背徳を浴びる鳥のうた

尾八原ジュージ

ふたり

 ××線沿いの古いアパートで女友だちのほとりと一緒に暮らしていた頃、わたしは小学校の事務員をやっていた。午後七時か八時くらいに帰宅すると、これから仕事にいくほとりとすれ違うことが多かった。きっちりお化粧をして髪をセットし、ハイヒールを鳴らしながら、アパートの外付け階段を足早に降りていく。帰ってくるときはいつも深夜か早朝で、たぶん本人は気を付けているつもりなのだろうけど、千鳥足であっちこっちにぶつかるのでそのたびに目が覚めた。

 わたしたちがちゃんと顔を合わせる機会は、主に週末に限られていた。わたしたちはふたりとも、自分のことをあまり語らなかった。近所で見た猫の話とか、気になる映画のことだとか、明日死ぬなら何を食べたいかとか、そういう話ばかりしていた。だから夜着飾って出ていくほとりが、どこのお店でどんな風に働いていたのか、よく知らない。ただ「歌手の仕事をしている」と言っていたのは覚えているけど、少なくとも売れっ子ではなかっただろう。わたしはほとりの歌を聞いたことがなかったし、ほとりもわたしの仕事のことはよく知らなかったと思う。

 わたしたちが出会ったのは高校生のときだった。同郷の出なのだ。その頃からわたしたちの話題はそんなことばかりで、わたしはほとりに彼氏ができたことすら知らなかったりしたけれど、だからといって不満はなかった。わたしとほとりはそういう間柄だった。

 週末の朝、わたしが目を覚ますと、ほとりが目を擦りながらパンケーキを焼いていることがよくあった。

「おはよう、ときちゃん」

 化粧を落とした顔で振り返ってそう言う。ほとりはパンケーキを焼くのが上手かった。お皿に丸く美しいパンケーキをふたつ載せてわたしに提供すると、彼女は眠い目をこすりながら布団の中に戻っていく。それが彼女なりの「急に転がり込んでごめんね」というメッセージだと気付いてはいたけれど、それについては何とも思っていなかったし、何も言われたくはないだろうなとも思った。わたしは黙ってパンケーキを食べ、昼頃もう一度起きてきたほとりに「おいしかった」と感想を述べるのが常だった。


 家に「ほっといてもいい無害で大きな生き物」がいるというのは、わたしにとっては癒しだった。

 学校事務の仕事は父の知人の紹介で得たもので、文句をいうほど辛いことはなかったけれど、子供がひしめく建物の中に一日中いると、何ともいえない澱のようなものが心に溜まっていくようだった。たぶん、根本的に子供という生き物に苦手意識があるのだと思う。

 その点、ほとりはまるで違うからよかった。うるさくないし、一応自分にかかるお金は自分でなんとかしているし、家事もやってくれるし、かまいたくなければほっといてもいい。そして、子供たちのように眩しくもなかった。彼らの活力と無限の未来が、わたしには明るくて仕方なかった。ほとりにはそういうところがない。わたしと同じように。

 でも、他人からすると、わたしたちはちょっと、いや、ずいぶん不釣り合いな二人に見えることもあるらしかった。

「まだあの子と住んでるの?」

 ほとりとの共通の知人にたまたま会ったとき、そう言われたことがあった。彼女が矢継ぎ早に繰り出してくる言葉をまとめると、「いかがわしい仕事をしている腐れ縁の女に無理やり転がり込まれてかわいそう。あなたは搾取されている。地味で善良なあなたと背徳そのもののような彼女が共にいることはよくないことだ」ということらしかった。「全然大丈夫。そんなことないから」というわたしの言葉すら、まるで違った意味に解釈されてしまうようだった。

 用事があるからと言って知人と別れ、どすどすと足音をたてて帰宅した。ほとりは部屋にいたけれど、出かける支度はしていなかった。ダイニングチェアに座ってこちらに背中を向け、何か書類のようなものを眺めていた。

「ただいま」

 わたしの声にほとりは振り返った。「おかえり」と言い、それから困ったように笑った。「ときちゃん、あたし入院するかも」

 ほとりがいつのまにか病巣を体の中に飼っていたことに、わたしは少しも気づいていなかった。「お酒の飲みすぎだね」ほとりはそう言って笑った。

 その夜、わたしたちは長いこと話をした。どうでもいい話だった。病状のこととか、入院費用のこととか、家族に知らせるかとか、そういう深刻なことを話し合う土台をわたしたちは持っていなかった。「お酒のみたい」というほとりに、わたしは緑茶を出した。ほとりは苦々しく笑って受け取った。

「ごめんね、ときちゃん」ほとりが突然そう言った。「迷惑かけたでしょ」

「ううん、別に」

「あたし、あんまり素性のいいやつじゃなかったよ。よくないこといっぱいしてたと思う。でもときちゃんは、何も聞かないでくれるから、甘えちゃった」

「いいのに」

 わたしはテーブル越しにほとりの手を握った。冷たい手だった。

 話しているうちに、いつの間にか眠ってしまった。ふと目を覚ますとまだ部屋の中は暗く、わたしはベッドの上で仰向けになっていた。体を起こすと、ダイニングテーブルに座っているほとりが見えた。小さな声で『Fly me to the moon』をうたっていた。初めて聞くほとりの歌はきれいで透き通っていて、心が痛くなった。


 ほとりの両親に初めて出会ったのは、ほとりの葬儀でのことだった。「娘がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」気の抜けた声でそう言われ、わたしは頭を下げた。

「情けない。水商売で体壊して死ぬなんて」

 父親がこぼした一言がわたしの胸をついた。

 思わず大きな声で「違います」と言いかけた。ほとりはわたしに迷惑なんかかけなかったし、情けない生き方だってしていませんでした。そんな風にはっきりと言えたらよかったけれど、言えなかった。わたしはほとりのことを知っているようで、ほとんど何も知らないのだから。でも、それでいいのかもしれなかった。ほとりはそういうわたしが好きだったのだろう。だから。

 葬儀場を出て、駅までとぼとぼと歩いた。マスクの内側で小さく『Fly me to the moon』を口ずさみながら、もうほとりが帰ってこない我が家のことを思った。

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