悪役令嬢の弟ですが、このままでは道ヅレで破滅してしまうので姉を光堕ちさせようと思います。

あわき尊継

牢獄にて①


 手枷が重たいのは、牢屋へ繋がれた者に頭を垂れさせる為なのだろう。


 最初は腰元へ置いていた。すると重みで血流が圧迫されて脚が痺れてくる。木枠の枷ならともかく、僕に付けられている特別製は大きく、非常に重たい。膝に移しても似たようなもので、脚を開いて股の間へ置くのが最も楽だ。すると自然と肩が引っ張られ、背骨は曲がり、頭が下がってくる。目を向けるのは専ら汚い床か、冷たい石の壁。日を追う毎に小さく丸まってきた僕を鉄格子の外から見ると、飢えた獣のようにも見えるらしい。実際に食事は粗末なものが僅かしか出してこないから、腹はいつだってすかすかで、何か寄越せと僕を攻め立ててくる。


 ふっと、頭上から流れ落ちてきた風を胸に吸い込む。

 悪臭立ち込めるこの牢屋の中で、小窓から時折入ってくる唯一清浄な空気。

 そいつを啜るようにしながら、自分の死を待つだけの時間を無為に過ごしていた。


 もう疲れ果てた。


 悪態も、焦燥も、絶望することにさえ、プッツリと途切れたみたいにどうでも良くなった。


 あぁでも。


 向かいの牢屋に居る、もう一人を思えば少しは人間らしい気持ちを思い出せる。


 烈火の如き真紅の髪。

 髪は女の魂と言うそうだが、まさしくあの女の性根をよく現していた。

 一度怒り出せば火を付けたみたいに暴れ回り、山火事の延焼の如く被害を撒き散らして広げていく。

 鮮烈で凶暴で貪欲な、貴族女の嫌な部分を煮詰めて作ったような性格をしているのがあの女、我が姉上ことアリーシャ=レイ=クゥデルローズなのだ。


 縦巻きロールなんて古臭い髪型を好んでいるのも、捻じ曲がった心の根をさぞ自覚しているからだろう。

 捕まってからは手入れも碌に出来ず、クソ下らない身支度を待つ必要も無くなった。今の状況を良かったと思えることがあるとすればソレくらいなものだろう。


 姉上はすっかり身を丸くすることに慣れた僕とは違い、今も腰元に手枷を置いて、自牢の小窓を眺めている。

 枷は僕に取り付けられているものより一回りも大きかった。

 高い魔力を持つほど位が高くなる、というのはこの国の常識だ。

 そして対魔術師用のこの手枷は、魔力精製量に応じて大きく、重くなっていく。


 高位の貴族ほど繋がれた時には重みに引き摺られるというのは実に皮肉が効いている。


 なのに、


「…………綺麗な空ね」


 爪弾くような声音を僕は聞かなかったふりをして黙殺する。


 僕はこんなにも打ちのめされているのに。


 巻き込んだ姉上がどうしてそこまで平然としているのか。


 苛立ちはまた少し僕を満たし、ため息は足元を澱ませた。


    ※   ※   ※


 一国の王子と平民女が結ばれることはあるだろうか。


 全てはこの問い掛け一つに尽きた。

 答えは簡単だ。


 ありえない。


 貴族間の結婚は高度に政治的な意味を持ち、例え王子であろうと、いや王ですら、自分勝手に王子と姉上との婚約を破棄することは許されない。

 ましてや爵位もない平民の入る余地などありはしない。


 なのに姉上にとって、あの平民女は眼前を飛び回る羽虫よりも我慢ならない存在であったらしい。


 嫌がらせに継ぐ嫌がらせ。言葉で嬲り、身分を振り翳して追いやり、それでも折れないと分かったら実力行使に訴え出た。仮にも王の許しによって特待されている生徒を力押しで学園から排除することは出来なかったから、自ら降りてもらうしかない。あるいは待遇を取り上げられるような失態でもあれば。

 女は奇跡的な立ち回りでそれらを回避し、あまつさえ王子の目に留まって庇護と……寵愛を受けた。

 すると更に嫉妬の炎を燃やすのが我が姉上だ。

 僕を巻き込み、アレをやれコレをやれと非合法の中でも更に危うい汚れ役を押し付け、自分は王子へすり寄って猫撫で声を発する。

 うんざりだった。


 どれだけ平民女が上手く王子へ取り入った所で、情婦になるのが精々で、既に婚約を交わしていた姉上は自然と王妃の座に収まる予定だったんだ。


 王族の本流に生まれた以上、王子がどれほど馬鹿であろうと平民女に入れ込んで身分を捨てるなどと言い始めれば、火種になることを憂慮して消されるのが関の山。書面上の爵位を下げたとしても、国を揺さぶれる者を優しく市井へ放り出すほど貴族社会は甘くない。精々、表面的に門出を祝福した後、事故に見せかけ殺されるだけだ。王族がその身分を失うというのは、常に自身の死か、国の死を意味している。


 だから王子を奪われることなどないと何度説明したか。

 嫉妬に狂った女ほど手に負えないものはないと僕は思い知らされた。

 せめてあの時までに――――けれど、決定的な分岐点は否応無く訪れた。


『もう我慢の限界だ。君との婚約は、今日この場を以って破棄させて貰う』


 あの姉上に求愛されるなどという辛苦に同情くらいはしていたが、王子の言葉に僕は馬鹿がもう一人居たことにようやく気付いた。


 僕らクゥデルローズ家は王国筆頭の七大貴族に列せられる。

 そこの娘である姉上と王子が婚約していたことは、当然ながらクゥデルローズ家が王子派閥の筆頭として彼を支えていることを内外に知らしめる非常に政治的な関係性となる。

 一方的な破棄など許されない。

 王子を中心に次代の王国を築いていこうと、今日まで一族皆が協力して彼を立て、次代の基盤を整えてきた。


 婚約というのはとても強い結び付きで、我が家は例え王子が凋落したとしても逃げ出すことが許されない。

 不退転の決意と絶対の忠誠を王子に誓っていたに等しい。

 性格に難があったとはいえ、姉上は貴族として十分な立ち振る舞いの出来る教育を受けてきたし、あの奇怪極まる女共を纏め上げて派閥を運営していた実績も確かにあった。


 また内側だけでなく、外交面でもこれは重大事件だった。

 大陸から外れた島国である我が国は、内の結束を強く保つことで侵略を免れてきた背景がある。

 姉上との婚約を破棄するというのは、クゥデルローズ家とそこに列なるすべての貴族に対する裏切りであり、内との結束よりも外部を求めるという意思表示にも見えてしまう。

 内部に亀裂が生じるのは明らかで、事実この後に国内は陰謀が溢れ、王国は多大な被害を被ることになった。


 王子は僕らが仕掛けた誘拐騒ぎに自ら顔を隠して平民女の護衛となり、守って見せた後は暴漢から傷を受けたことを根拠に王家への反逆だと訴えた。

 確かに、証拠を押さえた上で僕らを吊るし上げた手腕は見事だ。

 してやられたとその当時は思った。

 彼は場を演出する手腕に長けていて、議論を勢いでひっくり返すのを見たのは一度や二度じゃない。

 それはある意味、玉座へ据えるに相応しい才覚とも言えた。


 だが国の中枢に座す貴族同士で暗闘を繰り返すのは世の常。

 水に流せという意味じゃない。

 もし王子が本当に王国を憂えるのであれば、事は内々に処理し、クゥデルローズ家に手綱を付けるだけで満足すべきだった。

 結果として彼を傷付けたとはいえ、王子への害意が無かったのは明らかで、ましてや傷の原因は荒事の場へ自ら顔を隠して入り込んでいたから、だ。


 後ろ盾の一角どころか、それらを取り纏める我が家を排除すれば国が荒れるのは必定、まして婚約者がありながら平民女に入れ込んでいた醜聞も考えれば、反王子派閥が勢い付くのは火を見るより明らかだった。


 公的な場で告げられた言葉だったこともあり、王子派閥の崩壊は瞬く間に広まった。


 反逆罪を理由に姉上と僕を捕らえたことで父上が激怒し、派閥を纏め上げて王と対立した。

 この時の素早い対応のおかげで僕らは助けられ、事なきを得たが、改めて事を収めようと影に日向に動いていた中、またしても決定的なことが起きる。


 王子が、領地に引き篭もって守りに徹するこちらの前線を僅かな手勢で食い破り、領主一族を反逆者として処刑してしまったのだ。


 確かに対立はした。反逆ではあろう。武力を振り翳して防備を固めたことは王国を二分させ、国を乱したとも言える。だがあの時点ならまだ取り返しはついた。細かな調整は数年掛けて行われるとしても、王も父上も子どもらの暴走を止めようと動いていたし、そういう二人の関係があるからこそ両家の婚約が成立していたのだから。

 だが彼は殺してしまった。

 今日まで彼自身を支えてきて、いずれ王として煽ぐべく働いてきた忠臣を。

 血を流してしまえばもう止められない。激怒する派閥の貴族らを宥めようとすればするほど父上は周囲から追い詰められていった。

 対立する勢力、そのどちらのトップも望んでいないにも関わらず、王国は内乱へと雪崩れ込むしかなかった。


 しかし、王子は強かった。


 乱世の支配者としてそれに勝る才はない。

 王子はすぐさまクゥデルローズ家を国賊と名指しし、内にも外にもその悪評を喧伝した。

 実際、王国の後ろ暗い部分を担ってもきた僕らの歴史は血みどろだ。だからこそ、王子を一族上げて後援し、過去の悪評を振り払うべく死に物狂いで彼を押し上げてきた。


 父の最期は、血の涙を流しながらの服毒であったと聞く。

 姉上の母である正妻は、本拠地となる都市に火を放って王子の行軍を妨害して焼死。

 他にもほんの数年前まで王子を支えていた貴族達が次々と捕えられ、斬首され、世間では王国を蝕む邪悪を祓っているのだと喧伝されていた。


 あの平民女が聖女などと持て囃されたのもその頃だ。


 元々、炉心革命など関係無しに王族へ匹敵するほど膨大な魔力量を持っていたあの女。その才能を存分に生かして彼女の立場を構築し、今や次期国王の座が確定した王子が傍らへ当然と置いていることからも、僕らの生き血を啜って己の望みを敵えたことは想像に固くない。


 僕達は勝てなかった。


 僕達は負けた。


 そして今、僕ら姉弟は捕えられ、処刑の時を待っている。


    ※   ※   ※


 カチリ、という音に意識を引き戻された。


「覚えているかしら、ユレイン?」


 僕の名を呼ぶアリーシャ、姉上に少なからず苛立ちを覚えながら目を向ける。

 彼女は目線を空から外して手元へ向けていた。

 落ち込んでのことであればよかったのに、なにやら手作業をしているらしい。


「ずっと幼い頃に領地の都市へ楽団がやって来て、すごい騒ぎになったのよね。お父様に頼んで屋敷へ呼んで貰ったけど、貴方、待ちきれないって駄々を捏ねて、その日の内に私と抜け出して公演を見に行ったのよ」


 指一本ほどのパーツを脇に並べて手元で組み上げていく。

 手枷が重たいのだろう、動きは緩慢で、時折前後に位置をズラしながらやっているから全てが見えている訳じゃない。


 それが脱出の為に隠し持っていた道具であればどれだけ良かったか。

 姉上がやっているのは立体パズルだ。逃走中も暇を見つけては遊んでいた。牢へ放り込まれた際、魔術的な道具であることを疑われたが、何もないと分かると共に放り込まれていた。いっそ組み上げられないくらいに壊れていれば良かったのに、ああして時折思い出したように遊び始める。


 僕はため息を付いて小さく呻いた。

 手枷と擦れる肌はすっかり赤く腫れ上がり、掻けない痒みは意識を割くように鋭い苛立ちを与えてくる。


「護衛も撒いていたから、忍び込んだ先で同じく忍び込んでいた都市の子どもと喧嘩になって……貴方脅えて何も出来なかったから、私が一人で三人も相手にした」


 腹の中がムカムカしてくる。


 コレをやってきた王子のことは八つ裂きにでもしてやりたいが、ここに至って尚も呑気に昔話などする姉上が何よりも腹立たしかった。

 だってそうだろう。

 反乱が失敗したことは仕方無いとしても、事は姉上一人が我慢すれば起きなかったんだ。


 皆死んだ。


 父も義母も、僕の母も、姉上といつも一緒に居た取り巻きも、そこに列なる誰も彼もがあの王子に蹂躙された。


 それを引き起こしたのは王子であり、姉上だ。


 なのに何故そうしていられる。


 せめて詫びろ。

 僕へ詫びて、涙を流してみろというんだ。


「お父様に叱られてる時、喧嘩で怪我をした私は泣かなかったのに、貴方はびーびー泣いていた。あぁもうしょうがないわねって思ったわ」


 どうして変わらずに居られる。


 お前のせいで。

 お前こそが。


 思うのに声が出ない。


 僕はあの姉上の髪が苦手だった。

 ぐるぐると巻いた髪は大きく広がっていて、姉上が怒り出すと炎のように揺らめいて見える。

 昔から強引で、自分勝手で、馬鹿みたいに揺るがない。

 だったら王子の愛情くらい、平民女にくれてやれば良かったんだ。


 どうしてお前は、あんなにも怒り狂っていたんだよ。


    ※   ※   ※


 けたたましく打ち鳴らされる鐘の音に飛び起きた。

 もう陽が沈みかけている。

 篝火が焚かれ、その火が妙に目の奥を焼いた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛~、公爵サマぁ!! 食ぅ事の時間ですよおおお!!! っははははははは!!!!」


 思わず身を縮めて壁に拠ろうとした。

 手枷が重く、肩が引き摺られて前のめりになる。


 酒の匂いがした。


「おー、なんだ居るじゃんよ」


 鉄格子が蹴られ、また甲高い音が鳴る。

 格子そのものは固定されているが、出入り口はよく音が響く。


 男は臭い息を吐きながらこちらを覗き込み、受け渡し口の蓋を開けたり閉めたりしながら嗤う。

 顔を背け、反応しないようにしていたが、それが気に入らなかったらしくツバを吐いてまた鉄格子を蹴った。


「ここは宴会場じゃないぞ」


 いつも入り口脇で書き物をしている看守が珍しく言葉を発した。


 なにかと思えば、仲間を連れて来ているらしい。


「いいじゃんいいじゃん。折角の祝勝祭なんだからさあっ」

「そうそう。コイツらに自分のやったことの侘び入れさせないと駄目じゃん?」

「だっから俺達は正義の味方さあ! それに処刑決まったっていうのに、随分と――――ひゅうっ、こっちは女が居るぜえ!!」


 歓声があがり、それに混じって看守が鼻を鳴らすのが聞こえた。


 最後の砦である彼が何も言わないのなら、俺達は見世物になるしかない。

 食事係の男以外は真っ先に姉上の居る牢へ飛び付き、脱げだのしゃぶれだの汚い言葉を浴びせ掛けた。

 だが無駄だ。


「やめとけ。そっちは完全無視してきやがる。一言だって喋りやしねえ」


 姉上は彼や、それ以外の煽りの一切に反応を示したことが無い。

 彼女が話しかけてくるのは看守以外に誰も居ない時で、それ以外はずっとだんまりだ。


「けどよおっ、貴族女を好きに嬲れるんだったら最高じゃねえか!!」

「ねえお姉さああん! 俺のこと気持ち良くしてくれたら逃がしてあげるよお!」

「いやお前それは拙いって。辛いとか怖いとか考えられないくらいボロボロにしてやるのが情けだろうに」

「お前の方がエゲつねえよっ。そういや、降伏してきたコイツらの下僕、こっそり飼って遊んでたんだろお?」


「うるっせえぞおめえら!! 面白いもん見せてやるって言ったろうが!! 黙ってみてろ!!」


 食事係が一喝すると多少の悪態を混ぜつつもようやく牢屋が静かになる。


 脅えつつも様子を伺っていた僕は、受け渡し口の向こうから覗きこむ男と目が合った。


「おいボンボン、いつものやれ」


 僕は彼の後ろに居る数名の男達を見た。

 どいつもこいつも飲んでいるのか、匂いだけで酔ってしまいそうなほど酒臭い。


 並ぶ目だけがやけにギラついていて、思わず身が震えた。


「やれっつってんだろうがよお!! 俺に恥かかす気か!? どうなるか分かってんだろうなああ!!」


 何をやれと言われているのか分かっている。


 この男は食事係の立場と、看守が黙認するのをいいことに何かと僕をウサ晴らしに使ってきた。

 食事が時折カビているのも、碌に与えられないのも、こいつがそうしているからだ。


 飢えは苦しい。


 胃袋から無数に細い腕が生えてきて、全身を、頭の中をぎゅうぎゅうと締め付けてくる。

 食べる以外に何も考えられなくなってきて、気付けば獣みたいに喘いでいる自分が居る。

 人の言葉すら飢えた者には理解できなくなる。

 自分がバラバラに崩れて、皮膚に達した腕が徐々にそこの感覚を剥ぎ取っていくように全身が麻痺してくる。


 そういった経験があるだけに、限界点を越えそうな飢えの中で、僕は彼に縋り付いて食事を請うた。


 飢えたくなかった。

 苦しみたくなかった。

 だから、誇りなんてかなぐり捨てて、這い蹲って頭を下げたら、男は嬉々として僕にそれをやらせるようになった。


 一度やってしまえば二度も三度も変わらない。

 でも地面に額を打ちつけた後、鉄格子に背を向けて食事を摂っていたら涙が溢れた。


 次はああしろ、次はこうやってみろ。


 まるで犬に芸を仕込むように男は言って、嗤われながら僕は従ってきた。


 自分を切り裂いて渡す中、当然のように何もせず食事を得られる姉上が憎くて仕方なかった。

 僕はこんなにも苦しんでいるのに。

 お前のせいでこんなことになっているのに。


 今日もまた、僕は食われていく。


 こんな大勢の前でやったら、もう骨も残らないかもしれない。


 奥で震えていた僕が立ち上がろうとして、手枷の重さに引き摺られて前倒しに倒れた途端、鉄格子の向こうから笑い声が弾けた。

 幾つも汚いツバが飛んできて、葉巻の匂いがやけに髪へ絡みついた。


「おらちゃんとやれよお? そしたら餌をやるからよお」


 もたもたと身を起こし、膝を付いて、


「それじゃあお前らしっかり見とけよ! 貴族の、それも公爵サマの土下座だあ!」


 頭を下げていく。

 笑い声が牙のように突き刺さり、今ここに存在する自分が引き千切れていくのを感じた。

 喉が引き攣る。

 拙い。

 泣くのは。

 それだけは。

 必死に堪えて見せないようにしてきたのに。



「……全く、見るに耐えない醜さね」



 姉上の声がした。

 汚濁のような男達の笑い声の裏側から、燻りから生じた狼煙みたいに、それは良く響いた。


 同時に猛烈な羞恥に襲われた。あの姉上に見られていた。分かりきっていたことを、その最中に声をあげられたことで今更になって思い知る。


「ぁあ……?」


 全員の視線が逸れた。


 並ぶ男達の向こう側で、囚われて尚も自分を見失わない貴族の女が静かに座っている。


「なんだよ喋るじゃねえか」

「お前もしかして、独り占めしようとしてたんじゃねえの?」


「違う。そいつが喋ったの聞いたのすら初めてだよ」


 今度は姉上の牢の入り口を蹴り飛ばし、男は鉄格子を掴んで言葉を吐いた。


「なんだよ喋れるなら相手してくれよお。もしかして大勢に嬲られるのが好きなのかな? だからちょっとやる気出しちゃったあ?」


「ひゅう! おいおい男の土下座なんかよりこっちのがいいじゃん! ほら女っ、脱いでおねだりしてみろよお! 貴族女の股を見せてみろって!!」

「お高く留まってんじゃねえよ! 知ってるぜお前、王子に捨てられて、その後も未練がましく付き纏ってたんだろお!?」

「かわいそお……!! 俺が慰めてやるよお! ほらこっち尻向けて突き出してみろって!」

「無視しないでよ公爵サマぁ! 僕達傷付いちゃうよお!!」


 まさしく肉に群がる獣の群れだった。

 王城の牢へ出入り出来るということは、内乱で少なからず功績を挙げた者の筈だ。

 なのにその振る舞いは下劣極まり、こんなのが平気で城内を歩いているのかと、そんな相手に負けたのかと力が抜けてくる。


「そういや知ってるかあ? お前がご執心だった王子様はよお、近い内に聖女様と結婚するって噂だ。聖女様主導の元で俺達平民にだって議会は開かれる。もう貴族の時代は終わったんだよ!!」

「魔術だって炉心革命以来お前ら貴族なんて碌に扱えやしねえじゃねえか! 今まで偉そうにしてきた分、這い蹲ってみろってんだよお!!」


 一度声を発したからか、男達は諦めもせず言葉を姉上へ叩き付け続ける。


 彼らの後ろでゆっくりと身を起こした僕は、この重たい手枷からこぼれ続けている赤錆のような光を見た。

 平民と貴族の価値を一変させた炉心革命。

 貴族を殺す毒と化した、魔術の呪いだ。


 やがて食事係の男が篝火から薪を一本抜いて力任せに打ちつけ始めると、洞穴の奥から響くような笑い声が染み出してきた。


 次第に大きくなっていく、周囲を当たり前に蔑んでいた女の持つ高慢極まる笑い声は、下卑た煽りの全てを獣の遠吠えに堕す。


「っ――――は、あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」


 ゆらりと真紅の髪を風に流しながら、烈火の如き女が嗤う。

 それだけで場は静まり返っていた。


 冷や水を浴びせられたのではない。

 酔って盛り上がっていた前で、自分達を遥かに上回る酔狂さを見せ付けられたような、呆気に取られる様。


 嫉妬一つで国を割らせ、肉親も友人も全て焼き尽くした狂人が煽り立てる。


「あらごめんあそばせ! あまりにも滑稽な見世物で、今日まで笑いを堪えるのに必死だったのよ。なんだったかしら、貴族の時代が終わった? あああああああああああ、それで自分達が貴種にでも成れたと思い込んでしまったのね。頭の足りない家畜ほど自分のものでもない価値で着飾るのが好きよねえ? でも大丈夫かしら? ほら、家畜って自分が臭いことに気付いていないものじゃない? どれだけ煌びやかな宝飾で飾り付けたとしても、豚は豚よね?」


 鉄格子が蹴り付けられるが、姉上の煽りは止まらない。


「私に触れたいのでしょう? なら入ってきなさいよ、入れるものならね」


 男達は食事を運んでくるだけだ。

 入り口で見張っている看守とは違い、鍵を与えられてはいない。


 群れてやってきて不満を発散させているものの、見逃されているに過ぎない。


「それがアナタ達と私達との違いよ。切り分けて与えられた権利えさを誇る程度の者には似合いかしら。きっと今居る場所が檻の外だと思い込んでいるのね。滑稽過ぎて憐れみくらいは覚えるわ。せめて――――」


 盆が叩き付けられ、乗っていたパンやスープが飛び散って姉上へ降りかかった。


「とっととくたばれ害虫が」


 吐き捨てて男達は去っていく。

 看守に鍵を寄越せと言った者も居たが、聞き覚えのある王子の側近の名を出されては連中も好き勝手は出来ない。

 そうして馬鹿騒ぎが遠退いた後、ようやく彼女は動き出した。

 頬に付着した野菜を摘み、匂いを嗅ぐ。ため息をついて放り捨て、鉄格子の外に転がる皿を拾って撒き散らされた食べ物を取り分ける。駄目なものも多いが、まだ食べられるものも残っている。スプーンすら用意されていなかった為、彼女は芋の外側を爪で削って、摘んで齧る。


「あら、意外と食べられるじゃない」


 落ちたパンも摘みつつ、撒き散らされた食事を屈み込んで食べていく。

 膝を付かないのはスープや水が床を濡らしているからなのか。


 最低限と呼ぶにはあまりにも酷い有り様ではあったが、こんな時でも貴族としての振る舞いを続ける姉上と、恐怖と空腹に負けて物乞いよりも醜く地を這った自分。すべてを諦めて尚も見せ付けられる違いに、心はどうしようもなくひび割れた。


「……………………おまえのせいだ」


 内側より滲み出た恨みは血と臓物よりも臭い。


 半端な自尊心によって糊付けされた心は、狂うに狂い切れず、赤ん坊のように身を抱いた。


「おまえさえ、いなければ」


 呻く声は、母親を求める泣き声じみて、冷たい牢屋へ染み渡っていく。


「そうね」


 姉上もまた食事を終えるといつもの場所へ戻り、解けないパズルを始める。

 手元を動かす分、手枷と擦れる部分は僕よりも赤く腫れているのに。

 手首に血を滲ませて、じっと手元を見詰め、


「駄目ね」


 なのに手は、止まらない。




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