第40話 ファームズヴィルの団欒
マクマの港から小さな帆船に乗ってバスカブの港に着いたのは、のたりのたりと揺蕩う春の波が夕陽に染まる頃でした。
遠く聳えるビナイ山脈は既に晩春の緑が深く、その頂はまだ春の光を受けて明るく浮き立って見えます。
その懐から流れ出したイサリ川が水面を煌めかせながら、港へと注がれていく光景は美しい絵画のようです。
全てが事も無く、平穏な一日の終わりを迎えようとしていました。
いつもならこの港で一泊して翌朝ファームズヴィルへ出発するのですが、船を下りた僕は一人街道へと歩き出しました。
幸い帆船の荷下ろしに忙しい人達は、たった一人の乗客の行動に注視することはありません。
辺りに人影の無いのを確認すると、僕はファームズヴィルにあるワシュフル邸の玄関先に転移しました。
薄闇に包まれた沼地の丘に、がっしりと根の張った巨木のような館が眼前に現れました。
大きな切妻屋根をもった館は、夜の闇に染まりかけて黒々と見えますが、その鎧戸の隙間からは暖かい光が漏れています。
僕は躊躇わず重厚な扉に付いたノッカーを握り、軽く打ち付けました。
ややあって、少し開いた扉の隙間から「どなた?」と声がしました。
「メリアンさん、僕です。トビーです」
「まあっ、トビーさん」
扉が大きく開け放たれ、僕は室内から漏れ出した暖かな光に包まれました。
「まあ、まあ、まあ、お帰りなさいトビーさん」
「ええ、ただいま帰りました」
晩春とは言え沼地の夜は冷えます。
室内にはまだ暖炉に火が入っており、メリアンさんは僕から受け取った外套をいつものように掛けようとして「あら、あまり濡れていないのね」と怪訝そうにしました。
「あ、ああ…えっと、今日は割合に暖かくて街道はあまり霧が出ていませんでしたから」
「まあ、そうなのね。ようやく春が来た気分だわ」
「ここはまだ冷えますからね」
「そうそう、ドゥーエはさぞかし暖かいでしょうねえ。さ、居間に行きましょう」
ドアを開けるとさらに明るい光と暖気が僕を包み込みました。
「やあ、お帰りトビー君」
大テーブルの前に座ってグラスを傾けていた先生が軽くウィンクして出迎えてくれました。
先生には、昨日帆船に乗る前に今日の到着を知らせておいたのです。
「おお、トビーさん。長旅お疲れ様」
「お帰りなさーい」
「おかえりー」
キンメルさんも子供達も元気そうです。
そこへミリアンさんが大きな土鍋を乗せたワゴンを押してきました。
「まあ、先生が今夜の献立を指定したのは、こういう事だったんですね」
そういって、蓋を取るとホカホカと湯気を上げる真っ白なマイスが現れました。
「なるほど、合点がいったよ」
後から大皿に乗せた花魚の開きを持って、ラルクさんがやって来ました。
「どうだい、見事な花魚だろう。天日に干して旨味を凝縮させているんだ。しかも脂がたっぷりと乗っているよ」
僕の前に二フィートはあるかと思う肉厚の開きが、でんと置かれました。
花魚は水晶花が咲き始める頃捕れるので、この名が付けられました。
水晶花は白い五弁の花で、真ん中の花心が大きく鮮やかな黄色をしているのが特徴です。
春の初めから咲き始め、最盛期には花が絨毯のように大地を覆うのです。
僕は勧められるがままに、ほっくりとした花魚の身を外し熱々のマイスと一緒に掻き込みました。
「うーん、旨いっ」
「ははは…、君の慰労会には持ってこいだろう」
「はいっ、先生ありがとうございます」
「実は、これもあるのよ。はい、どうぞ」
フォクシーさんから渡された小瓶には、透き通ったルビーのような海峡鱒の卵がぎっしりと入っています。
「それが最後の一瓶さ。君のために取っておいたんだぜ」
ラルクさんが自慢げに鼻を蠢かせました。
「皆さん、ありがとうございます」
真っ赤な魚卵漬をこぼれるばかりにマイスに乗せて食べると、とろりと濃厚な旨味が口中に溢れます。
「ああ、幸せだなあ」
旅先で色々と美味しい物を食べてきましたが、暖かさと滋味深さはやはりファームズヴィルが一番です。
「それにしても、先生はトビーさんがお帰りになるのが良く分かりましたね」
マリアンさんが不思議そうに先生を見ました。
「ふふっ、それはそれ。私達には特別な絆があるからねえ」
笑いを含みながらグラスを傾ける先生を見て、マリアンさんはちょっとため息を吐きました。
「まあ、殿方の秘密に深く首を突っ込む事はしませんが、予定の変わる時は前もって仰って下さいね」
「勿論だともマリアン」
先生はちょっと首をすくめてみせました。
僕たちは楽しく夕餉の時を過ごし、その後はミリアンの作った甘いお菓子を食べながら、僕はバスカブの港を旅立ってからの出来事を話し始めました。
テオとトクシーは僕が王都で買ったお土産を抱えて、フォクシーさんと一緒に自宅に帰って行きました。
「それで、君は商船に偽装した軍艦に乗ってドゥーエに行ったんだね」
片眉を上げながらキンネルさんが尋ねました。
「ええ、おかげでとても早くドゥーエに着けました」
「なるほど…しかし、補給は必要だっただろう?」
「ええ、何度か寄港して最優先で補給してもらいました」
「最優先で? おいおい、それって並の商船じゃないって、言ってるようなもんじゃないか」
さすがはキンネルさんです。軍の偽装作戦が既に失敗していることを看破しました。
「ん? どういう事だい?」
ラルクさんが口をモグモグさせながら、キンネルさんを見ました。
「港の補給なんて入港順に申請した者からに決まってるじゃないか。それを最優先にさせたって事は、その船に権力があるってことだろう。権力のある船というば軍艦に決まってるじゃないか」
「ああ、そうか。それじゃ、それを見ていた者には船が商船に偽装しているってバレちゃった訳か」
「そうなんですよ。それでドゥーエに着いてから、漂流物の引き渡しを交渉したんですが、断られちゃって」
「ああ、そうだろうねえ。軍人さんというのは一本気で性急な人が多いからねえ」
「それでトビーさんは、どうしたんです?」
「ええ、実は…」
僕は悪漢達を罠に掛けた話をしたのですが、数十人のガストルと奴隷達をどうやって倒したかに話が及ぶと、どうしても女神様から授かった翠撃の話をしないわけにはいきません。
この能力の事はあまり広げない方が良いと、先生にも言われています。
それで、その部分は五番倉庫の守備隊に助けて貰ったことにしたのですが、これがマリアンさん達三姉妹の逆鱗に触れてしまいました。
「なんて危ないことをするんですっ」
「そうですよ。考えなしにも程がありますよっ」
「怪我じゃ、すまなかったかも知れないじゃ無いですかっ」
「ひゃあっ、ご、ごめんなさいっ」
三人に詰め寄られて、僕は平謝りです。
「まあまあ、三人共。それぐらいで許してあげたらどうかね。トビー君もこうして無事に帰ってきた事だし」
「先生も同罪ですっ」
「トビーさんに、あんな危険な仕事をさせるなんてっ」
「やや、これはしたり」
この後、僕と先生は三人娘に、こってりと油を搾られてしまいました。
そんな僕たちを、「そんな訳ないだろう」という目で、キンネルさんは薄く笑いながら見ているのです。
ようやく騒ぎが落ち着いて、三人娘はまだプリプリと怒っていましたが、お土産を抱えて自室へ引き上げていきました。
ラルクさんも「明日は楽しみにしているよ」と帰って行きます。
実は漁師小屋での戦闘の際に、商会長達が僕へ投げつけた様々な漁具を、保証のために僕が買い取ったのです。
それを明日ラルクさんに提供する事にしています。
浮子が壊れたり、いくらか網が破けたりしていますが、まだ新しいので補修して使いたいのだそうです。
この秋には海峡鱒をたくさん捕って魚卵漬を作るのがラルクさんの楽しみなのです。
「それじゃあ私も失礼するよ。フォクシーが子供達を寝かしつけた頃だろうからね」
キンネルさんとフォクシーさんには、王都で一番と言われる弓師が作ったクロスボウをお土産にしました。
子供達に見せると危ないので、これから二人でじっくりと検分するのだそうです。
「ここに英雄さんのサインを入れて欲しいものだがねえ。実際、君の力で全部解決したんだろ?」
クロスボウの銃床を撫でながら、キンネルさんが片目を瞑って僕を見ます。
「いやいや、たくさんの人達の力あっての事でしたよ」
「ふうん、まあ、そう言う事にしておこうか」
そう言って、僕の肩を軽く叩いて帰って行きました。
「キンネル君にはすっかりバレているようだね」
先生は僕が持ってきた琥珀色の強い酒を味わいながら、片眉を下げました。
「御神庭事件の時には、一緒に事件を解決しましたからね」
「うむ、彼は信用出来る男だ。君の能力が広まることは無いだろう。君を英雄視している所だけが少々気になるがね」
そう言って、グラスに入った酒の匂いを深く吸い込みました。
「ああ、懐かしいスコッチウィスキーの香りだよ」
「スコッチ…ですか?」
「うん、いずれ再現したいとは思っていたんだがね。これはピートという泥炭が必要なんだが、こちらではまだ見つけておらんのだよ」
「へえ…お酒にそんな物が必要なんですねえ」
「うむ、この香りはピートモスで無ければ得られない。この酒は多分あちらから移って来た際に持ち込まれた物だろう。今となってはとても貴重だね」
先生は再び香りを吸い込むと、琥珀色の酒を含んでゆっくりと味わっていました。
「ところで君の報告にあった女神様の処罰の件だが」
「はい」
「陛下は女神様が犯人達を元の世界に送り出す際に、元の場所、元の時間に戻すと言われたんだね」
「ええ、そう聞きました」
「ふうむ…それは、罪を犯した者だけなのだろうか?」
「え?」
「トビー君、私はね、この世界に来た事を少しも後悔していないし、今の生活にも十分満足しているのだよ。しかし‥だね、こうして生活に余裕が生まれてくると、ほんのちょっとだけ元の世界にあった書物や食物、こうしたスコッチなんかがね、身近にあればと思ってしまうのだよ」
「ああ、なるほど…」
「それでだね…これはほんの思いつきなんだが、罪を犯さずに元の世界にちょっとだけ帰れないものかどうか、陛下か殿下に伝心の能力を使って女神様に聞いて貰う事は出来ないだろうかねえ」
「はあ…さて、どんなものでしょうねえ…」
女神様は世界全体の調和を大事にしているので、個人的なお願いについては聞き入れて貰えないような気がします。
ですが、この世界の発展に大いに寄与した先生のお願いならば、もしかするかも知れません。
いずれにしても陛下…は無理でも殿下にお願いするだけなら、話を聞いて戴けるかも知れません。
「先生、殿下には御神庭の件も含めて今回の騒動については、殿下に報告をしなければなりませんし、近々総督府へ出向いてみるのも良いかも知れませんよ」
「うん、そうだね。その時にお願いしてみようかな。もし、私の願いが叶って元の世界に行くことが出来たら、君は付いてきてくれるかい?」
「勿論ですよ、先生。その時には殿下から変身の宝具を借りて、なんとかガストルの見た目になって、お供しますよ」
「やあ、それは嬉しいねえ」
先生はニコニコと残りのウイスキーを飲み干されました。
滴るような湿り気を含んだ春の夜は、ゆっくりと更けていきます。
僕と先生は、それからも他愛ない話をしながら、ファームズヴィルの静かな夜を過ごしたのです。
【おしまい】
ワシュフル先生とわりとチートな灰猫の助手 漣翠 @Rion
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