211 水の大精霊そして嗤う転移者
水の大精霊の瞳が怪しく光り、大きな身体を滑らせるように一歩前に出る。
だが、俺との距離が縮まることはなかった。
結界が効果を表し、目に見えない斥力が発生しているかのように、大精霊が前に出た分だけ離れていく。
何度、前に出ようとしても同じことだった。
水の大精霊が口を開く。
「なるほど、これが結界。不思議なものよの。我をして、思い通りにならぬことがあるとは思わなんだ。……じゃが、聞いたぞ? 有効期限があるのだろう? ふ、ふふ……その人の身では、そう長くはそうしてはおられんだろう。だが、我はいくらでも待てる。月ばかりではない。年を跨ごうと、黄道が一回りしようともな。そなたという甘露を前には無にも等しい時間だろうて」
顔色は変えず、しかし、その澄み切った水を思わせる澄んだ声には、確かに喜色を含んでいた。
大精霊はその名が示す通り霊みたいなものだ。
空気に年齢がないように。水に年齢がないように。
ただ、そこにいる。老いも死も、あるいは生すらも曖昧な現象。
それが人格らしきものを持ち、人間に協力してその力を分け与えているのだ。
「ヒ……ヒカル……。これってどういうことなんですか……? なんで大精霊さまが……」
「どうもこうも。あのフェルディナントが連れてきたんだろ。俺を食わせるために」
「どうしてそんなことを……」
「言ったろ。第2陣転移者は味方とは限らないって。これが俺とジャンヌが第2陣を避けてた理由だよ」
だが、これであのフェルディナントが明確に敵だとわかった。
昨日の、ナナミがこっちに転移してきているという話も、ジャンヌが言うように俺を揺さぶるための嘘に違いない。
「ヒカルもジャンヌさんも、こんなことになるってわかってたっていうんですか?」
「いや、可能性はあるかもくらいには思ってたけど……まさか、本当にこんなことをするとまでは、思ってなかったよ」
とはいえ、俺を殺すには確実すぎる一手だ。
大精霊は神にも等しい存在。
俺は、転移したばかりのころ闇の大精霊の力を見たが、水の大精霊だって同じ程度には強いのだろう。
到底……敵うとは思えない。
実力で排除するのは無理だろう。
リフレイアに至っては、普通に信仰の対象だ。戦うなど、以ての外だろう。
さらに、どうにかできたのだとしても、俺が「愛され者」だと、もう神官たちに知られてしまっているはず。どうせ街を出るつもりだったとはいえ、もうここにはいられないはず。下手をしたらお尋ね者だろうか。
――いや、それもこれも、ここを生き残れたらの話か。
待ちに入った大精霊を、神官たちが連れ戻そうと鎖でつなごうとしている。
豪奢な服を来た神官――おそらく大神官とか、神官長だろう――が、必死に大精霊を説得している。
当の大精霊は、まったく聞く耳を持たず静かにそこに佇んでいる。
「……リフレイア。大精霊が神殿から離れていると、やっぱり問題があるのか? 迷宮がなくなるとかさ」
「えっと……他の3柱が健在ならすぐにどうこうなったりはしないはずです。大精霊様が支配区域内で移動するのは、昔はよくあったって聞いたことありますし」
「じゃあ、すぐにこの街がどうにかなるわけじゃないか……。でもな……」
すぐに何が起こるわけではないにせよ、大精霊が神殿の外に出てしまっているのは、十分すぎるほど異常事態だろう。
それが、1人の「愛され者」の存在によって引き起こされた。連れてきたのはフェルディナントだが、そんなことは誰も斟酌しないはず。
下手をしたら街全体が敵に回る可能性があった。
ここは大精霊と迷宮ありきの街だ。俺1人のために街そのものが崩壊しかねない、そんなリスクは誰も取りたくはないはず。
『お前が死ねばそれで丸く収まる』
そういう状況になる可能性が高い。
……いや、すでにそうなってしまっていると言ってもいい状況だった。
何か有効なアイデアを考えなければ。
ポイントには多少余裕があるが、大精霊自身が言うように、待ちに入られたらジリ貧だ。
だが、事態は俺に考える時間を与えなかった。
横にいたフェルディナントが、そんな神官たちを横目にこちらへ向かってきたのだ。
「いい気味だな、ヒカル・クロセ」
愉悦を湛えた底意地の悪い笑みを隠すことなく、吐きかけるように言う。
俺を見下す澄み切った瞳が、明白に俺を殺すために大精霊を連れてきたのだと語っていた。
「お前……。なんで……」
「ン? なんでこんなことをしたのか……か? それとも、俺が結界の内部が見えているのが不思議か? 転移者同士は結界の内部が見える……そういう仕様だ。ま、第1陣のお前が知らなくても無理もないが」
知らなかった。
だとすると、敵対する相手でも結界で姿を隠すことはできないということ。
……いや、こいつは高性能周辺地図を持っている。最初から俺の位置は知られていたのだろう。
「水の大精霊はな、お前が出てくるまで待ってくれるそうだが、地球の視聴者さんたちもお待ちかねだ。見て見ろよ、視聴者数を」
言われた通りに俺はそれを見た。
「じゅ……11億……」
10億を超えた視聴者数は、魔王と戦った時以来だった。
そうこうしている間にも、視聴者はどんどん増えているようだった。
「それがお前の死を願う者の数だよ。ヒカル・クロセ。さあ、そこから出てきてもらおうか。……お前だってわかるだろう? チェックメイトだよ」
「あなたね。さっきから黙っていればいい気になって――」
剣呑な気配を出し、剣を構えるリフレイア。
「おっと、動かないでもらおう。俺が何も準備せず姿を現したと思うか?」
そう言うと、フェルディナントは意味深にポケットの中をまさぐった。
「連絡手段なんていくらでもあるんだよ。俺が合図を送ればファントムがすぐに動く。そういう段取りだ」
例えばトランシーバーみたいなものを地球から持ち込んでいるなら、連絡は容易い。
あるいは、そういう魔導具があっても不思議ではない。人体の損傷を修復するような道具すらある世界なのだ。
だが……動くとは……?
「……どういう意味だ」
「お前のお仲間の猫人間……たしか、グレープフルーとか言ったか? そいつを殺す」
「――――は?」
グレープフルーを……殺す……?
こいつは……何を言っているんだ……?
「嫌なら、さっさとその結界から出てくるんだな。俺はお前が死ぬ姿を早く見たくてウズウズしているんだよ。本当は迷宮の中で殺したかったんだがなァ! 予定が狂っちまったものは仕方がない。石になったお前を踏みつけて砕いてやったら、さぞスカッとしただろうのにな。はッ! ははははッはははは!!」
その姿は正気を失っているように見えた。
こいつは、今日この時のために準備をしてきたのだろう。
俺たちが街を出ると知って、ナナミの嘘情報で牽制してきたのも、すべて俺を殺すためだったのに違いない。
もう話し合う余地があるとも思えなかった。
ただ、理由だけは知りたかった。
「……俺がお前に何かしたのか? つい……こないだ迷宮で知り合ったばかりなのに」
「バカかお前は。第1陣転移者は、全世界から見られてるんだぞ? お前のプロフィールも何もかも、向こうじゃ全部ネットに上げられてるんだよ。お前がジャパニーズマフィアの孫だってことも、半分しか血の繋がらない妹たちのこともな」
ドクン――と心臓が跳ねた。
祖父がヤクザだというのは、友達にも誰にも言ったことがなかったし、勘当されていたからというのもあるにせよ、うちの両親もそれを誰かに殊更に言うタイプでもなかったからだ。妹たちだってそうだろう。
だから、知っている人間は、本当に限られていたはずだ。
(……そんなの、親戚なんかが暴露すればすぐに拡散する……か)
第1陣の時ですら、転移者の個人情報には情報メディアから謝礼金が支払われるほどだった。
俺の情報だって例外ではなかっただろう。
まして、俺はいきなり転移者として選ばれたことで事前情報ゼロの状態だったのだ。
さらに、ナナミ殺しの容疑者だった。
人権などないかのように、暴かれ尽くしたということに違いない。
こんなベルギー出身だという海外からの転移者ですら、俺のことを知っているほどなのだ。
そのことに、俺は言い知れない気持ち悪さを感じた。
「まあ、もちろん俺のことだっていろいろ暴き立てられたがな。まあ、そんなことはどうだっていいんだ。どうせ、こっちに来たらもう何も関係がないんだからな」
「答えになってないぞ。俺のことが知られているのと、お前が俺を殺そうとするのと……なにか関係があるのか」
「いや、別に。お前が嫌がると思って教えてやっただけだ」
酷薄な笑みを浮かべ、クツクツと嗤う。
それなのに、瞳だけは透き通るようにキラキラと輝いていて不気味だった。
「さて、俺がお前を殺したい理由だったな。お前にとってはショックかもしれないが――」
フェルディナントは両手を広げて、とっておきの秘密を開陳する子どものように、
「お前の妹、セリカ・クロセに頼まれたからだよ!」
そう言った。
最初、俺はその意味が理解できなかった。
「は……? セリカ……? お前、妹と知り合いなのか……?」
「まあな。彼女は、俺にはその苦しい胸の内を明かしてくれたよ。兄のせいで、なにもかも滅茶苦茶になったと。憎い。私に代わって殺して欲しいってな……。大精霊をブツければいいってのも、セリカのアイデアなんだぜ? ははは! 憎まれてるなァ! おい!」
「そ……そんなわけあるか……! あいつは……視聴率レースの時だって俺に協力してくれていたはずだ」
「それはナナミ・ソウマを生き返らせるためだろう? それ以外に手段がなかったから、そうした。そう言ってたぜ?」
「……嘘だ」
「嘘だと思うか? ……ま、俺にとっては、お前が信じるも信じないもどうだっていいことだ。どうせお前は大精霊に殺されるんだからな」
そう言って、嬉しそうに声をあげて笑うフェルディナント。
実際……こいつは俺と知り合いでもなんでもない。そんな見ず知らずの転移者であるこいつが、積極的に俺を殺したい理由も不明なのだ。
何が本当で、何が嘘か。
衝撃でうまく頭が回らなかった。
ふいに家族の名前が出たことで胸のざわつきを止められなかった。
「セリカに頼まれたからって……俺を殺すのか? なんのメリットがあって……」
金か何かを貰う約束でもしているのだろうか。
セリカは中学生とは思えないほど稼いでいたから、可能性はある。
例えば、殺しを達成できたら残してきた家族に金が振り込まれるとか……そういう約束ならば、俺を殺すメリットとなり得るだろう。
だが、フェルディナントの答えは意表を突いたものだった。
「愛している人の願いを男が叶えるのにメリットもクソもあるかよ」
「え……? は……? あい……?」
「なんだその顔は。本当にお前らは似てない兄妹だな」
「愛って……どういう関係……? あいつ、まだ中学生だぞ……?」
「年齢など愛の前では関係がない」
嘘だろ……? 恋人ってこと……なのか……?
俺だって、セリカの交友範囲なんてほとんど把握できていなかった。大人びたタイプだし、そういうこともある……のか……?
妹の彼氏……?
わからないが、事ここに至ってわざわざ嘘をつく必要があるだろうか。
『愛され者』の俺にとって、今の状態は王手をかけられているようなものなのに。
「だがセリカがそんなこと頼むなんて――」
「お前に……セリカ・クロセの何がわかるんだ? なぁ、ヒカル・クロセ。お前に彼女の何がわかるっていうんだよ!?」
……ギクッとした。
それは、まさに何度も感じてきたことだったからだ。
――お兄ちゃんにはわかんないよ。
その無邪気な妹の言葉に、どれほど疎外感を感じていただろう。
俺は、天才姉妹の兄として、自分なりに頑張ってきたつもりだった。
両親はわりと早々にセリカとカレンから金を引っ張って生きる方向に舵を切っているのがわかっていたから、2人が食い物にされないように逃がして、両親は俺が引き受けるつもりだった。
それがかなわなかったから、恨まれたのだろうか。
結果的に、俺だけがあの家から逃げ出したように見えただろうか。
そうかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
……俺にはわからない。
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