第10話 出立

 朝食の後、僕たちはポロへ出発することになりました。

先生はヌガという足が太く大柄で口の大きな馬に乗っています。

これは山岳部に生息するベストロで、凶暴な大暁おおあかつきにも怯まない剛毅な性格なのだそうです。

広い背中に、最初は僕も先生と一緒に乗せてもらっていたのですが、隣でキンネルさんが足に風をまとって走るのを十分に観察させてもらってからは、一緒に風を操って走っています。

 キンネルさんは爪先から風を起こして、足裏を通して後ろに流すように風を操って速度を上げているようです。

僕もそれを真似たのですが、歩幅が違うので遅れてしまいます。

それで、風術に少し手を加えて風を流すのではなく、渦巻きにして力を逃がさないようしてから勢いを増した風を後方に送るようにしてみました。

すると、身体が軽いせいで、そのまま浮き上がってしまったのです。

慌てて渦巻きの大きさと回転回数を制御すると、丁度ヌガに乗っている先生の目線と同じ高さになりました。

速度も丁度良い感じです。

「君はなんとも器用な事をするねえ」

隣で空中を滑るように走る僕に、先生は半ば呆れ半ば羨ましげな視線を送られるのでした。

「私も驚きましたよ、トビーさん。まさかヌガの上から見ているだけで、この風走術を覚えてしまうなんて。まして、それを即座に自分なりに改変してしまうなんて事は、普通じゃ出来ませんよ」

「え、そうですか? キンメルさんの神気の流れを真似ただけなんですが」

「それそれ、神気の流れなんて普通じゃ見えないんだよ。さすがにグリザケットということかな」

そう言って先生は楽しそうにお笑いになりました。

 僕たちは草原を抜けてビナイ山脈の入口である林へと入って行きました。

ここまでは普段キンメルさん達が、獲物を捕るために頻繁に入って手入れをしているので歩きやすいのですが、この先鬱蒼と繁る森に入ると大型の獣と遭遇する危険があるので注意が必要です。

「ああ、もう茸の季節は終わってしまったのだねえ」

「ええ、先日採った編目茸あみめだけ大占地おおしめじ滑高茸なめたかだけ高野松茸こうやまつたけが最後でしょうね」

「あれは美味かったねえ。特に様々な茸と緑青鴨ろくしょうがもの肉を入れたブイヨンをパイで包んでオーブンで焼いたスープは絶品だった。トビー君は残念だったね。先週に着いていれば、高野松茸こうやまつたけの芳しい香りで一杯のスープにありつけたところだったんだがねえ」

「ああ、残念。とても美味しそうですね。ちょうど先週はマクマの町に着いて、なけなしの路銀を叩いて安宿の薄いスープを啜っていた頃ですよ」

「なあに、これからはノルドグースが飛来しますから、グースのフォアグラスープがいただけますよ。確かラルクが秋松露あきしょうろを瓶詰めにしてましたから、ミリアンが濃厚で香りの高いスープを作るはずですよ」

「ほうほう、そうだった。これは帰るのが楽しみだ」

「先生、まだポロに着く前から帰りの話しをしちゃあいけませんよ」

「はっはっは。その通りだね。さあ、いよいよ森も深くなってきた、ここからは慎重に行こうかね」

 僕たちはまさに獣道といった細い踏み分け道を進んでいきました。

林は落葉樹が多く、この時期すっかり葉を落とし見通しが良かったのですが、森の深部になると常緑樹が多くなり、重なり合う樹木の葉陰に凶暴な獣が潜んでいるのを察知するのが難しくなっています。

 キンメルさんは大きな耳を左右別々の方向に動かして、常に何か異質な音がしないか注意を払っていました。

僕は少し渦風を高くして、周囲を警戒することにしました。

すると、前方の葉陰が他とは少し違う動きをしました。

「止まって」

僕の声に先生とキンメルさんがぴたりと停止します。

じっと前方を窺っていると、葉陰から大きな枝のような角が突き出したように見えます。

「雪尾角のようです」

僕の声に、キンメルさんが息を吐きました。

「ゆっくり進みましょう」

 僕たちが進み始めると、十五フィートはあろうかという灰褐色の体躯に七フィートに近い長い脚を持った雪尾角がひらりと真っ白な三角尾を翻して飛び跳ねるように駈けて行きます。

「なかなか立派な雄だったね」

「ええ、まだ番になりそうな雌を探しているのかも知れません」

「あれを狩るとなると人手がいりますね」

「うむ、木橇に三人はいないと運べないだろうね」

「帰ったら、ちょっと人数を揃えて探してみましょうか」

「そうだね、あれ一頭あれば我が家の冬の備蓄は結構豊かになるだろうね」

「キンネルさん、その時は僕もお手伝いしますよ」

「トビーさんは弓も引けるんですか」

「いえ、風刃か土槍で、どうでしょうか」

「うーん、出来れば一発で決めたところですね。雪尾の皮になるべく傷を付けたくないんですよ」

「なるほど、僕の風術ではちょっと力不足かも知れませんね。その時は勢子でも」

「ああ、そうですね。トビーさんは小回りが利きそうだから、大きな音を出して追い出し役をやってもらえたらありがたいです」

 そんな話をしながらも、僕たちは周りに目を配りながら森を抜け、ビナイ山地の小高い丘に出ました。

本来なら、このまま森を突っ切るように下って行くらしいのですが、先生と不慣れな僕のために、キンネルさんは一旦休憩のために森を抜けたのです。

いきなり開けた赤茶色の台地に、低い灌木と岩だらけの荒れた山肌が広がります。

ここなら四方を見渡せますし、早めに危険を察知出来るでしょう。

「ここで昼休憩にしようか。後は下るだけだし」

眼下にはうっすらとポロの町がある平野が見えます。

 僕たちは手頃な小岩の上に腰を下ろして、ミリアンが作ってくれた昼食をいただくことにしました。

軽くトーストしたライ麦のパンにたっぷりのマスタードを塗り、薄く切ったローストビーフとチェシャの葉を何層かに重ねて挟んだサンドウィッチと、マイヨネッサと卵のみじん切りを合わせたタルタルソースにスライスオニオンとスモークサーモンのサンドが網代篭にぎっしりと詰め込まれています。

これに冷えた白ワインを野外用の赤銅のマグカップにたっぷりと注いで、先生はとても満足そうです。

「素晴らしい、実に素晴らしいよ、トビー君。まるで出来たてじゃないか。ワインも良く冷えておる。野外の昼食にこれ以上何を望むことがあろうか。まさに、まさに至福というものだよ。君に来てもらって本当に良かった」

「まるでミリアンがすぐ側で作ったように瑞々しいですよ。トビーさん」

お二人とも僕の空間収納術が鮮度を保ったままなのに驚き、とても喜んで下さいました。旅の間にこの事を知っていれば、僕も固くなったパンを食べずに済んだのですが、つい昨日までただの内ポケット程度に考えていたので、僕にしたって先生には感謝しかありません。

 ゆっくりと昼食を堪能して、僕たちが再び森の方へとくだり始めた時です。

「ピューイ」

甲高い鳴き声と共に、前方の森陰から大きな影が飛び出してきました。

「雪尾っ‥うわっ」

大きな雪尾角が跳ねるように森からその巨体を現した直後。

ゴワアッ…

森が揺れました。

雪尾角を上回る巨大な影が、雷かと思うほどの咆吼を持って、横合いから襲いかかったのです。

「お、大暁っ」

キンメルさんが緊張に掠れた声で、その巨獣の名を叫びました。

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