第186話 居たら居たで煩いって言われるし、居なけりゃ居ないで不安がられるし……一体どうしろと
エリー達【八咫烏】によるウィーン襲撃の一報から一夜明けて――何も知らないイスタンブールの街は、変わらず平和を謳歌していた。長閑で平和な昼下がりのイスタンブールだが、唯一緊迫した場所がある。サイラスが所有するビルの、ブリーフィングルームだ。
そこに集まっているのは、サイラスが指揮するいつものメンバー。……ただユーリだけは不参加だが。
ユーリが座るべきはずの椅子に、視線を向けたカノンが「ユーリさん」と呟いた。ここにいる全員が、ウィーンに起きた悲報を昨夜のうちに共有されているので、ここに彼が居ない事に一抹の不安を覚えているのだろう。
もちろんこの場にいる全員が、昨夜の事件が【八咫烏】によって引き起こされたなどと知る由もない。だが普通ではあり得ない事件に、誰も彼もが言い知れぬ不安を抱えているのだ。
それはベテランでも変わらない。どんな時でも余裕そうなユーリが居ない、という事実にエレナやダンテも、カノン同様気にしたように空席をチラチラと見ていた。
出来ればただ面倒で来てないだけ、であってほしい。そんな思いが透ける瞳に、空席は何も応えてはくれない。
皆の不安や焦りがザワザワと大きくなり始めた頃、扉が開いてサイラスとクレア現れた。
「皆すまない。待たせたね」
いつも通りの口調だが、どこか寝起きのようなボンヤリとした表情にも見えなくない。そんな二人が揃って空席に気が付き、一瞬で覚醒したようにその目を大きく見開いた。
ユーリの居ない空席に目をやっていたのは一瞬だ。だがその一瞬で、サイラスは覚悟を決めたように表情を引き締め全員を見渡した。
「さて、諸君。すでに知っているだろうが――」
「商会長」
話し始めようとするサイラスを、エレナの挙手が遮った。普段ではありえない光景に、全員の視線がエレナへと集中する。皆の視線を受けながら、それでも真っ直ぐにサイラスを見つめるエレナの顔は、雄弁にその思いを語っていた。
その顔に込められた思いに、サイラスが気づかぬわけが無い。
「……ユーリ君のことかね?」
「はい。この場に彼が居ないのが不思議です」
エレナの言葉にサイラスがもう一度空席を見つめる。
「……確かに気になるのも無理はない」
サイラスの残念そうな声に、エレナ達が僅かに眉を寄せた。ユーリが居ないことをサイラスが残念がっている……いや、ユーリが来てくれる事を期待していたように見えるのだ。
「彼が来ない事と、君達をここに呼んだ事は無関係ではない」
大きく溜息をついたサイラスが、椅子に腰掛けて机の上で指を組んだ。
「昨夜ウィーンの一報を聞いた時、ユーリくんもその場に居たのだが――」
そう切り出したサイラスが、昨夜あった出来事を話し始めた。
ヒョウの発した大事件の一報が、静かなブリーフィングルームに響き渡った。
抑揚のない言葉で紡がれた言葉に、ユーリ以外の三人は呆けてしまっている。無理もないだろう「明日は雨だって」くらいのノリで「街が一個滅んだって」と言われたのだ。情報の衝撃とトーンのギャップに全員の脳がついていってない。
それでも何とか復帰したサイラスが……「馬鹿な」とようやく言葉を絞り出せた頃、リリアが顔を青くし、クレアがタブレットを放り、近くの椅子を引いて飛び込むように腰掛けた。
パタパタとクレアがキーボードを叩く音だけが暫く部屋に響き、その音が小さく、そしてキーボードを叩くクレアの指が僅かに震え始めた……。
「……閣下」
弱々しい声でクレアがキーボードのエンターキーを押すと、前面モニターに燃え上がり崩れ落ちていく都市の内部が映し出された。
「――っ見るな!」
咄嗟にリリアの頭を抱え込むユーリの視界には、凡そ一般人に見せられない地獄が映っていた。恐らく残っていた防犯カメラの映像をどこからか引っ張ってきたのだろう。燃える街、崩れるビルの合間を無数のモンスターが闊歩し、その手には既に事切れたであろう亡骸を引き摺っているものもいたのだ。
見る人間によっては
幸いな事に、「ちょっとユーリ?」とリリアの声は元気そうな事から、画面に映った地獄は目にしていないようだ。
「クレアさんよ……ちとその画面をオフにしてくれ。リリアを帰らせる」
ユーリの言葉にクレアが黙って頷き、同時にモニターが暗転する。
「リリア、検証は終わりだ。帰るぞ」
「え? でもまだ――」
「帰るぞ」
首を振るユーリに、リリアも渋々ながら頷いて立ち上がった。
「ユーリ君、僕は行くわ」
ほぼ同時に立ち上がったヒョウに、「ああ」とユーリが頷く。情報を集めに行くのだろうが、ヒョウが自ら出張るということは、恐らくそういうことなのだろう。加えて「僕は」と自分限定で言った事に、ユーリは来たるべき嵐の到来を察した。
「……気をつけろよ」
真剣な表情のユーリに「ユーリ君こそ」とヒョウが頷いて三人が足早に部屋を後にした。部屋に残されたのは、クレアとサイラスと、混乱したまま固まってしまった空気だ。
そんな空気を少しでも動かそうと、サイラスが「前代未聞だな」と大きく溜息をついた。困惑と焦燥を少しでも紛らわそうとしているのだろう、眼鏡を外してその眉間を強く揉んでいる。
「閣下、いかがなさいますか?」
クレアも不安なのだろう。いつもの笑顔とは違うその強張った表情には、未知への恐怖と焦燥が見て取れる。
「出来る限りの情報を集めよう……その後、明日の昼過ぎにでも全員に招集をかけてくれ」
眼鏡をかけ直し、椅子から立ち上がったサイラスが「もちろんユーリくんにも」とクレアを振り返った。
「かしこまりました」
頷くクレアを残し、サイラスも自身の執務室へと足を速めた。クレア頼みではなく、出来る限りの情報を集めるために――
「そうして、明け方から先程まで一端休息をとっていたわけだ」
サイラスの話に、エレナはなるほど道理で眠たそうだったのか。とようやく合点がいったが、何故ユーリが来ていないのかは理解できなかった。エレナ以外の皆も理解が及んでいないようで、今も周囲では色々な憶測が囁かれている。
やれ、リリアにショッキングな映像を見せたから怒った、だとか。
やれ、今も情報を集めに奔走している、だとか。
やれ、リリアの側にで安心させている、だとか。
やれ、ヒョウと一緒にウィーンへ行った、だとか。
とにかく様々な憶測が飛び交っているが、そのどれもが全く的を射ていない事くらい、言っている本人達ですら気づいているだろう。それでも全員考えが及ぶ程度の事に理由をつけたいのだ。
サイラスが、ユーリが来ていない事と、全員を呼んだ事は無関係ではないと言っていたから。
ユーリが来ていない事が、大した事のない理由なら、ここに呼ばれた理由も……そう思いたくなるのは人の性なのだろう。
だが、渋い顔をするサイラスを見るに、どうやら事はエレナ達が想像している最悪に近いのかもしれない。聞きたくはない……だが、聞かねばならない。そんな思いでエレナは僅かに震える唇を懸命に開いた。
「……違うのですね」
今、皆が囁いている理由のどれもが、ユーリがこの場にいない理由ではないのですね。そう聞くエレナに、サイラスは黙って頷いた。
「ならば、ユーリはどこに?」
前のめりになるエレナの言葉に、部屋中が静まり返る……全員がサイラスの言葉を待つ。
「待っているのだよ……敵が来るのを」
それは小さな、小さな呟きだった。だがその呟きが持っていた破壊力は、全員の心臓を貫かんが如き鋭さをもっていた。その言葉に狼狽する者がなかったのは、修羅場を潜ってきた数のおかげだろうか。
それでも全員の固まった表情を見るに、最悪の事態だという事だけは嫌でも理解したのだろう。だが、続くサイラスの言葉で、今自分たちが想像した最悪など可愛いものだったと、全員が思い知らされる事となった。
「ウィーンを襲撃したモンスターの中に、数人の人を見たという情報がある……つまり、モンスターを先導した人物がいる、という訳だ」
この言葉には、流石の彼らでもザワつくことを抑えられなかったようだ。なんせ人がモンスターを導いて都市を滅ぼしたのだ。確かに以前クーロンの騒動で、同じ様にモンスターの群れと戦い、エリーの介入があった。だが当時のエリーはモンスターを先導などしていなかった。
人類でありながらモンスターに肩入れするような連中……。もちろん【八咫烏】は単純にモンスターを利用しているだけだが、利用しようが協力しようが、彼らの理解が及ぶことなど到底ないだろう。
敵が来る。しかもモンスターを引き連れて……にわかに信じられない情報に
「そ、それは……確かなのですか?」
声を上擦らせるのはエミリアだ。ユーリがいない。彼は今もどこかで敵が来るのをすでに待っているという。そんな馬鹿な……あの男が……。とでも言いたげなエミリアの視線に、「十中八九」とサイラスが残念そうな顔で頷いた。
「昨夜ヒョウくんは、ユーリくんに『お前も気をつけろ』そう言っていた」
「つまり、ユーリの所にも何かしらの攻撃がある、そう言っていたわけですね?」
言葉を引き継いだエレナに、サイラスが頷くだけで応えた。
「でもそれだけじゃーナルカミが街に残ってるって証明できなくねーか?」
眉を寄せるリンファの声に、周囲から「確かに」と小さな賛同が上がる。実際ヒョウが「お前も気をつけろ」と言っただけで、ヒョウとユーリが別行動をしているだろうという憶測に過ぎないのだ。
「いいえ。間違いなくユーリさんはこの街にいます。恐らく東のどこかに――」
そう言い切るクレアに、全員が怪訝な表情を返した。
「ウィーンでは、ここ数日『ダンジョンからモンスターの大群が現れる』という旨の噂が流れていた……それこそ、小さな子供に『言うことを聞かない子は、ダンジョンからモンスターが来て連れ去るぞ』と躾に使われるほどに」
真剣な表情でウィーンの子育て事情を話すサイラスだが、その場にいるクレア以外の面子は良く分かっていない。
「順を追って説明しましょう――」
そう切り出したクレアが、恐怖とモンスターの存在についての考察を語り始めた。もちろんリリアの事はまだ伏せたままだが。恐怖が何かを作り出す、その過程通りならダンジョンへの恐怖がダンジョンを作り出す。つまりウィーンの住民は人柱である。
そしてダンジョンを語るうえで、最東端であるここイスタンブールは外せない。
半信半疑のメンバーであるが、仮に本当だとしたらこの街が戦場になる可能性は極めて高い。そしてユーリがこの場に現れないということは、既に問答の時間はないほど切羽詰まっているという事だろう。
その事実に全員が気がついた時、誰ともなく一斉に空席へと視線を向けた。
いつも煩いだけで会議の進行を邪魔する男に、今すぐにでも「寝坊した」と言って部屋へ転がり込んできて欲しい。そう全員が思っていた。
「時間は恐らくあまりありません。ですが、想定しうる敵の規模と、こちらの対応策を纏めておきました――」
☆☆☆
呼び出された仲間たちが、クレアやサイラスと今後の方針を話し合っている頃、ユーリはと言うと――
「近くで見るとデケェんだな」
――壁の丈夫に設けられた鉄柵の間に、腰を下ろしていた。遠目に見るとただの隙間にしか見えない鉄柵だが、近くで見ると、柵の一本一本は大人でも抱えきれない程の太さなのだ。
そんな鉄柵の間に座ったユーリが、荒野側に足をブラブラとさせながら今もデバイスを操作してヒョウから送られてきた情報に目を通している。
サイラス達に呼び出されたのだが、正直ユーリからしたら今更バタバタしてももう遅いと言いたい所だ。もちろん情報を精査することで、安心感や一体感というものは生まれるだろう。だが、結局来るモノを叩き潰す以外にやることはない。
「この壁を一太刀か……」
呟いたユーリが、自身が座っている壁を振り返った。厚さもかなりある壁を叩き斬る腕と力は、ヒョウに匹敵する強さだろう。間違いなくユーリとヒョウが追い続けた【八咫烏】の仕業だ。
「ようやくだ……」
ようやく手の届く場所まで奴らが来た……獰猛な笑みを見せるユーリの目の前で、東の荒野に暗雲が立ち込めていく。
まだ夕方に差し掛かっただろう時間だというのに、ユーリの目の前で荒野はどんどん暗くなっていく。まるで陽が暮れていくように。
そして今、荒野はついに…ゆっくりと……陽の加護から見放されていく――薄暗い荒野に一陣の風が吹いた。
粟立つ肌に
鼻を刺す臭いに
鼓膜を叩く息遣いに
全身が感じる気配に、「来た……」ユーリが呟いた。
「早いだろうと思ってたが、昨日の今日かよ……」
ユーリの口角が僅かに上る。
「やるじゃねぇか【八咫烏】。いや【八咫烏】を名乗るんなら、そんくらいしてもらわねぇとな!」
獰猛な笑みを浮かべたユーリが、デバイスを素早く操作した。
コール音が響くこと数回――
『リモートでの出席は許可していないが?』
――ホログラムの向こうから聞こえるのは、努めて冷静にしようとするサイラスの軽口だ。なるほど、指揮官らしい胆力だ。とそれにユーリが口角を上たまま口をひらく。
「ジジイ。来たぞ」
それだけ言うとユーリは通信を一方的に切った。視線の先には薄暗い荒野の先から、何かが向かってきている気配――その更に奥から、大きく速い何かが近づいてくる。
「なんだ……?」
目を凝らしたユーリの瞳が捉えたのは――
「へ、び?」
――巨大なヘビのような長い身体を持った――
「違う……まさか、龍か!」
――その全容をユーリが捉えた頃、荒野を覆っていた暗雲はイスタンブールをも包み込んでいた。逆から変わる天気。間違いなく自然現象じゃないなそれを起こした龍が、その鎌首をもたげる。
空が瞬いた。
ユーリが龍の頭上に数人の影を見た瞬間、巨大な雷がイスタンブールの壁めがけて降り注いだ。
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