第191話 心を読まれても真正面から叩き潰す奴ですからね。相手が悪かったと思います。
ビルの屋上へと駆け上がったユーリの瞳が、すぐ隣のビルで頭を抑えながら走っている女と、その二つ向こうの屋上で歌っているリリアを捉えた。どうも調子が悪そうに見える女だが、気にしている間はない、とユーリはリリアへの道を塞ぐように女の前に降り立った。
「よぉ。風邪でもひいたか?」
ニヤリと笑うユーリを前に、女は「うーん」と腕を組んだまま首を捻ってみせた。
「なんだか身体が重いんだよねー」
自身の身体をしげしげと眺めた女が、「ま、それは君もだろうけど」と顔色の悪いユーリへ微笑んで見せた。実際女の言う通り、連発した破壊光線からの乱戦、そしてとっておきまで出したのだ。あまり体調の言いほうだ、とは言えないだろう。
それでもユーリは女を前に口角を上げた。
「へっ、バカか。丁度いいハンデだろ?」
心の持ちようだ。この程度の体調不良など、相手にハンデを与えてると思えばいい。笑顔のままゆっくりと腰を落とすユーリを前に、「嫌いじゃないなー。その強がり」と女が笑った瞬間姿を消した。
だがユーリの瞳は女の姿を捉えている。
脇を抜けようとする女を掴もうと、ユーリが左腕を伸ばした――はずだった。
「なっ――」
ユーリが目を見張るのも無理はない。動いたのは左腕ではなく、自身の意に反した右脚だったのだ。しかも伸びるどころか縮むという真逆の形で。
左を伸ばしたつもりが右。
手のつもりが脚。
伸ばしたつもりが縮む。
全く見当違いの動きは、女を止めるのに何の効果も持っていない。驚くユーリの脇を、不敵な笑みの女が悠々と抜けて隣の屋上へ。
向かう先はもちろん、二つ向こうの屋上に見えるリリアだろう。
「行かすかよ!」
女の後を追おうとユーリが、反転した瞬間ようやく身体の不調に気がついた。全身があべこべなのだ。左が右、右が左、上が下。その感覚に思わずユーリが屋上の上でたたらを踏むが、直ぐに動きを修正して女の後を追う。
身体が重いと言っていたせいか、速さはユーリの方が上だ。一気に女を追い越すと、ユーリは女を止める形で向かいあった。二人の間に小さな
「わーお。凄いね君!」
即座に追いついたユーリを前に、女が驚きを隠せないように目を見開いている。驚く女を前に、右手を何度か握りしめたユーリが黙ったまま女を睨みつけた。先程までとは違うユーリの雰囲気に、女もその顔を不敵な笑顔に変える……どうやらユーリを倒すべき相手と認識したようだ。
にらみ合う両者、グレーチングから落ちる滝のような雨がお互いの半身を僅かにボヤけさせている。
「テメェ、その力……どこで手に入れた」
ユーリの底冷えする声を前に、女はニヤリとしたままの表情を崩さず口を開いた。
「さあ? アタシ作られた存在だし」
あっけらかんと言う女が、その腕を刃に変質させていく――
「一応名乗っとくよ。【八咫烏】第十席、トア――」
姿を消した女がユーリの後方に現れた。
「――よろしく」
笑顔のままトアがその腕を振るう。
ユーリの延髄に迫る刃――が空を斬った。
一瞬でトアの視界から消えたユーリの上半身は、お辞儀をするようなユーリの回避行動だ。
前屈回避の勢いのまま両手を地面に、ユーリは左足を思い切り振り上げた。
――チッ
とユーリの踵がトアの顎先を掠めた。
のけぞり躱したトアの、「あっぶなー」という安堵の笑顔に、倒立状態で回転したユーリの右足が迫る。
側頭部に迫るユーリの右足に、トアが瞠目しつつ右腕を引き戻した。
トアの腕がミシミシと音を立て、吹き飛んだ。
床の上で二度、三度跳ねて転がるトアへ、ユーリの追撃。
「吹っ飛べ」
転がるトアへ向けてユーリは左脚を振り抜いた――と思っていた一撃で右手が縮こまる。一瞬で元に戻った身体の感覚に、ユーリが舌打ちをもらしてトアから一端距離を取った。
「いやー。君めちゃくちゃ強いじゃん……いや、アタシが弱くなってんのかな?」
腕を擦って起き上がったトアが、「身体重たいまんまだし」と口を尖らせてユーリを見据える。再び雨を挟んで向かい合う二人が、それを中心にゆっくりとビルの上を回る。
「君、アイアンランクとか嘘でしょ」
ヘラヘラと笑うトアが、ユーリの首に光るアイアンのタグを指差した。
「悪いが正真正銘のアイアンだよ。……ちっと上に嫌われててな」
笑うユーリが上を指差すば、女も「ウケる」と笑顔を見せる。ケラケラと
「で? 何で君はアタシの能力に
落ちる雨が凍る程冷たい視線へ、ユーリは真っ直ぐに笑みを返した。
「使いこなせてねぇだけだろ? テメェ程度じゃ、手に余る力なだけだ」
悪い顔で「ケケケ」と笑うユーリに、トアの瞳が更に細くなった。
「そういうのムカつくんだけど」
トアの身体から分かりやすく怒気が溢れた。
「怒るなよ。一応褒めたつもりなんだぜ? 俺は天邪鬼だからな」
ユーリの見せた不敵な笑みに、「ウザ……やっぱ知ってんじゃん!」とトアが底冷えする声を発して床を蹴った。
一瞬で加速したトアが、雨の滝をぶち破ってユーリへ肉薄。
険しい形相で突き出される刃を、ユーリが首を僅かに傾けるだけで躱す。
それと同時にトアの土手っ腹に、左拳を思い切り叩き込んだ。
床の上を両足で滑るトアが、雨の滝を背に止まった。
顔を上げたトアの前には、間合いを詰めたユーリの姿。
トアの顎先に迫るユーリの右拳がピタリと止まった。
かと思えば、それが再び加速――
慌ててのけぞったトアが雨の滝に顔を濡らしながら、ひっくり返るようにユーリの右拳をギリギリ避けて距離を取った。
「やりにくいね……」
「そりゃお互い様だ」
溜息をつくユーリは本心だ。実際トアの使う能力は良く知っている。昔の仲間に同じように感覚を反転させる女性がいたのだ。故に慣れていると言えば慣れているが、久々なのは間違いない。
そして能力自体は知っているが、それを使う人間が違うというのも大きい。使うタイミング。解除するタイミング。クセが違う以上、ユーリの方でも微妙なラグが出てしまう。先程がいい例だろう。ユーリの攻撃を前に、先ほど同様感覚を戻されたのだが、ユーリの知っている女性ならもっと早い段階で細かく切り替えを入れるくらいの芸当をしてきた。
クセの違いに、能力の使い方の甘さ、加えてオーバーワークでの疲労もある。いろいろな意味で感覚に身体がついてこない以上、ユーリからしたらやりにくくて仕方がない。
とは言え、トアの実力があまり大した事ないのは不幸中の幸いだ。感覚は慣れないが、このまま戦えば勝てる事は明白。
呼吸を整えたユーリがトアへ意識を集中し、腰を落とした。目の前では苛つくように、トアが頭を掻きむしり「あーあ」と頬を膨らませてリリアの方を睨んだ。
「この歌のせいだと思うんだよ……でもよくよく考えたら、馬鹿真面目に歌を聞く必要なんてなかったよ」
殺気の混じる笑顔に、ユーリが最大限の警戒を――目の前に急にトアが現れた。
瞠目するユーリへ迫るトアの刃。
辛うじて体を開いて躱すが、先程までの速度の比ではない。
伸び切った腕をつかもうとユーリが手を……伸ばせない。
感覚が狂い、僅かなラグの間にトアの両手が床を捉え、低い姿勢のまま一回転。
両足を刈る足払いに、ユーリが思わず跳躍。
浮いたユーリの土手っ腹に、回転の勢いをつけたトアの左後ろ横蹴り。
両腕をクロスさせて――と思った動きでユーリの両足が間抜けに開き、がら空きの土手っ腹にトアの左踵が突き刺さった。
床を転がったユーリが、両手で跳ね起き後方宙返りで受け身を取った。
その目の前にはトアの姿。
ユーリの頸動脈を狙う刃。
迫る刃にユーリが宙返りの勢いのままブリッジ。
と同時に右足を思い切り突き出した。
トアの腹に突き刺さるユーリの右足。
両足で滑ったトアが、その腹を擦って笑う。
「やるじゃん。アイアン君」
「すっごく強いですねユーリさん、って言え」
同じ様に笑って腹を擦るユーリだが、目の前のトアはユーリの言葉が聞き取れなかったように眉を寄せた。
「出来ればゆっくり話してよ。今……聞こえないからさ」
耳をトントンと叩くトアに、ユーリはようやく急に疾くなった事に合点がいった。どうやら身体を作り変えて耳を塞いでいるのだろう。何とも便利な身体だな、とユーリは思わず呆れ顔を浮かべてしまう。
それと同時にリリアの歌がモンスターだけでなく、ホムンクルスにも有効だと言うことに気がついた。モンスターという未知の細胞を利用した、人造人間……モンスターの細胞が影響を受けているのだろうか。
ある程度の予想はしていた事だが、突きつけられた現実にユーリの意識が僅かに止まる。
「考え事?」
目の前に現れたトア。
僅かに反応が鈍ったのは、感覚を狂わされていたせいか。
突き出された刃の腕がユーリの腹を貫いた。
「――っ!」
隣のビルから思わず、と言った具合で声にならない悲鳴が響く。
一瞬止まった歌に、「リリア! 止めんな!」とユーリが叫んだ。よくよく見れば、ユーリの腹を貫いたかに見えた腕も、身体を捩ったユーリを掠めただけだ。
「アタシを前に、他の女に移り目とか――」
ユーリの腹を掠めた刃の腕を、トアが引きながら回転。
腹を裂く感覚から逃れるユーリがバックステップ。
「――アタシだけ見ててよ。アイアン君」
トアが腕についたユーリの血をペロリと舐めた。
「チッ、モテる男は辛いな……」
苦笑いのユーリが、僅かに切れた腹を押さえた。傷口は浅いが、滴る雨のせいでゆっくりとだが血が滲んでいる。リリアの歌の範囲にあるのに、傷が治らない。ホムンクルスは歌の影響下にあるが、負わされた傷はモンスターのものとはみなされないようだ……。
「ったく。テメェの能力の出どころといい、謎だらけで嫌んなるぜ」
相手の本気が思ってた以上だったことに、ユーリは気持ちを切り替えるために深呼吸をする。速度も能力の切り替えも、耳を塞ぐ前と後では天と地程の差なのだ。この体調の悪さで呑気に考え事をしていて勝てるレベルではない。
「つっても……
笑顔を見せるユーリに、目の前のトアは眉を寄せている。声は聞こえていないだろうが、ユーリの唇の動きである程度言っている事は理解しているはずだ。
「誰と比べてるか知らないけど、アタシの方が強いよ……」
両腕を刃に変えたトアが瞳を細めた。
「そういうのは、テンションマックスのユーリ君に勝ってから言え」
呟いたユーリがイヤホンを抑えて「カノン」と呼びかけた。
『ほっわああ! 急に呼ばないで下さい』
イヤホンの向こうで元気そうにしているカノンに、ユーリは思わず笑みをこぼした。
「BGM聞いてんだろ? こっちにも回してくれ。かっくいいやつな」
笑顔のユーリが腰を落とした頃、『全部かっくいいですよ!』と口を尖らせてそうなカノンの声と、アップテンポの曲が鼓膜を揺らした。全身を包む疲労感はもちろん変わらない。それでもユーリはトアを前にゆっくりとした口調とともに右掌を見せた。
「悪いがテメェの見せ場は終わりだ……」
唇の動きでトアは伝わっているだろう。眉を寄せるトアに向けて、右の小指だけを曲げて見せる。
「後が支えてるからよ……さっさと退場しろ」
笑ったユーリが一気に加速。
待ち受ける格好のトアが刃の腕を突き出した。
ユーリの小指がピクピクと動く。
突き出された腕を最小限の動きだけで躱す。
瞠目するトアだが、攻撃は止まらない。
刃に変えた両腕を、時に突き、時に払い、ユーリを殺さんと振り回すが、そのどれもがユーリに掠りもしない。
躱す。避ける。感覚を狂わされているとは思えない程、ユーリは正確に回避を続けている。変わった点といえば、ピクピクと動く右の小指だけで、ユーリの表情は余裕のままだ。
曲げ続ける小指の感覚が移る度に、ユーリはトアが感覚を切り替えているのを察知している。もちろんトアもその事に気づいているのだろう。苦々しい表情でユーリの小指を睨んでいるのだ。
だが、気づいていても、それを受け入れられるかどうか、は別の話しである。言うは易しで、切り替わった感覚をスムーズにつなぎ続けるなど、人間業ではないのだ。
右の小指一本を犠牲にするだけで、自慢の能力を完全に封じられる。トアからしたら屈辱以外のなにものでもないだろう。歪んでいく表情に、トアの苛立ちが見て取れる。
「切り替えのタイミングが一定過ぎんぞ」
笑顔のユーリが、トアの突きを躱しながら腕を掴んで回転――
リリアと逆側へ思い切り放り投げた。
――ガシャン
大きな音を立てて鉄製の欄干が大きく拉げ――めり込んだトアへユーリの飛び蹴り。
「ガハッ――」
口から撒き散らされる血と涎。
鉄製の欄干をぶち破ったトアが、隣の欄干もぶち破って屋上をゴロゴロと転がった。
何とか立とうと手をつくトア……の背中をユーリが踏みつける。
「テメェ程度じゃ使いこなせねえ、つったろ?」
金網越しに光った空が、ユーリの顔に影を落とした。
「お前、何なんだよ!」
見えぬユーリの表情に、トアが慄くように血と涎を撒き散らして喚く――その髪の毛をユーリの右手が思い切り掴んで引きずり起こした。
血と涎に塗れる顔へ、ユーリは自身の顔を近づける――
「俺が何かって? 決まってんだろ。天下無敵のユーリ・ナルカミだ」
ユーリの名乗りに、トアの顔が驚きに満ちていく――
「ユーリ・ナルカミ……何で、何でお前がこんな所に!」
「そりゃイスタンブールに住んでんだから、ここにいるだろ」
溜息をついたユーリが、左手でトアの胸ぐらを掴んで斜め上に放り上げた。リリアとは更に真逆に……東門側へと――
宙へ放り出されたトア。
瞳に映るのは、屋上でトアを見上げるユーリの姿――が消えた。
暗い下層で、トアの顔が更に暗くなる。
飛び上がったユーリの影だと気がついたトアが顔を上げる。
全力で感覚を入れ替え続けるトアだが、ユーリは効いていないかのように左の踵を真っ直ぐに上げた。
「なんで――」
「落ちとけ」
回転を加えたユーリの左踵落とし。
トアは迫る死の予感に両腕を硬化させて目の前で交差。
トアの腕にぶち当たるユーリの左踵。
骨と肉を砕く音を響かせた踵が、トアの防御を食い破って右肩に叩きつけられた。
腕をなくしたトアが高速で斜め後方へと吹き飛んでいく。
勢いよく飛んだトアが、既にモンスターの数も少なくなってきた東門付近に突き刺さった。
「死んでは……ねえよな」
一番端のビルまで戻ってきたユーリが、ひさしを作ってトアの突き刺さった壁を見る。気になる発言もしていたし、全部終わったら尋問でも、と考えているのだ。
そうと決まれば残りを終わらせなければ……とユーリが思考を切り替えた視界に、エレナと相対する赤髪の女性の姿が映った。エレナと女は飛んできたトアへ意識を割いているようで、今は二人して固まったまま壁を見ている。
先程まではいなかった赤髪で巫女服のような女……あれが恐らくエレナの言っていた女だろう。
「目立つな……いい趣味してんじゃねぇか」
逸る気持ちを抑えきれないユーリが、屋上の欄干に足をかけた。
欄干が拉げ、ユーリの姿が消える。雨は降り続いていた。
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