相変えて駆け込んできた看守が鍵を開け、抱きすくめて僕を止めた。

 暴れようとするも男の力は強くて、何の抵抗も出来ない自分の弱った身体にまた絶望した。


「…………全く、なんで俺が」


 悪態を付きつつも男が抱いた僕の背をさすり、長い時間を掛けて落ち着くのを待ってくれた。


 崩れ落ちた姉上が鉄格子を掴んだまま顔を俯かせ、長い、長いため息をついて、そのまま動かなくなった。


 手の治療をして貰った後、なんとか持ち直した僕はいつものように寝台へ座り、いつまでもそうしている姉上に不気味さを覚えながらも、時折様子を伺って、そして、沈黙した。


 余程慌てていたんだろう、看守が鍵も閉め忘れていつもの席へ戻っていったが、何もする気が起きずに放置した。

 どうせ外の扉は騎士が警戒してる。

 逃げ出すことも出来ず、死を待つだけの時間が過ぎる。


「――――分かったわ。私が先に死んであげる」


 陽も暮れ始めた頃、ようやく動き出した姉上は、それだけ言っていつもの場所へ寝台を戻し、また立体パズルを始めた。


 カチ、カチ、と古ぼけた木彫りの部品が合わさって、崩されて、それを繰り返す音がする。


 口を開く者は居なかった。


 処刑はもう、翌日に迫っている




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