第11話 大暁
ドンッ
大岩が弾け飛んだかのような衝撃に、雪尾角の身体が直角に折れ曲がるように吹き飛びました。
大暁の体当たりが、首の付け根を襲ったのです。
ガラガラと荒れ地に転がる小岩を巻き込むように転がると、それだけで雪尾角は直角にそそり立った岩壁にぶつかってその場に転がったまま、もう動きません。
低い体制から頭を起こした大暁は、周囲を見回し転がった雪尾角に目を留めました。
ヴォッフ、ヴォッフ…
大暁の息づかいだけが荒れた岩場に響きます。
体長は十五‥いや、二十フィートはあるでしょうか。
筋肉の盛り上がった肩の高さまでは十フィート近くありそうです。
その天辺から濃い群青の体色が下るに従って赤みを帯び始め、太く力強い四肢は真っ赤に彩られています。
まるで夜の闇が朝焼けに変わっていくようなグラデーションを持つ被毛から、大暁と呼ばれているのです。
中でも目の前のベストロは、今まで僕が見た中で一番の大物です。
大暁は僕たちの方を一瞥すると、岩場の中に倒れて動かない雪尾角に向かって、のしりのしりと歩いて行き、その首筋にがぶりと嚙み付きました。
そして、そのままぐったりと四肢を弛緩させた獲物をずるずると引き摺りながら、こちらを気にする様子も無く森へと戻って行ったのです。
僅か数分の出来事でしたが、その様子を僕たちは放心したように眺めていました。
なんと巨大で恐ろしい生き物でしょう。
その昔、群青から深紅へのグラデーションを持つ珍しい毛皮欲しさに、大暁を狩ろうとしたガストルの一団がそれきり姿を見せないと聞いたことがあります。
大暁は昔からこの国の森では最強の生物なのです。
その巨大な体躯もさることながら、両手の凶悪な爪は一撃で獲物を真っ二つに引き裂き、鋭い牙は一噛みで岩をも砕くと言われています。
そんな凶獣と森の中で遭遇していたらと思うと、身震いを禁じ得ません。
もっとも大暁は大食漢で大物を狙うので、僕たちのような小物は滅多に襲われることはないのですが、先生のヌガは少し危なかったかなと見上げると、目が合ったヌガは厭そうに顔を背けました。
僕たちはのろのろと身体を動かして、大暁が消えたのとは反対の方向へ、そろりそろりと向かい、森の中へ入って行きました。
暫く進んだ後、先生は小声でキンメルさんに話しかけました。
「今回の道中では、もう奴とは遭うことも無いだろうね」
「かなり肥えていましたからね。冬眠前のダメ押しってところでしょうか」
「うむ、あと一週間もしたら雪が降るだろうからね。今日の獲物を食べきったぐらいで冬眠するんじゃ無いかな」
大暁は秋の間に獲物を狩り、たっぷりと栄養を蓄えると、雪の降る頃から雪解けまでの数ヶ月を何も食べずにひたすら穴倉に籠もって冬を越すのです。
あの個体も、この秋最後の獲物を食べた後に眠りに就くのでしょう。
それにしてもキンメルさんは、いつもあんな危険な思いをしながら、ポロへの往復をしているのでしょうか。
「いや、いつもは強い気配を探りながら用心して動いているから、大暁も遠目に二、三度見ただけですよ」とキンメルさんは微笑みました。
あんな近くで遭遇したのはこれが初めてだそうです。
「しかし、奴に狩られた獲物は、先ほど私たちが遭った雪尾角でしょうか」
「時間的に見ても、そうだろうね。キンメル君、帰ってからの狩りはやめておこうよ」
「そうですね、おそらくあの騒ぎで他の獲物も逃げ散ってしまったでしょうし」
僕たちはようやく先ほどの衝撃から立ち直ったものの、やや俯き加減に山を下りていきました。
キンメルさんは素晴らしい方向感覚で、いつもの踏み分け道を探し出し、危なげなく僕たちを先導していきます。
やはり先ほどの騒ぎのせいで森の中は静まりかえって、小動物ですら動き回っている影はありません。
閑かすぎる森の雰囲気に、僕たちも自然に急ぎ足になって山道を下っていきます。
僕は時々高度を上げて、木々の上から森を俯瞰するように警戒しています。
「トビー君、ポロの街まであとどのくらいかね」
先生が気忙しげに尋ねられます。
「間もなく森が切れます。森に沿うように道が続いて、その先に街が見えます」
「ああ、道に出てしまえば後一時間程ですね。今回はトビーさんが空から警戒してくれたおかげで、とても楽に進めました。いつもよりかなり早く着くことが出来ますよ」
キンメルさんのありがたい評価ですが、やはり皆が急ぎ足になっていたというのが、本当のところでしょう。
その言葉通り、僕たちは間も無く遠目にも石造りの高い建物が建ち並ぶポロの街並がはっきりと見える所までやって来ました。
「やれやれ、ここまで来ればもう安心だ」
先生もほっとなさったようです。
平野に出てしまえば、巡回の騎士団もいますし、各所に畑を守る衛兵達の詰め所もあります。もう襲われる心配は無いでしょう。
もっとも森のベストロは神気の薄い平野部を嫌うので、滅多に山を下りることはありません。
同じように街道をポロへ向かう人々と一緒になって、僕たちはようやく街を守る南西の門に到着したのです。
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