今後について
一悶着あって、掃除が終わったころにはとっくに日が傾いてしまっていた。
干していた布団とカーペットを取り込んで、あるべき位置に配置し終えると俺の家は見間違えるようになっていた。足の踏み場がある。テーブルに物の置き場がある。リモコンや鍵束といった小物が一目でどこにあるかわかるようになっている。信じられない。
頑張った甲斐があったと感動していると、腹の虫がぐぅと鳴った。労働力の見返りを求めているのだ。
「記念に出前とろうよ。ピザとかさ。それとも、ぱぁ~~とお寿司とかいっちゃう?」
ユウキが綺麗になったソファを堪能しながら、そんな提案をした。
「なんの記念だなんの。居候ができた記念か?俺が肘鉄くらった記念か?」
よくもまぁ人の家のソファでここまでくつろげるもんだと感心を込めて言ってやると、ユウキは白い目で俺を見てきた。咎められている。なんだ?
「……ごめんなさい」
なんだ?と聞く前に、2階から降りてきていたアイが掠れるような声で謝罪を口にした。もう何度目かの謝罪である。
寝室での騒動からアイはすっかりしょげてしまった。俺が大げさに悶絶したせいかもしれないし、失態を恥じているのかもしれない。さもなきゃ、元父に乳を揉まれたことを恥ずかしがっているかだ。
洒落にもならん。
「いや、気にするな。ただの冗談だから」
痛かったのは本当だが。習っている護身術とやらは大した成果を上げてくれた。大の男に押し倒されたアイは、悲鳴を上げながら上体をねじり、ストレッチするみたいに片腕を伸ばした。
そして身体を戻す勢いを利用し、肘を狂気と変えたのだ。威力は絶大であった仕事中に鉄パイプが顔面に直撃したぐらいには痛かった。大げさかもしれない
「アイのおっぱいが掴みやすいのが悪いんだよ。Dなのにまだおっきくなりそうだもん。揉ませる相手もいなのにさ」
「ユウキ!!」
それもまた本当のことである。アイの胸は生地の厚い制服の上からでもしっかりと俺の重みを跳ね返す弾力をもっていた。制服越しでも立派な成長具合がわかったのだから、直接揉めればさぞかし魅力的な柔らかさであろう。なにせ若い女子高生のおっぱい。その字面だけで眩暈を起こしそうだ。
俺はアイを見た。アイも俺を見ていた。罰が悪くて顔を逸らした。
「いまアイのおっぱいのこと考えてたんだよ」
「そんなわけあるか!」
ユウキに見透かされたので、咄嗟に叫んだ。いくらなんでも元娘のおっぱいについて考察していたなんて正気を疑われるところである。
現にアイの目は再び警戒心が宿っている。
「それで出前はどうする?」
「話し逸らした~」
「丼ものにするか?麺類にするか?」
「あの、私、作ります」
ユウキを無視して話を進めると、アイがおずおずと別の案を提示した。
自炊。もっともな提案である。料理上手らしいアイの見事な一手。俺もアイの料理にはおっぱいよりも興味がある。
だが残念なことに、いくらアイに料理の腕の自信があろうとも、缶ビールと乾きものの肴だけで作れるものなんてあるはずがなかった。
◇
「記念なんだから特上にしよう」とユウキがあっけらかんと言ったので、出前の寿司は特上となった。
一人前12貫3200円。
信じられん。俺の昼飯はコンビニおにぎり3個とカップラーメン。千円でお釣りが来たというのに、夕食は諭吉を犠牲にすることになるなんて、誰が予想できようか。
「お金出します」とアイが当たり前のように言ったので、さらに自分の耳を疑うことになった。
いくら押しかけられたことを煩わしく感じていても、女子高生に金を出させるなんて大人も男もすたる。 贅沢ができるぐらいには稼いでいるのだ。
問答無用でアイの財布をしまわせて、俺は出前の兄ちゃんに万札を渡した。覚悟はしていたが、諭吉がばらされて、残骸のような小銭が返ってくると何故だか無性に悲しかった。
「お寿司美味しいですね」
「ほんっとおいしー!」
そんな出来事を乗り越えて、俺は食卓に座っていた。女子高生二人が満面の笑みを浮かべてくれたことが、少しは諭吉を失った気休めにはなった。
こっちのテーブルで食事をしたのはいつ以来だろう。独身仲間を集めて、徹夜でマージャンしていたころ以来かもしれない。
いつしか体力も気力も独身仲間もいなくなって、専ら一人酒で済ませるようになっていたのに、いまは女子高生二人を前に特上寿司をつまんでいる。寿司は美味いが、奇妙な状況に素直に舌つづみを打つ気がしない。
「おじさん、トロ食べないの?もらっていい?」
「駄目だ。最後に食う」
「じゃあ、ホタテは?」
「最後のひとつ前に食う」
好きなものは最後に頂く。
おしゃべりなユウキは何かと寿司についてあれこれとおしゃべりに花を割かせていた。
一方で、アイは神妙な面持ちで寿司を口に運んでいた。一貫つまんで醤油をネタにだけつけて、口に運ぶ。時間をかけて、ネタとシャリの風味を味わってから次の寿司へと移る。醤油を付ける回数も、寿司を噛む回数も変わらない。お茶を飲むタイミングも決まっているらしく、こだわりが伺えた。心なしか目元がほころんでいるようだった。
「好きなのか?寿司」
アイがお茶に手を伸ばしたタイミングで、俺はようやく元娘に話しかける腹が決まった。
遅すぎたかもしれないが、一歩でも踏み込むのは勇気のいることだった。
「好きです。お寿司」
「そうか」
アイは驚いていたのだろう。ごく短い言葉でも時間をかけて俺の質問に答えてくれた。
「タケオさんは好きですか?」
「あぁ、好きだ」
「そうですか」
会話はそれで途絶えた。父と娘だった二人にしては、ぎこちなく、錆びついてしまっていたけれど俺は満足していた。
初めはこんなものだという思いが自然に頭に浮かんできていた。元娘とよその娘との生活を受け入れる下地ができつつあるのかもしれない。
◇
食事を終えて一段落。庭を見ればとうの昔に日が落ちて、今日という慌ただしい一日にようやく平穏の2文字が訪れてくれた。
俺はソファーに座ってテレビを見ていた。4~5人が余裕を持って座れる大型のカウチソファーだ。
カウチ(寝椅子)の部分が円形に作られていて、大の大人が三人寝そべることもできる。マナミがいたころはそこで色々と楽しんだし、うたた寝程度ならしょちゅうしている
いまはユウキが寝そべっている。背もたれに背中を押し付けて、ゆらゆらとはみ出た足先を揺らしている。 短めのスカートが危ういところまで捲れてしまっているが気にすることもなく、芸人のコントにけらけらと笑いを声を上げている。
たった一日で既に自分の居場所を決めたようだ。大した順応能力である
しばらくユウキのふってくる話題。好きな芸人、芸能人、女優。映画は好きか、旅は好きか、恋人いるのかといった多岐にわたるお喋りに適当な相槌を打つ作業を続けた。テレビ大御所芸人並にお喋り上手なユウキに乗せられ、短い間に色んなことを喋った気がした。
スリッパのこすれる音が聞こえて、俺とユウキのお喋りは中断した。
「お風呂空きました」
そう言ったアイの姿に俺はしばし目を奪われた。
風呂上がりで濡れた黒髪をタオルで拭っている。当然ながら制服ではない。ワンピース型でグレー色のパジャマだ。茹った肌はピンク色に色づきしっとりと濡れている。丈は変わらず膝下であるが、タイツを履いていないお蔭で生足がすらりと伸びている。
何より参ったのがアイの成長具合だ。制服よりもずっと薄地のパジャマのせいで、体つきがはっきりとわかった。
胸元を押し上げる膨らみに反比例するくびれた腰。その下には肉のついた丸みがある。
マナミの血をしっかりと受け継いだ男の野性をくすぐる魔性の塊だった。
「どうしました?」
おまけにアイにその自覚はないらしい。年頃の男ならどうにかなってる見た目をしているくせに、純粋無垢な目でどうかしました?なんて首を傾げられると、人畜無害のおっさんでも出所不明の罪悪感に苛まれてしょうがないのだ。
「いや、なんでもない」
「そうですか」
俺の不埒な感情には気づくこともなく、アイはさっきまでユウキの占領していたカウチ部分に座った。
いつのまにやらユウキが入れ替わりに入浴に向かったらしい。
「ドライヤー使ってもいいですか?テレビの邪魔なら部屋に行きます」
「いや、使ってもいいよ」
バラエティー番組なんて本腰入れてみるようなもんじゃない。
許可するとアイは頷き、持参してきたドライヤーを使い始めた。巧みにドライヤーを動かしながら長い黒髪を乾かしていく。ドライヤーの向きによっては俺のほうにシャンプーの香りが届いた。俺が使っている安物とは違う、女性らしい豊かな香りをアイは纏っていた。
俺の知っている、子供のアイはとっくにいなくなっていた。俺が年を経て孤独なおっさんになったように、アイは俺の知らない間に大人の女になりつつあるのだ。
仕事へ行く前に「行かないで」と足に縋り付いてきた幼子。マナミの腕に抱き上げられながら泣き顔で見送ってくれた俺の娘。
すぐ隣で髪を乾かしている女子高生と俺の記憶の中の少女を結びつけることは、できそうになかった。
「あの……」
ドライヤーが止まってからしばらく。テレビを見ながらアイが横目で俺を伺った。俺はわずかに身構えた。何が来ても、応対する覚悟はできていた。
「頭、大丈夫ですか?」
いきなりなんてひどいことを言うんだ、この娘は。唖然とする俺の前で、アイは乾かしたばかりの髪を振った。
「ち、違いますから。そう言う意味じゃなくて私の殴ったところは大丈夫ですかって意味です」
「あぁ、そっちか」
ほっとした。
「殴られた時は死んだと思ったけど、もう痛くないな。忘れてたぐらいだ」
「よかったです」
今度はアイが安堵の息を吐いた。ここで俺が黙りこくると、夕食時と同じ展開になるのが目に見えていた。もうちょっとだけ、錆びた歯車を回すことにしよう
「空手と、護身術を習ってるんだっけか……大したもんだな」
とりあえず、手持ちの札を切るとアイは横目ではなくしっかりと俺を正面に捉えた。コミュニケーションを拒まれるほど嫌われてはないらしい。
「空手は小学校から。護身術は中学校からです」
「そうか。空手は俺もやってたよ。高校を辞めるまでだけど、そこそこ強かった」
「……知ってます。お母さんから聞きました。地区大会を準優勝までいったんですよね。凄いと思います」
昔とった杵柄とはいえ、アイから褒められると俺は単純に嬉しかった。親としては、子供からの尊敬は何物にも代えがたいトロフィーなのだろう。
惜しむべくは手渡されるのが遅すぎたことだろう。
「努力家なんだってな。ユウキが褒めてたよ」
少しばかり場が和んで、俺は進んで口を動かしていた。
「大したことないです。なにやっても駄目だから、全力で取り組まないと身につかないんです。私よりユウキのほうが凄いですよ。天才肌で何でもできるんです」
「ユウキが?」
「普段はああですけどね。やろうと思えば料理も運動も私よりずっと上手になるはずです」
それはまた、俺からすれば眉唾な話だ。俺のみたところユウキのイメージと言えば、パンツを頻繁に見せつけてくるゆる~い金髪の持ち主だ。
とはいえ、アイはからかっているでもなく真面目にユウキを高く評価しているようだ。能ある鷹はなんとやらということもあるのかもしれない。
それならそれでいいのだが……
「あの頭は少し派手すぎやしないか?会社で見たとき目が痛かった」
「私もそう思います」
アイが微笑んだので、俺もちょっとだけ口元を緩めた。もう俺の知るアイではなかったけど、いまのアイと距離が縮まった気がする。喜んでいいはずだ。
「あっ、なんか仲良くなってる」
話題に上がった能ある金髪の鷹はアイよりも短めの入浴時間であがってきた。
こちらはシャツとパンツの典型的なタイプのパジャマ。白地に所狭しとと犬の足跡がプリントされていた。少し子供っぽいが、ユウキの体系と身長ならよく似合っている。
と、いうとユウキは怒りだしそうだ
「なに?明日の話でもしてたの?」
そんなユウキは話題に乗り遅れまいとしたのか、勇み足で話に切り込んできた。
ユウキがアイの反対側、俺の隣に腰を掛けた。湯上りの女子高生に挟まれて、途端に異世界に放り込まれたようだった、
「明日?何の話だ?」
聞けばお決まりの姉妹の無言会議が始まった。
もちろん、アイが説明係を買ってでた。
「明日、買い物に行きます。必要最低限のものしか持ってきてないので、私服とかを家具とか必要なものを買いそろえないといけません」
「……俺が金を出すのか?」
おっかなびっくり聞いた。寿司を一回奢るのとはわけが違うはずだ。二人の部屋にはベッドもないし、女子高生の生活必需品が安くつくとは思えなかった。
「お金あるよ。三百万」
「は?」
聞きなれない金額。俺はユウキのほうを見た
「お母さんが用意してくれたんです。一年間の生活費と必要なものを買うために」
「三百万持ってるのか?」
俺はアイを見た。
「みせよっか?」
「いや、いい」
俺の頭は右へ左へとせわしなく揺れた。二人とも大真面目に語っている。
「うちのパパ、お金だけはあるから」
目を離した一瞬のすきに、ユウキは冷たい言葉を吐いた。
思いつきで世界旅行に旅立つマナミが金に苦労しているはずはないと思っていたが、とんでもない大富豪をとっ捕まえたらしい。三百万を女子高生に放り渡すとは、恐ろしい女だ。
俺と別れても順風満帆だと思うと悔しさが滲んだ
「なるほど。わかった金の心配はないんだな」
「ええ。でも、いろいろ買うことになるので車を出してください」
「残念だが、そりゃ無理だ」
明日は土曜日。休みの場合もあるけれど俺はたいてい出勤する。彼女らの事情もあるのだろうが俺の事情もある。社会人にとって仕事というのは生きる糧を得るために義務である。
そんなわけで、女子高生の買い物という素晴らしいイベントには付き合えそうもない。
「明日は仕事があるから……」
「ゴンさんには事情を話してあります。休んでいいそうですよ」
元娘は平然と俺の先を歩いていた
◇
念のためゴンさんに電話をかけてみたところ、確かに明日は休んでいいとのことだった。
おまけに「十年ちょっとの溜まりに溜まった有給を消化するいい機会だ」と、よほどのことがない限り休んでもいいとまで言われてしまった。俺がいないと会社が回らなくなるが、仕事を回すことぐらいやヤスオ以下数名の社員でもできるとのこと。
ぶっちゃけありがた迷惑な気遣いだったが、無碍にはできない。
俺は寝る直前だった。見上げる天井はいつもと変わりない。本日の寝床もソファーだった。寝室では今頃、娘(仮称)たちが眠っていることだろう。
アイはリビングで寝ると言い張ったがそうはいかない。ベッドは女子高生二人が寝られるだけの十分なスペースがあるが、ソファーは一人寝るのが精いっぱいだ。詰めれば寝られるが、少なくとも1人は床で尻を打ち付けることになる、。
2:1で別れるなら、こうするのが一番である。
「女子高生でサンドイッチしてあげよっか?」
と、言ったのはもちろんユウキである。
なるほど、素晴らしい提案だ。少々、青くて固そうではあるが、果実は果実。乾ききったおっさんを潤わすには十二分な蜜を蓄えている。しかも2つも。
だが、俺は賢いおっさんである。飛びついたが最後、入り口が閉じて囚われの身となり息の根を止められてはたまらない。またの機会にと丁重に断り、俺はいつもと同じ寝床についた。
「なにがなんだか……」
今日を思い返した。ついでに、一週間前に聞いたマナミの声も思い浮かべた。
別れた女房から他人の娘を押し付けられた。エネルギーの有り余った女子高生を、おっさん一人で面倒が見られると思っているのだろうか?それとも俺の面倒を見させるためにアイを送り込んだのか?あるいはアイが俺に会いたがったのだろうか?何がきっかけなのだろう。寝て起きて、不意に十余年の歳月を惜しんだのか?放任主義というユウキの父親に問題があるのか?まさか、俺ともう一度やり直したくなったとか?
暗がりの中、時計の音を聞きながら思考を巡らせるが、答えなんて出るはずもない。
マナミの頭の中なんて開いてみたってわかるはずがない。複雑怪奇な迷路の出口を知っているのは本人だけなのだ。
ただ一つ、俺にもわかることがあるとすれば、今日から俺の日常は退屈とは無縁になるということだけ。 今日一日で、痛感したことだった。
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