女の子の要求

「子供ができたの」


 マナミはただ一言。今日の天気を教えるみたいに言った。今思えば嬉しそうじゃなかった。

 俺にとっては寝耳に水だったが、身に覚えがないわけじゃなかった。デートの終わりに舞いあがった俺は避妊具なしで行為に及んだこともあった。「子供ができたらどうしよう」なんてマナミの笑顔の冗談に、俺は「結婚しよう」と返していた。

 だから結婚した。

 俺は高校生でマナミは大学生。合コンで出会った。マナミがどうだったかは知らないが俺は完全に一目ぼれである。退屈そうだった彼女に俺が話題を振って、楽しげな笑顔を浮かべてくれた瞬間に恋におちた。

 一時の感情に逆上せた勢いだけの結婚。学業も就職も放り出すことを俺の両親もマナミの両親も、祖父母も誰も祝福してくれなかった。

 結局、二人とも勘当同然に家族との縁を切り、新しい家族を作った。

 それでよかった。

 親子三人で幸せに暮らせる。マナミは両親から絶縁料と称して大金をせしめてやったといった。

 俺よりもずっと強い女だと思っていた。









 甲高い電子音が鳴り響いた。携帯のアラームかと思って開いてみるとそうではなかった。そして、いつもと変わらないリビングには、妙な香りが充満していた。

 体を起こした。いつも通りのソファーで寝たはずだったのにやけに目覚めがよかった。普段なら背中や肩に仕事の疲労がコリとなって堪るはずなのに。部屋をきれいに片づけたおかげかもしれない。

 さて匂いの出所はどこだろうと首を回すと、カウンター越しにキッチンが見えた。

 彼女が立っていた。背中の真ん中ぐらいまでの黒髪を一括りにして、キッチンで何かを……料理をしている。


「マナミ?」


 寝ぼけた頭がさっき見たばかりの夢の続きを呟いた。


「起きたんですか?」


 キッチンに立っていたのはアイだった。昨日の出会いが睡魔の霧の中から緩やかに思い出された。


「おはようございます」


 アイは俺へと愛想の少ない挨拶をした。アイは制服姿ではなかった。持ってきた私服を着ている。ボーダー柄のTシャツにゆったりとした長いスカート。真っ直ぐに俺を見ている。

 俺は寝ぼけ眼を擦った。彼女の存在が夢や幻であること願ったのかもしれない。


「おはようございますって言いましたけど?」


 長いこと黙りこくっていたからか、アイの声に不機嫌の色が増した。


「あぁ……おはよう」


 俺は十数年ぶりに、家の中で人とあいさつを交わした。

 心地いいかどうかは慣れてみないとわからない。慣れたころには心地よさなどわかりはしないのだろうけど

 

「変な匂いがするんだが……」  

「失礼ですね」


 目覚めたときから鼻についている匂いのことを聞いたつもりだったが、言葉選びが悪かった。吊りあがったアイの目から逃れるように、俺は逃げるようにソファから抜け出ていた。


「お味噌汁を作ったんです」


 得意げに言うアイについてキッチンへ行けば、久しく使った覚えのないIHヒーターの上に、これまた久しぶりに見た小なべが乗っていた。

 久々にお玉を握って鍋を掻き混ぜてみると、立ち昇る湯気と共に部屋に立ち込めていた匂いが一層濃くなった。

 ここで俺の目は完全に醒めた。と、いうよりは食欲に上塗りされた感じだ。俺の体の中に刻み込まれた日本人の遺伝子が芳醇な味噌の香りによって活性化したのだろう。

 味噌汁にはワカメと豆腐、油揚げまで入っている。正真正銘、立派な味噌汁。レトルトと違い、肉厚の具材がごろごろしていた。


「どうしたんだ、これ?」


 心底不思議だ。昨日の夜は食材がなく、アイが手料理を振るう機会は持ち越しになったはずなのに朝には味噌汁ができているなんて辻褄が合わない。


「買ってきたんです。車で送ってもらおうときにコンビニがあったから、そこまで行ってきたんです」

「そこまでって……どうやって?」

「走ってです。毎朝ジョギングしているので。ついでに」


 何でもない様にアイは言ってのけたが、俺はちょっと吃驚した。確かにコンビニはあるが近くとは言えない。歩いていけば片道三十分以上かかる。往復で一時間。

 時計を見れば八時過ぎ。少なくともアイは七時には起きて日課のジョギングがてらコンビニで買い物を済ませてきたのだ。

 わざわざ休日の朝早くに走るなんて俺には考えつかないし、ここずっとまともに走ったことすらない。最後に走ったのはいつだったか


「和食でよかったですか?お米とパンも買ってきてますけど」

「あぁ、和食でいい」

「お魚と卵もありますよ。お魚は出来合いですけど」

「食べるよ。腹が減ってる」

「わかりました。ちょっと待っててください」


 アイはお茶が用意してあるダイニングテーブルに俺を座らせて、キッチンで卵焼きづくりに取り掛かっている。

 至れり尽くせり。まるで旅館だがここは自宅だ。

 だけど鼻歌交じりで調理をするアイの後姿を眺めていると、現実味が薄れ夢の続きを見ているような気分になってきていた。

 試しに頬を抓ってみれば痛かった。現実らしい。


「おはよぉぉ……」


 やけに間延びした声と共にドアが開いた。そういえば、もう一人居候がいるんだった。


「ぶっ!!」

「ユウキ!胸!!」


 アイが怒鳴って俺は息を詰まらせた。

 現れたユウキがとんでもなかったからだ。寝ぐせで跳ね回っている金髪と、未だに眠りの世界をいったりきたりする半開きの瞼。なによりもとんでもないのはパジャマのボタンが外れていることだ。

 肌蹴たパジャマの胸元には、小麦色の膨らみが小ぶりながらもしっかりと存在していた。

 辛うじて、本当に辛うじて胸の先の引っ掛かりが、パジャマを留めているだけに過ぎない。

 俺は突っ伏した。健康的で瑞々しい肌は、おっさんには強烈すぎる。


「ありゃりゃりゃ、こりゃ失礼」


 俺の動揺など気にもかけず、ユウキは寝言のようにとぼけるばかり

 すぐにキッチンからアイが飛び出し、ユウキを廊下へと押し出した。

 慌ただしい朝の幕開けは、おっさんにはどう考えたって夢にしか思えなかった。












 朝の食事はいささか香ばしかった。アイがこっぴどくユウキを叱ったのである。

 だけどその説教が堪えているのはユウキよりも俺のほうだろう

「不用心に肌を晒すのは駄目」「なにがあるかわからない」「他人の視線に気を付けなきゃいけない」

 と、再三にわたって繰り返した。

 ようするに、俺に気を付けろと言っているのだ。間違ったことを言っているわけではないが、さながら危険物扱いされるとチクチクとお小言が耳に刺さるようだ。

 文句は言うまい。たった一日の付き合いの俺ですら、ユウキが隙だらけなことは目に余るところである。

 世の中、心得た男ばかりではないのだ。ユウキのように整った容姿の字女子高生が食いつける位置でふらふらと漂っているのを見れば、人生を棒に振ることもいとわず食いつく男がいないとも限らない。

 アイは間違っていない。ただ説教が俺に飛び火していることに気づいてほしかった


「要するに、あたしがおじさんに襲われちゃうって言いたいわけ?」


 食後、だいぶカフェオレ寄りのコーヒーを飲みながら、ユウキが核心を突く。

 出会って一日で信用も何もないのだが、露骨に言われてもグサッとくるものだ


「た、タケオさんがそうだとはいわないけど、そうよ!男の人には……気を付けないと!」


 ようやくおっさんの心に刺さった説教の破片に気づいたアイは、興奮を抑え気味にくぎを刺した 

 ユウキは品定めする眼で俺を見た。


「おじさんは大じょーぶだと思うけどなぁ。パンツ見ても反応しないし」

「そんなのわからないでしょ。お母さんが言ってたじゃない。『どんな男かは』その……アレしないとわからないって」

「『セックスするまでわからない』でしょ?」

「ぶふっ!」


 我関せずを貫こうとしているとコーヒーを噴く羽目になった。娘に何を教えてるんだあいつは。


「でも、あたしたちがおじさんとエッチするわけにはいかないじゃん。ね?」


 聞くな。困る。


「それなら、いっぱいエッチしてたマナミママが信用してるんだから、あたしたちも信用すればいいじゃん。完璧な理論でしょ?それとも本当におじさんとエッチするまで信用しないつもり?……したいの?」

「そんなわけないでしょ!!」


 アイは顔を真っ赤にして椅子から飛びあがった。俺からみれば恐ろしい形相であるものの、ユウキにしてみれば構うようなものでもないらしい。カフェオレ寄りのコーヒーを飲み終えればぺろりと舌を一舐めして立ち上がった。


「ごめん。今のはあたしが悪かったから怒んないで。買い物行くんだし、姉妹喧嘩なんてつまらないじゃん」


 実にあっさりとしたものである。ユウキは食器を片づけてから2階にあがっていってしまった。アイも俺を一瞥しただけで何も言わずに、怒り心頭でユウキのあとにつづいて行った。

 俺は溜息を吐いて、食器を洗うことにした。とりあえず、こういう時は何かしてないと考えがまとまらないのだ。

 環境が急に変わって、戸惑っているのは俺だけじゃないのだろう。年頃の娘たちだ。大して知らないおっさんの傍にいるだけでも思うところがあるのかもしれない。

 なんにせよ、二人の切り替えの早さを願うしかない。ギスギスした女子高生二人を連れて歩くなんてゾッとする


「っと、鍵はどこだ?」


 車の鍵は見当たらなかった。


「荷物を下ろすのに使って……そのあとどうしたっけか?」


 綺麗にしたはずなのに鍵束が見当たらないなんておかしな話だ。レイアウトを少々弄ったせいかもしれない。

 一度にいろいろ変化をつけると悪いほうに働くこともあるというのがここでも実証された。

 俺は2階に上がった。さっきの今で話をするのは割とおっかないが、せっかく片づけた場所をひっくり返す気にもなれず、最後まで色々と手を加えていたアイに聞くのが手っ取り早いだろう


「アイ、すまんがちょっと来てくれ」


 そんなわけで階段を上がって近くの子供部屋を開けた。

 もちろん、アイはそこにいる。

 下着姿で。

 家のドアを開けるのにノックをする習慣なんてなくしていた。しくじったのを一発で察しながらも俺の視線は最短距離でアイの身体に飛びついてしまった。

 何せアイの身体を隠すものはなにもない。白い肌に纏っているのは黒地に緑色の柄がついたブラとショーツ。チョコミント柄とでも言おうか。

 スカートを脱ぎかけていたアイの姿勢は前かがみで、子供とは言えない胸の膨らみと谷間をまるで俺に見せつけているようだった。

 魅入られてしまった。あれを昨日揉んだのだと思えば、男としては感無量。


「待て、これは……」


 俺が口を動かしだすのと、アイが足元のボストンバックを掴んで振りかぶるのとほぼ同時だった。

 運動を怠らないアイの投擲は正確で凶悪。中身の詰まったボストンバックを顔面に食らって俺はぶざまに部屋の外へと吹っ飛ばされた。口の開いていたボストンバッグがバラバラと俺の上に服が吐きだす。上着にスカート、ブラに下着。

 アイが力任せに部屋のドアを閉めて、代わりに隣の部屋からユウキが顔をのぞかせた


「うわっ、なにしたの?」

「……馬鹿なこと」


 仰向けで、女子高生の服にくるまった俺が言えるのは、それぐらいであった。










「あたしに気を抜くなっていったのに、自分がお色気アピールするんだから面白すぎる!」

「私が悪いんじゃない!全部、タケオさんのせいよ!!」


 後部座席でユウキはけらけらと笑った。パジャマ姿ではなく、Tシャツ短パンにパーカーを重ねている

 一方でアイは憤然たる思いで握りしめる拳を膝の上に置き、冷めやらぬ怒りを剥き出しにしていた。

 こちらはタートルネックにロングスカート。茶色のカバンを持っている随分と大人びた服装である。


「そうだよ、ノックを忘れた俺が悪かったよ」


 バックミラー越しに謝るとアイは涙目で俺を睨み付けた。羞恥と怒りの記憶はしばらく尾を引きそうだった。

 まぁ、俺の大失態のおかげで姉妹の仲は改善していた。


「でもなんで着替えてたんだ。パジャマでもなかっただろ」

「部屋着だったからです、外に出るのに、あんな恰好じゃ出られないです」


 おっさんには理解しがたい答えである。

 朝の格好でも十分だっただろうに。


「おじさん着替えてないね。そのまま買い物行くとは思わなかったよ」

「なんか変か?」


 俺は自分の服装を見た。ロングTシャツにカーゴパンツ。作業着じゃないがワークウェアだ


「見てくれは悪くないと思うんだが?」


 最近はワークウェアでも普段着として使えるようなものはいくらでもある。だからこの格好で外に出ることは何ら恥ずかしくないのだが、女子高生二人は不満顔を見合わせた。


「これは、色々と改造がしないと駄目そうだね」


 と、きな臭いことを言うユウキにアイは力強くうなづいた。

 俺は口を挟まなかった。ギスギスされるよりかは姉妹仲良くしてくれたほうが俺の心境的にも優しい。

 車の速度をばれない程度にちょっと緩めてみたものの、ショッピングモールにはついてしまった。

 

「人、多いねぇ」


 車を停めるところを探している間、ユウキは人の多さにうんざりと呟いた。

 この辺りで一番大きな複合商業施設で駅も近いとなれば、休日に人でごった返すのは当然。できた当初は渋滞が問題になったぐらいだ。


「最初にタケオさんの改造を済ませよっか」

「そうだね~」


 どうにか車を停めて入店後、早々に店内見取り図の前でアイとユウキが決めた。


「……改造ってなんだ」


 流石にいよいよとなれば聞くしかなかった。服の指摘だったから服を買わされるのかと思ったが、紳士服売り場は別の階である。


「いいからいいから、こっちこっち」


 平然とユウキが手を握ってきたので俺はどきりとした。思春期的な動揺ではなく、公衆の面前で女子高生と手を繋ぐことが後ろめたかったのだ。

 アイも咎めてくれなかったので、ユウキもやめなかった。手を引かれて歩く間、気が気でなかった。

 周りから白い目で見られていないだろうか。女子高生と手を繋ぐおっさんなんていかがわしさ満点だ。

 結局、俺の取り越し苦労なわけだ。世の中はそれほど他人に興味がない


「ここです。わかりますよね?」


 目的の店の前でアイが俺の顔色を伺った。

 わかるといえばわかる。誰だって利用したことのある施設

 だけど待て。この店を俺が利用するのか?二人じゃなくて?おっさんが?


「さっさと入る!今日は色々回るんだから」

「ちょ、ちょっとまて」


 背中をユウキに押されて入店すれば、花の香りが俺を出迎えた。

 店内男女比率は1:9ぐらいか?

 店内の過剰な飾りにくらくらした。何の嫌がらせなんだ、これは。


「いらっしゃいませ。初めてのご利用ですか?」

「そうです。父をお願いできますか?」

「はい、大丈夫ですよ」

「うちのパパ、うんっ!とカッコよくしてください。今でもカッコいいんだけど、ちょっとボサボサだし」


 キューティクルの利いた店員に、アイとユウキは次々と注文を付けていた。俺は固まってしまった。店内の雰囲気にも飲まれていたし、二人が俺を父と呼んだ衝撃に打ちのめされていた。

 父、パパ。お父さん。そんな風に自分が呼ばれる日が来るなんて

 衝撃から立ち直ったときには俺は鏡の前に座らせられて、テルテル坊主のように布から頭だけをだしていた


「可愛らしい娘さん達ですね」


 店員は霧吹きで俺の髪を塗らして櫛で梳きながら、世間話を仕掛けてきた。

 俺のくらった衝撃なんて気づくはずもない。


「そうですね。知らない間に、大きくなって」

「子供ってそういうものですよ。お父さんの知らないところで大人になっていくんです」

「……えぇ、本当に。そうですね」


 店員は気前よく俺の髪を鋏で切りながら、家族の話に華を咲かせてくれた。

 だから俺は平静に嘘を吐くことに終始した。

 知らないところで育った娘たちのことを嘘で塗り固めるだけの虚しい時間は、十分拷問になっていた。









 俺は三階に上がってアイとユウキを探してていた。美容院に置いて行かれる前に、三階で買い物してるからと言いつけられたである。

 美容院の店員はお喋りだった。それも仕事のうちなのだろうが、黙っていてほしかった。お喋りに付き合うために、俺は娘たちを嘘で作り上げてしまった。馬鹿馬鹿しくて最後のほうは自分でも笑っていた。

 先に見つかったのはユウキだった。人込みの中でも彼女の金髪はよく目立った。

 アイはおらず、ユウキはぽつんと立っている。何をするでもなく、ただ一人で。お喋りで活発なユウキが誰にも構われずにいる姿は、やけに寂しくうつった


「おい、なにしてんだ?」


 俺が近づいても気づきもしなかったので、俺はユウキの肩を叩いた。ようやくユウキは振り返り、俺を見るやいなや、目を大きく見開いた


「わっ、誰!?ナンパ!?」

「やめろ。人聞きが悪い」


 冗談なのはわかっても慌てて否定すると、ふっとユウキは表情を和らげた。


「わかってるって。でも、かっこよくなったよ。生まれ変わった気分は?」


 ユウキは昨日と同じく、からかい口調で囃し立ててくる。俺は不精髭が一切ない顎をさすった


「スースーする」

「うわっ、つまんない反応。枯れてるなぁ~」

「ほっとけ」


 確かに普段の俺は1000円カットのヘアスタイルだし、髭は一週間に一回そればいいほう、顔ぞりなんて初めての経験だ。女子高生の美的センスで言えば、さぞ野暮ったかったことだろう。

 とはいえ、美容院を利用した俺の感想は疲れただった。髪を切るのに二度も三度もシャンプーする必要があるのか?顔に布を掛けられて、髪を洗われながらお喋りに興じるなんてどうかしてる。


「アイは?」

「買い物中。おじさんに下着全部見られちゃったからね。新しいサプライズ用のを探してんだと思うよ」


 おじさん、ね。別に寂しかない


「ふーん、そりゃ楽しみだ。それで、何してた?」

「あたし?」


 そうだと頷くとユウキは困ったように視線を逸らした。ちょっと心配になったが、やましいことがある感じではない。


「あれ見てたの」


 やがてユウキは顎をしゃくった。視線で追えば、ちょっとした騒音問題が起きていた

 女の子だ。自分と同じぐらい大きなぬいぐるみを抱きしめ、大声で泣きわめいている。周囲のことなどお構いなし。

 女の子の世界には自分と、ぬいぐるみと、立ちはだかる父親しか存在していないのだ。

 理由はわからないが、女の子はそこから動きたくなくて、父親は帰りたいらしい。腕力で女の子を抱き上げようとしても、女の子は怪鳥のような鳴き声を上げて駄々をこねた。

 父親はどうにか女の子の機嫌を取ろうとするも、女の子の要求は聞き入れられない。打つ手なしだ


「どう思う?」


 聞かれて困った。


「どうって……よくあることだろ」

「おじさんもああいうの経験ある? アイの子育て中にさ」


 ユウキは視線を親子に向けたままだった。


「ある……アイが買い物カゴのケーキを会計前に食べたんだ」


 とっくに塵になっていると思っていた記憶は簡単に思い出せた。マナミと一緒にお店の人に頭を下げたとき、アイは口と手のクリームを必死に舐めていた。

 赤っ恥をかいたから思い出せたのかもしれない。

 

「アイは食い意地張ってるからね」


 ユウキが微笑んだが、反応はそれで終わりで黙ってしまった。

 俺はまた困った。ユウキの関心がさっぱりわからない。俺とアイのことを聞きたいわけでも、他人様の親子の中を取り持つつもりもなく、ただどこにでもある光景に見入っている。俺は子供鳴き声で耳が痛くなっているというのに


「どうしたんですか?」


 助け舟が来た。俺とユウキは振り返り、とんでもなく大きな紙風呂を両脇に抱えたアイを迎えいれた。


「何でもないよー。アイが売り物のケーキを食べてないか心配してただけ~」


 ユウキはあっさりと親子から顔を背けて次の買い物に向けて歩きだした。

 女子高生の心中なんておっさんにはわかるはずもなく、俺は肩をすくめて後に続こうとした。

 ぐいっと服が引っ張られた。

 アイが顔を真っ赤にして俺を睨んでいる。どうやら幼いころの失敗をしっかりと覚えていたらしい。俺は平謝りを続けたが、この後の買い物は苦戦を強いられることになった。

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