第19話 試神庭
洞の中は思った以上に広く、人が立って歩けるほどです。
照明はありませんが、通路の先から光が差し込んでいるので、出口があるのが分かります。
『はて、この木の裏に穴は開いていなかったはずだけど…』
そっと覗き込んでみると、遙か先に湖が見えます。
「えっ…」
日の光を受けてキラキラと光る美しい湖面が、草原の向こうに広がっているのです。
巨木が覆う鬱蒼とした原生林にこんな場所があったでしょうか。
湖を中心に周りには瑞々しい草原が広がり、さらにその周囲を囲うように森が遠くの連山まで広がっているのが見えます。
湖には小島が浮かび、その中央には白く煌めく尖塔が見えます。
「えっ、あれ王家の…」
尖塔の先には王家を表す片手で招く猫の紋章が飾られています。
「まさか、ここって試神庭!?」
遙か昔、女神様がこの世界を作られた時、盟約に従って他の世界との連結点を作らなければなりません。
それでその試作として小さな世界を作って、世界の連結点が上手く作用するか試したということです。
それが今は試神庭と呼ばれ、この世界の何処かに点在していると言われています。
もし、見つかった場合には王家がこれを厳重に護持することになっているのです。
そして、その管理はアカデミーに委託され…んん?…どうやら、ここでホルト氏の一件に繋がってきたようです。
僕はこっそりと大木の洞を抜けると、周囲の木陰を利用して草原の端を進んで、湖の近くまで移動しました。
遠目に見たところ、ここにある建物がいかにも怪しく感じられたのです。
丸太に板を打ち付けただけの急ごしらえで随分雑な造りですが、とても大きな建物です。
王家の管理地なので、大きな建物があってもおかしくはありませんが、そうであればもう少しマシな建物のはずです。
それが、まるで雨風をしのげれば良いと言わんばかりの粗雑な倉庫。
覗くと言うほどの事も無く隙間から中を窺えば、大きな葉が束になって天井からたくさん吊されています。
葉は萎れ黄色く変色して垂れ下がり、その下には既に茶色く乾燥したものが幾束も積み重ねられています。
「なんだろう…」これほど大きな葉は見たことがありません。
建物の近くの草原は広範囲にひどく土が荒らされています。
「ん…? これは畑だったのかな」
荒れたのでは無く収穫した? きちんと整備された形ではないものの、良く見れば列に沿って掘り返されているようです。
「ふうむ…」
試神庭で農業をするなんて聞いたこともありません。
考えられることは、ガストル達が農業紛いのことをして、あの大きな葉の植物を育てたと言うことでしょう。
彼等はあの葉を乾燥して、何かこの国の為にならないことをしようとしている事だけは分かります。
その辺の事情を知るためにもホルト氏を見つけ出さなければなりません。
湖の小島には王家の尖塔と、その足下に瀟洒な二階建ての館が建っています。
おそらくあそこがガストル達の本拠でしょう。
舟着場には、先ほどの二人が乗ってきたらしき小舟が係留されています。
対岸にも小舟が一艘。あれが見張りに残ったガストルの舟でしょう。
ここからは舟で小島に渡るしかないのですが、監視は当然舟着場の動きを見張っていますから、舟を使えば簡単に見つかってしまいます。
「さて、どうしたものか…」
此処で暗くなるまで待ってから泳いで渡る?
冗談じゃ無い。泳ぎは苦手なんです。
僕は再び木々の影に身を隠しながら、舟付場が見えない位置まで移動しました。
ここからなら見張りに気付かれること無く湖を渡れるでしょう。
イメージするのは水切りの石です。
水面すれすれに投げた石が、水を切って進んでいくように湖を渡れば濡れずに済むという訳です。
靴を脱いで足裏に風の渦を纏わせます。
フィーーン。快い音と震動が足元から伝わってきます。
これだけで身体が浮いてしまいそうですが、空中はちょっと目立つかも知れません。
僕は助走を付けて一気に湖へと駈け出しました。
「ほっ」ピッ。
「はっ」ピッ。
「たっ、たっ」ピッ、ピッ
「たたたっ、たたたたっ、とうっ」ピピピッ、ピピピピッ、ストッ。
ふうっ、なんとか岸に辿り着きました。
島はなだらかな起伏を描き、緑濃く柔らかなベント芝に覆われています。
そのカーペットのような踏み心地を堪能しながら、建物の側面へ出ました。
女神様の尖塔は緩やかな弧を描いて空へと伸び、ここからでもキラキラと輝いて見えます。
二階建ての建物は白い大理石で造られ、所々に優美な金の装飾が施され小さな離宮といった佇まいです。
こんな素晴らしい建物が悪漢共の塒にされるなんて許せませんね。
僕は隠しから導き玉を取り出して、宙に放ちました。
これでホルト氏の居場所がはっきりするでしょう。
建物の壁際に沿って身を隠しながら、正面へと回り込んでいきます。
大きな庇の下に優美な彫刻を施された両開きの扉があります。
把手を引くと音も無く開きました。
施錠がどうなっているか知りませんが、かなり油断していますね。
「こんにちはー」一応小さな声でご挨拶。
「失礼しまーす。灰猫が入りますよー」
天井の高い玄関ホールは広々として、やはりここで舞踏会などが開かれるんでしょうか。
奥には左右の棟へ向かう為の階段があり、等間隔に金縁の扉が並んでいますが、導き玉がいないので一階には見張りもホルト氏もいないのでしょう。
僕は二階へ上がりました。
一階と同じように扉が並ぶ廊下を歩いて、ドーム型の展望室から光が降り注ぐ中央ホールへ出ると、四方向に立派な扉が配置されています。
おそらく王族や来賓の居室なのでしょう。
正面方向の扉の前で導き玉が瞬いていました。
どうやら見つけたようです。
僕がそっと扉を開けると、院長室で嗅いだひどい臭いと床に散らばる食べ残しや割れた食器と共に、酒瓶を抱えた髭面の男が大鼾をかいて寝ているのが見えます。
近くのソファーには、ぐったりとしたホルト氏らしきスティリゴ族の老紳士が目を閉じて横たわっています。
「院長さん、ホルト院長さん」
僕の呼びかけに、うっすらと目を開けた老紳士の口から、部屋の臭いと同じ焦げた毒草の臭いが漂ってきました。
「…うっ…む」
「院長さん、ホルト院長ですか?」
僕の問いに紳士は浅く頷きました。
どうやらホルト氏に間違いないようです。
「院長、助けに参りました。立てますか?」
「わ、儂は…ごほっ、ごほっ…」
神気の流れが乱れています。どうやらだいぶ毒草の煙を吸い込んでしまったようです。
僕はホルト氏の胸に手を当てて、肺の中で渦を巻いている毒の煙を追い出すように神気を流しました。
「うっ、ごふぉっ、ぼほっ」
真っ黒な煙の塊が口から吐き出されると、ホルト氏はハアハアと息を吐きました。
「き、君は…」
「僕はトビーと言います。ワシュフル先生の助手をしています」
「おお、ワシュフル君の…」
「さあ、先生。取り敢えずここを出ましょう」
まだ余り動けないホルト氏に肩を貸し、歩き出そうとすると床に転がっていた男が目を覚ましました。
「なんだ、うるせえなと思ったら猫じゃねえか。何処から入って来た?」
「はい、玄関からですよ。もう暫く休んでてくださいね」
起き上がろうとしたところへ、首筋に肉球を当てて神気を流しました。
「きゅうっ」酔っ払いは再び夢の中です。
一応縛っときましょうかね。
空間収納からロープを出して男の腕と足を縛り、ついでに猿ぐつわと目隠しもおまけしておきます。
さて、ホルト氏を舟に乗せ、向こう岸から森を抜けてポロの街まで辿り着くには、体力的に厳しいものがあります。
一旦一階に移動して、何処かの小部屋に隠れてもらいます。
その間に僕だけポロの街に戻り、王宮へ報告すれば衛兵隊に出動してもらえるでしょう。左翼棟に続く階段近くの小部屋は使用人用らしく、中にはベッドと小机がありました。
そのベッドにホルト氏を寝かせ、小机に昼食用にもらったローストビーフを挟んだパンとベリーを搾ったジュースを置きました。
「助けを呼んできますので、ここに隠れていてください」
「分かった、ありがとう」
ホルト氏は横になると、すぐに目を閉じてしまいました。
やはり急いで脱出するのは無理なようです。
僕は万が一を考えて導き玉をそこに残すと、小舟を操り向こう岸へ漕ぎ出しました。
こうしておけば舟を使って逃げ出したホルト氏は、もうこの試神庭には居ないと思われるでしょう。
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