第二章 チートな猫はちいとばっかり無双する
第29話 冬ごもり
本館の脇に建てられた薪小屋まで、昨夜降った雪をザクザクと踏んで今日の分を取りに向かいます。
「ふいーっ、寒っ寒っ」
小屋の庇から伸びた氷柱に当たらないように、身を屈めて凍り付いたドアをトントンと叩いてから開けると、途端にドスッと背後で氷柱が落ちる音がしました。
「うわっ、怖っ」
僕たちがポロから帰館した翌日から雪は絶え間なく降り始め、新年の宴を終える頃には僕がすっぽりと埋まるぐらいには降り積もっていました。
それからは晴天と降雪を繰り返し、雪は次第に圧縮されて固く地表を覆ってしまったのです。
でもワシュフル屋敷の建つ丘の南側は沼地のせいか、表面に薄らと雪が積もる程度で、昼には全て溶けて、マルカ海牛の丸い背が浮かび上がっていたりします。
おかげで、ミルクとバターには不自由しないのです。
薪小屋には秋からため込んでいた薪がまだぎっしりと詰まっています。
屋根裏の際まで詰まった薪の上の方から、抱えられる量を順々に下ろしていきます。
「おーおーグリザケーット、グリザケーット、めーがみーのつかいー、やまーにすむー、しーんきーのなーがれーおーもうーままー、やーまかーらおーかへー、おーかかーらまーちへー、わーれらーのもーとへー、とーどけーたるー、おーおーグリザケーット、わーがーくーにをー、まーもりたーまえー、とーこしーえにー」
「おやおや、自分を賛美する歌を本人が歌ってるよ」
調子良く歌いながら薪を集めていたら、キンメルさんが入ってきました。
「いやあ、なんか歌いやすくて、つい。この歌が何百年も歌われてきたなんて、新年の宴で初めて知りましたよ」
「まあ、普段は歌わないからねえ」
「先生もご存じなかったですねえ」
「うん、この歌は庶民の家族の間で長い間歌い継がれてきたもので、儀式や公式の行事で歌われることは無いからねえ」
「そうなんですね。僕も初めて聞きましたよ」
「まあ、グリザケットへの賛歌だから、当人達は知らないさ」
「ああ、当人達って言われると、なんか面映ゆいですねえ」
「この歌は庶民の家庭で、ちょっとした祝いがある時に歌われるんだよ。新年とか誕生日とか病気が治ったとかね。まあ、庶民達の感謝の歌さ。だから国が関わる行事とか、主人の前では歌わない。女王陛下や雇い主の前で他の者を誉めたら、気分が悪いだろう?」
「あー、そういう気遣いですかー」
「権力者の他にもう一つ、何者にも侵されない力。そういう神の力の体現者として、庶民はグリザケットを頼りに思っているってことだよ」
「ああ…なるほど…」
僕の脳裏に、褒賞の儀に向かうヌガ車に手を振るポロの人々の熱狂が思い起こされました。「ま、精進してくださいよ。若きグリザケットさん。さ、薪を運んじまおうか」
「あ、はい」
僕たちが薪を抱え上げて本館へ戻ってくると、ミリアンさんが大テーブルに頬杖をついて難しい顔をしています。
「やっぱり、ちょっと足りないかしらねえ」
暖炉のそばに薪を積み上げてテーブルを覗き込むと、大きな布を敷いた上で何やら乾燥した草の仕分けをしていたようです。
「どうしました?」
「ああ、トビーさん。いえね、秋口に買っておいた香辛料が、この冬を越すのに足りなくなりそうなのよ。ほら、年金が滞った事でちょっと節約したじゃない。その時、少し買い控えたのよねえ」
「香辛料…ですか」
テーブルの上の枯れた草束は、莢の付いた物や大きな葉だけを束ねた物や細長い葉のような茎のような物もあって、僕にはなんだか良く分かりません。
だけど、どこかで見たような…。
「あ、そうだ」
僕は階段を駆け上がると、部屋の棚に置いておいた紙袋を取って戻ってきました。
「よく分からないけど、この中に使えそうな物はありませんか」
それは僕がポロの新市街で、煙草の臭いを嗅ぎつけて入った裏通りの、怪しい店の隣にあった乾物屋で、たまたま購入した何か分からない乾物です。
嗄れた声の強突くそうな婆さんから、半ソブリンも出して買ったものです。
捨てるのも悔しいので、棚の隅に放って置いたのですが、確か中にはテーブルの上にある草束と似たような物があったはずです。
「何かしら」
ミリアンさんは怪訝そうに僕から紙袋を受け取って、中を覗き込みました。
「えっ」
途端にミリアンさんの目が見開かれました。
袋を開いて顔を突っ込むと、クンッ、クンクンと匂いを嗅いで、ガバッと顔を上げました。
「これっ」
ザザーッと布の上に袋を逆さまにして、中身を出すと指先で素早く選り分けていきます。
「黒ペルパ、白ペルパ、マーラー草、ヒハツ、醤の実、セージー、ロズマル、タメリクにウコー、冠草の葉まであるわ。トビーさん、一体これどうしたの?」
「どうしたって、買ったんですよ。ポロの新市街で」
「高かったでしょう」
「ええ、半ソブリンも取られましたよ」
「えっ、安いっ」
「や、安い‥ですか?」
「安いわよ、これだけの香辛料とハーブですもの。どう見たって二ポンドはするわよ」
「に、二ポンドッ‥ですかっ」
「ええ、とても安く買ったわね。品質も良いし。これ一ポンドで買わせてもらって良い?」
「え、ただで良いですよ。使って下さい」
「そうはいかないわ。先生からきちんと食費を預かっているんですからね。あなただって、これのお代をお給金から出したんでしょう?」
「ええ…まあ…」
「じゃ、決まりね」
そう言って、ミリアンさんは僕にソブリン金貨をくれて、それぞれに纏めた香辛料の束を嬉しそうにキッチンに運んでいきました。
「あれが二ポンド…あのババ…お婆さんは案外良い人だったんだな」
その夜、僕は初めてカリーという、香辛料のたっぷりと効いたシチューを味わいました。
寒い冬の夜にはぴったりの料理で、ごろごろと入った丸芋がホクホクで、丘赤牛の肉がホロホロで、素っ気なく焼き上げたパンを浸した汁がピリピリと舌を刺激して、とても暖まります。
「これもマイスに合いそうだなあ」
「ホント君って、マイス好きだなあ」
ラルクさんに揶揄われますが、これ絶対マイスに掛けたら旨いと思うんですよ。
「そうそう、しょっちゅうは作れないけど、また香辛料が豊富に手に入ったら、今度はマイスも付けるようにするわよ。ね、トビーさん」
「え、ええ…分かりました。今度ポロに行った時には必ず香辛料を仕入れてきますよ」
「お願いね。ああ、これでもう、在庫を気にせずに美味しい物を作れるわ」
「私からも、是非お願いしたいね。このカリーはイングランドでも流行り始めたところだったからね。此方で味わえるのはとても嬉しいのだよ」
「えっと、僕は今度はもう少し甘くして欲しいかな」
「私もー」
テオとトクシーには、まだ少し早かったみたいです。
「ところで、もしも明日も晴れたら明後日も晴れるのではないかね、キンメル君」
「そうですね、私もフォクシーも尻尾の毛の具合が良いので、そうなると思います。おそらく四日以上は晴れるのではないかと感じております」
「ふむ、そうなると明日辺りバコタとマクマの両港から同時に船が出そうだね」
「ええ、明後日の晩には二艘の船がバスカブに入ってくるでしょう」
「では、どちらかの港から何らかの連絡があるかも知れないね。トビー君、すまないが君明後日バスカブに行って、船からの連絡があれば受け取って来てくれないかね」
「はい、先生。行ってきます」
「君もキンメル君も風術が使えるからね。キンメル君達は明日から狩りだろう?」
「ええ、先生。ラルクに燻製肉がそろそろ足りないと聞いているので、フォクシーと行ってくるつもりです」
「その間、テオとトクシーは私が面倒をみておりますわ」とメリアンさん。
「大物を頼むよ。作業小屋は万全にしておくからね」とラルクさんは親指を立てました。
「おいおい、その前に橇の点検を頼むぜ。二台で行くからな」
「了解、了解」
皆それぞれに冬の晴れ間を利用しての作業を計画するのでした。
翌朝、キンメル夫妻は猟に出向き、トクシーが館にやって来ました。
テオはラルクさんの作業を手伝うそうです。
「テオはお裁縫が嫌いですからね」とメリアンは笑ってトクシーと応接玄関に籠もりました。
そこで今日は編み物をするそうです。
僕と先生が船上用に買ったメリノンのハイネックセーターに刺激を受けたらしく、同じような物を作るのだと張り切っていました。
僕は先生の書斎で明日の打ち合わせです。
「おそらく明日、王宮からの連絡が入っているだろう」と先生は仰いました。
「新年を挟んでいるとはいえ、王宮は常に動いておる。試神庭を騒がせた犯人達の処遇や、今後の動きについて検討を重ねたに違いないよ。私は君になんらかの依頼があるのではないかと思うのだよ」
「依頼ですか」
「うむ、この事件に一番深く関わったのは君だからね。王宮はドゥーエに人を送りたいだろう。真犯人と目されるモンジュスト商会を調べるにしても、こちらでの事件に詳しい人間を本城に送らねばならん。ロルフ氏が適任なのだが、近衛だし王宮を離れるわけにはいかないだろう。そこで、君にその役目が来ると私は考えておるのだよ」
「なるほど、確かに仰るとおりです」
「それに君はノ・ラだしね」と先生は微笑されました。
「例え本城の分からず屋共とて、女神様の直臣の言葉をおろそかには出来ないだろうと、あの殿下なら考えるだろうね」
「ああ、殿下なら、そうお考えになられるでしょうね」
「そこでだ、王宮からそう言った依頼があったならば、君はここにまた戻る必要は無いよ。時間の無駄になるからね。そのままマクマからドゥーエへ動きたまえ。道のりは君の方が詳しいだろう?」
「ええ、ドゥーエからの船旅を経験したばかりですから」
「うむ、しかし必ずしも再び同じ船旅をするには及ばない。分かるね」
「ええ、例の能力ですね」
「うむ、他人に知られず上手く使い給え。時間は有効に使う物だよ。そして戻れるようなら、時々夜中にここへ戻って報告してくれるとありがたい」
「分かりました、先生」
こうして僕は再び旅立つ事になったのです。
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