迷い路から帰りたくて

 夢の世界というものは、繋がりが全て曖昧なもので、現実には有り得ないような概念間の接合――つまりは、時系列や空間、あるいは縁といったようなものが、不可解な形で継ぎ接ぎになっている。


 それぞれあったこと(勿論夢ではあるので、現実にはなかったことに過ぎない)は、今こうして覚醒している最中さなかにも失われていくのだが、それでもそこにあった感情というのは果たして無にはならないわけで、愉快なことも、恐ろしいことも、い交ぜになった混沌カオスが、誇張された不可思議を、しかれども現実の延長に過ぎないことを指すような、そういう感じがしなくもない。


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 取り敢えず、ところとしては我が地元の……より正確に言えば、母方の祖母や従姉妹(正確な続柄つづきがらで言えば叔母か)の家、すなわち加古川の方であったと記憶している。もしかしたら、大阪であった可能性もあるが。


 ……いや、現実の記憶が曖昧という意味ではなく。

 冒頭に述べた通り、夢の世界における時系列というものは非常に曖昧なもので、それがいつの話というだったのかは、必ずしも観測結果から一意に定まることはない。

 現に、夢の中で見た従兄弟は、その従兄弟を見る際の私のイデアにあたる、たぶん小学校低学年頃の姿をしていた。今では彼も、立派に社会人となっているのに。具体的な年齢こそちゃんと把握していないものの、うに二十歳を超えているのは間違いなく、そこを基準に考えるならば十年ほどは昔の事であるのは間違いない。


 ……と言いつつ、十年前なら私も働きに出始めた頃であることを考えると、その情報と「加古川」であるという理屈に、全く相関はなくなるのである。

 ただ、それは現実の記憶が曖昧なのだというより、そもそも現実に認識して捉え、記憶している概念が限定的だという意味であり、というだけだ。何の弁明にもならんが。

 これ以上脱線すると、一生本題につかないので、そろそろ切り上げるが、そう考えると認知症の進んだ方が遥か過去の記憶に縋り付くのも、何ら不思議ではない。私とて、知識的に認識している事を取り払えば、従兄弟はまだ幼い子供のようにしか思っていないのだから。



 ともかく、田舎だか都会だか、母方の祖母や叔母の家に遊びに行ったのである。遊びに行ったというと自発的意識っぽいが、実際には連れられて向かったのだ。

 なにせ、夢の中の自分というのは、今ここで草臥くたびれている三十半ばの中年ではなく、時期こそ知らんもののまだ少年と言って差し支えないくらいの年代であった……らしい。

 実際のところは、勿論知らん。鏡を見たわけでもない。ただ、状況からそうだったと考えているだけだ。


 こればかりは実際に老いてみなければわからないものだが、人の心の変化というものは――あるいは成長という概念ものは、ある程度のタイミングでしっかり止まる。

 一部の人は、年齢を重ねるごとに線形に、徐々にでも精神が成熟していくイメージを持っていることだろう。現実は、全くそうではない。もしかしたら、そういう人もいるのかもしれない。それでも、実際はみんな、年齢に相応しい振る舞いとされるものを、社会の要請に対して演じているだけだ。


 従って、その瞬間に思う自身の心の本質というものが、その瞬間の年齢を定める基準には使えない。

 ただ、考え方などは今と変わらなくても、知識と経験は今と変わらないので、大人になってから人生をやり直すかのような、つまるところは「強くてニューゲーム」のような(最近そういうのあったっけ? 私自身、クロノ・トリガーでしか聞かんけど)様相ではあったと言える。

 そのうえで、行動選択がその瞬間大人らしかったか、というと全くそうではない。場面において大人ではなかったからなのか、私自身が今も変わらず本質的にはクソガキなままなのかは、夢なので曖昧だということにしておく。



 従兄弟の家は、何か凄い高級感のある部屋だった。なんだか広かったし、硝子ガラス張りの窓の外には、夜景が綺麗に映っていた。

 ただ、部屋の仕切りの数が妙に少なかった気がするし、夜景がすっきり見えるほど、部屋には明かりがなかった気がする。現実ではないからと、やりたい放題な感じだが、まぁ別に部屋のことはどうでもいい。

 強いて言うなら、何故かそこに父方の叔母の娘(つまりは従姉妹)が一人だけ訪れてきていたようで、そこまでいくと縁も結構希薄なうえ、その従姉妹は二人姉妹なのになんで下の一人だけ来てるんだよと、珍しく夢の中ですら思っていた。


 そして、場面はなんか大きい複合施設に移っていったのである。

 どうやって行ったかとかは特に認識がないし、そもそも誰と行っていたのかも定かではないが、車に乗った記憶がないということから、整合性を無理やりつけるなら、件の従兄弟の家の下とかにあった施設なのである。クソデカマンションだろうか。


 従兄弟の家のフロアには、何か知らんがどこかの会社のオフィスも入っていた。壁のないそのオフィスから、ショッピングモールにあるような、何某かの(なんとなく服飾品の)店とかも見えたように思う。どちらかというと、高級マンションの一室とかではなく、ショッピングモールとか普通のビルの一領域に、意味不明に住居が、というのが正しそうだ。

 まぁ、訪問した時はよくある普通のマンションの廊下に、普通の扉から入ったのを記憶している。あの廊下も、現実の従兄弟の家の構造とは全く違うし、どちらかというと私の友人の家の構造から引用されていた。夢は何もかもがぎだというのがよくわかる。そして、構造が動的ダイナミックにいくらでも変わるということも。


 深く進んでいくにつれて、どんどん大きくなっていく従兄弟の家の下のダンジョンは、なんか妙に巨大なアミューズメントパークっぽいところを内包していて、これまたなんか知らんが私はそこに迷い込んだ。

 それも、出口から入ったわけだ。素直に入口から入ってさえいれば、あそこまで良く分からん迷い方をしなかった気はするが、とにかく逆走をすることが想定されていない道を、ただ行けるように進んだことで、自分が今どこにいるのか、どちらに進めば出る方向に行けるのかも、全く分からん状態になってしまったのである。


 施設には不可解な仕組みも沢山あって、主に現実の物理法則を凌駕する何かであったり、見た感じ顧客の安全が保障されてないような感じの乗り物的な何かであったり、実際要らんことを軽率にやると死ぬだろうなと思いながら、迷い路に途方に暮れて進んだり、戻ったりしたわけだ。

 途中で係員の人のお世話にもなったと思うが、結局あそこからは出れないまま、覚醒に至ったように思う。元より、夢の中の繋がりは曖昧なものだし、順路通りにどこかに至る必然性は、どこにもないのだけれど。



 それでも、その人の実在性というものを、認識可能性と、人格の解釈によって捉えるのであれば。夢の中に居た人が、果たして私が無意識に再現した仮初の存在に過ぎないのだとしても。

 そこにあった縁というものを大事にして、ないがしろにすることなく。決して自己利益のためだけに切り捨てて当然だとは思わないようにしたいところだ、と感じる。


 現実にも迷うような不出来なものではあるけれど、また縁があれば、あの迷い路を最初からしっかりと、楽しむために堪能したいものだ。今度はちゃんと、入口からお邪魔する形で。

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