第38話 ファームズヴィルの密やかな夜食

 夕食をとうに終えて、部屋の窓から深夜のドゥーエの街を見下ろすと、さしもの王都も冴え冴えとした凍星の下、もはや人影もありません。

「そろそろ、良いかな」

僕はもう一度身支度を確認してから、ファームズヴィルの先生の書斎へと転移しました。

 暖炉の炎とランプの火影が温かい光を放っているワシュフル先生の書斎は、居心地の良い肘掛け椅子と書くにも食べるにも丁度良い高さのテーブルが、書棚に囲まれた空間の真ん中に設えられ、この部屋の主人はその向こうの窓に向かって置かれた書机で、ホワイトグースの羽根ペンを優雅に動かして何事かを綴っていました。

その後ろ姿に僕はほっと息をつきました。

先生のお世話になってから未だ三ヶ月ほどですが、その温かいお人柄に触れ、様々な教えを戴いた事はとても貴重な体験です。

「こんばんは、先生」

ピクリと肩が動いて、先生がゆっくりと振り向かれました。

「やあ、トビー君。おかえり」

丸眼鏡を掛けた目を優しく細め、微笑みを浮かべられました。

「寒かっただろう。さあさあ、掛けたまえ」と、肘掛け椅子を勧めて下さいます。

「いえ、転移で宿の部屋から一瞬ですから」

「おおっ、そうだったね。ドゥーエはこちらよりは暖かいかね」

「ええ、雪は降っていませんでした」

勧められるままに肘掛け椅子に腰を落ち着けて、僕はドゥーエの港に着いてからの報告を始めました。

「先生の仰った通り、商会は偽装船を軍の船だと見破っていたようです」

「そうだろうねえ。それで積荷の回収を断ってきた訳だね」

「ええ、それで一旦陸揚げして、王宮の警備局が調査することになりました」

「なるほど。では、これから君の活躍を一杯やりながら、ゆっくりと聞こうじゃないか」

先生は棚から二つのグラスと、深い紅色に育ったベリーワインを取り出してテーブルに並べました。

「はい、先生。今夜はドゥーエで評判の肴を用意してきました」

僕は空間収納から、熱々の闘技鶏の炭火焼きとフィッシュアンドチップスを取り出しました。

「ほほう、これはご馳走だね。実は僕の方も夜食にスコッチエッグを用意してあるんだよ」

「良いですね。ミリアンさんの手料理は久しぶりです」

「ははは…、それでは君の密かな帰館に乾杯だ」

軽くグラスを合わせてワインを味わうと、ドゥーエではめったに飲めない深いコクと芳醇な香りが口中に広がります。

「ああ、やはりファームズヴィルのワインは最高ですね」

「ははは…それを聞いたらラルク君が、さぞ喜ぶだろうね。なにせベリーの収穫時期を決めるのに神経をすり減らしていたからねえ」

先生は闘技鶏の炭火焼きを摘まんで、美味しそうに頬張りました。

「うん、さすがに闘いを好む鶏だけあって、身がよく締まっているね。かみ締めると旨味が溢れてくるよ」

「ええ、遠火の炭火でじっくりと炙るドゥーエでも評判の店ですから」

「ほう、君も旨い店を探すのが上手になったようだね」

「ああ、それはランディさんに…あ、ランディさんというのは…」

僕がランディさんの裏切りを話すと、先生は眉間の皺を深くしました。

「そうか、そんな人まで出てきたという事か。ガストルの罪は深いね」

「これからもランディさんのような考えの人が出てくるのでしょうか」

「いや…」

先生はグラスを空けると再びワインを注ぎ入れました。

「グラスに入れるワインが無ければ、グラスは空のままだよ。何を持って満たされるかは本人次第なんだがね。少なくともガストルという劇薬を好んでグラスに入れる人は滅多に出ることはないだろうね」

「でも先生は、この世界を改革されました」

「さ、そこだよ。僕の場合たまたま良い方向に動いたということでね。中にはロベス氏のように今の貨幣制度を煩わしく感じている者も多いだろう」

「そうなんでしょうか」

「まあ、そこに悪意があるかどうかということに尽きるとは思うがね」

僕は二つに割ったスコッチエッグの片方を口に運びました。

丘赤牛と草原豚のミンチで茹でた鴨の卵を包んで揚げるミリアンさんのお得意料理です。

「うーん、こんな美味しい物を此方の世界に伝えてくれて、僕は感謝しかないですよ」

「わっはっは…そう言ってもらえて私も嬉しいよ」

 僕と先生は夜が白々と明けかかるまで楽しく飲み、話しました。

「さて、そろそろお開きにしなければならないが、そう、一つだけ君に忠告めいた事を言わなければならないのだよ」

「はい、先生。なんでしょう?」

「君はモンジュスト商会長とランディ君が王宮の宝物を取引するために、漁師小屋の現場に居たと言ったが、私はもう少し深読みをしたよ」

「え、それは…どういう事でしょう」

「うん…彼らはね、君を陥れようとしたのじゃないかと思うんだ」

「僕を…陥れる…ですか」

「うむ、あの晩、君が漁師小屋に居たというのが彼等の誤算でね。そんな寒風吹きすさぶ夜に漁師小屋などに潜む者が居るとは思わないだろう。彼等は隠された積荷を運び出し、ついでに君の信用を失墜させるために、罠を仕掛けようとしたのだよ。王宮の宝物を漁師小屋に隠し、君が盗ったように見せかける。おそらく巧くいっていれば、翌日ランディ君が漁師小屋に賊が入ったという連絡を受けたとか理由をつけて、駆け付けた警備隊が漁師小屋を捜索し、宝物を見つける手はずになっていたのだと思うよ」

「そんな…」

「いかにも君が王宮の宝物を盗んだかあるいは盗んだと疑われる事によって、君を乗せてきた軍の立場も弱くなるし、上手くすれば主導下に置けると考えたのかも知れない。今回トビー君も色々と知恵を回して悪漢共を捕縛したけれど、それは運が良かったという面もあるのではないかと思うのだよ。君は素直な性格だから悪知恵というのに考えが及ばない所が有る。私はね、君が王宮の廊下に居たヨンキムと出会った所で、おや? と思ったのさ。仲間内であるランディを何故ヨンキムが探るような真似をしていたのかとね」

「あ、そういえば…」

「あれはね、ランディが独り言のように情報を伝えるのを、ヨンキムが聞き取っていたということだと思うよ」

「そう言う事ですか」

「それほどランディという人物は用心深いのさ。君に対して何も対策しない訳がないじゃないか」

「言われてみれば…確かにそうですね。僕の考えが甘かったようです」

「本当は君には素直な性格でいて欲しいのだがね。君の身を守るためにも、私は敢えてこの忠告をすることにしたのだよ。例え女神の加護があっても、注意するに越したことはないからねえ」

「ええ、仰る通りです。ご忠告ありがとうございます」

夜明けが近付いたので、僕は先生の書斎を辞去することにしました。

「まあ、事件は片付いたとみて良いだろう。適当にゆっくり帰ってきたまえよ」

「はい、ではまた」

 宿の部屋に転移すると、すでに朝日が射していました。

「お腹も一杯だし、今日はのんびりと朝寝を楽しもうかな」

朝の街を駆け足で新聞を配る少年を眼下に見ながら、僕は一つ欠伸をしてベッドに潜り込みました。

「はわぁー」

ワインの酔いも手伝って、既に夢心地です。

窓からは暖かさを増した光がベッドに当たって気持ち良い朝寝が出来そうです。

「しかし、流石は先生だなぁ」

僕が廊下でヨンキムさんと会ったところから、ランディさんの考えを見抜くなんて僕にはとても出来ません。

そもそも僕たちロガントに人を騙したり、騙されないように用心したりという考えが、あまり無いのです。

相手への気遣いで言葉を選ぶことがあっても、基本は正直で素直な民族です。

ですからロガントの中でもランディさんは、かなり特殊な思考を持っている方なのだなと思います。

もし、僕たちと相反する思想を抱かなければガストル達と対等に渡り合って、この世界を彼等の陰謀に巻き込ませることはしなかったでしょう。

頭脳明晰なランディさんなら、今頃は女王陛下の側にあって、この国をもっと発展させていたに違いありません。

「残念だなぁ…」

そんなことをつらつら考えながら、僕はいつの間にか暖かい日差しの中で眠り込んでいました。

 お昼近くに起き出して軽い昼食を摂ると、ぶらりと街へ出ました。

事件も解決したので、そろそろファームズヴィルへ帰る準備をしなければなりません。

と、いっても後はお土産を買うだけなんですけど。

以前歩いた古い商店街を見て回ると、何軒かの商家に人だかりが出来ています。

なんだろうと覗いてみると海産物や香辛料を扱う乾物屋のようです。

「いままでガストルの商店に買い占められていたのが、一気に放出されたんですよ」

若い店員が、忙しげにしながら教えてくれました。

 そういえば大型の商船を持っていたのはガストルの商会ばかりで、どこも大量の荷を確保していました。

それが、先日の捜索でいくつかの店が営業停止になったので、在庫品が市場に流れたようです。

「こんなところにも影響が出るんだなぁ」

感慨もそこそこに、ミリアンへのお土産に大量に乾物を確保しました。

「ん? これは何?」

ガラス瓶に琥珀色の液体が半分ほど入っています。

「ああ、それも商会の在庫から出た物なんですが、やけに強い酒でね。みんな一口飲んで吐き出しちまうんですよ。それで半分くらいになっちまったんですが、良かったらお安くしますよ」

「へえ、先生なら飲めそうかな」

安かったので、それは先生へのお土産にすることにして、僕は次の安売り店に足を運びました。

 マリアンに、メリアンに、ラルクさんやキンメル一家にと、それぞれのお土産を選び終わるともう日暮れ近くです。

街はまだまだ人通りが多く、平和の活気に溢れています。

世の中をひっくり返すような陰謀があったことなど、道行く人の誰一人として知る人はいないのです。

そんな人々の間を縫って宿に帰ってくると、ジェームズさんが待っていました。

「こんにちは、ジェームズさん。後始末は終わったんですか?」

てっきり事件の最終報告に来たと思った僕の言葉に、ジェームズさんは咳き込むように訴えました。

「トビーさん、大変です。御神庭事件の犯人達が、消えてしまったそうです」

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