第187話 開幕前だけど、フライングしてもいいよね。
壁を大きく揺らした雷に、イスタンブールの街がにわかに騒がしくなった。いつの間にか夜に落とされたように薄暗い街で、通りを行く人は頭を抱えて蹲り悲鳴を上げている。
地を揺らす音と暗さに異常を感じたのだろう。建物からもバラバラと人が慌てた様子で飛び出してきては、そこかしこで何だ何だと声を上げて辺りをキョロキョロと見回し続けていた。
そんな人々を嘲笑うかのように、再び壁に向かって雷が降り注いだ。壁を揺らし、街全体に反響する天の怒りに、通りや家々から金切り声のような悲鳴が響いた。
悲鳴に泣き声。驚きに困惑。一瞬で夜に叩き落された迷子の市民たちは、ただただ飲み込めない状況に、それぞれの感情をぶつける事しか出来ない。
「おい、逃げたほうがいいんじゃないか?」
誰かが叫んだ言葉に、蹲っていた人々が顔を上げる。雷の合間の僅かな静寂……その隙間に潜り込んだ悪魔の囁きに、壁の上でそれを聞いたユーリは思わず振り返って顔を顰めた。
視界に映るのは、薄暗い通りで周囲をキョロキョロと伺う市民達。完全にパニックの一歩手前……この街の、壁に囲まれた鳥籠のどこに、逃げる先があると言うのか。これ以上事態が悪くなれば、街はモンスターの侵入を許す前に地獄と化すだろう。我先にと逃げる人波が、脱落した者を踏み潰して行く地獄へ。
口走った人物の馬鹿さ加減に腹が立つが、。もしそうだとしたら、既に街中に裏切り者が入り込んでいる可能性を考えねばならない。
単なる馬鹿の軽率な発言であってくれ……と願いながら、ユーリは混乱する街から視線を龍へと戻した。
「出し惜しみしてる状況じゃねぇな」
ユーリは右手で手首を掴んだ左掌を、龍へと真っ直ぐに向ける。
壁を破られればウィーンの二の舞いだ。そうでなくとも、壁の中は既に弾ける寸前のポップコーンのように危うい状態である。
もちろんこの後に控える大群も、そしていつの間にか龍の上から消え去った人影も相手にしなければならない。だが、壁を破られる、内部が混乱の坩堝に陥るというのは最悪の事態を招く。
だから……開幕前だが、龍にはここでご退場願うことに決めたのだ。
天に座す龍に照準を合わせ、ユーリが全力で左手に魔力を集中させる。
ユーリの左手の中に集まってくる紫黒色の魔力。耳鳴りのような音が、吹き荒れる風を切り裂いて周囲に響き、掌の中で荒れ狂う暴風のように絡み合う魔力が少しずつ大きくなっていく。
左手首を掴んでいるユーリの右手に脂汗と血管が浮かび上がるが、ユーリは顔を引き締め更に魔力を練り上げて――ついに掌から溢れる程の大きさになった頃、ゆっくりと雨が降り始めた。
雨脚が強まり、再び空が瞬いた瞬間――
「調子に乗んなよ」
――ユーリの手から荒れ狂う暴力が解き放たれた。
ユーリから龍を結ぶ一直線。その間の雨を
巨大な龍が、その熱と威力に身を捩り苦しそうな咆哮を上げる。
空を、大地を、全てを揺らす咆哮に、ユーリの背後でイスタンブールの街中が悲鳴を上げた。その悲鳴に、街中の混乱を予感したユーリだが、意外にも悲鳴の後の街は静かだ。
チラリと後ろを見やれば、誰も彼もが動くことすら出来ず、ただただグレーチングから落ちる雨粒と暗闇から逃れるように、頭を抱えて蹲っていた。
あるものは腰を抜かし。
あるものはブルブルと震え。
中には気を失っているものもいるようだ。
龍の上げた咆哮は、どうやら怪我の功名らしく市民はパニックを起こすことすら許されない状況に叩き落としていた。
手放しに喜んで言いことではないが、一先ず後顧の憂いが無くなったユーリは、威圧を伴う咆哮を前に口角を上げた。
「ご褒美だ――」
軽口を叩きながらも、ユーリは魔法へとさらに力を込めた。どうやら龍は思った以上に硬いようで、まだ貫通させられていないからだ。限界まで魔力を練った以上、ここで、この一撃でこいつを落とさねば何の意味もない。
魔力と気力を振り絞ったユーリが、「しつけぇ男は、嫌われんぞ!」そう叫んだ瞬間、ようやく龍の腹を光線が貫いた。
赤く爛れる龍の腹。それでも背中を貫通することは出来ない。龍の腹に吸い込まれるた光線が止まるが、ユーリはそれを気にしない。
「中は柔らかいだろ?」
龍を貫いた光線を、ユーリが無理やり上に曲げる――ちょうど龍の腹に入ったあたりで……上向いた光線が龍の内部を焼きつくして突き進み
「爆ぜとけ!」
ユーリが左拳を握りしめれば、目や口から大量の血を吹き出した龍が地面へ向けて落ちていく。
――ズゥン
という地響きが再び街を揺らし、何も知らない住民たちが再び悲鳴を上げる。
そんな悲鳴を背に感じながら、
門を警備する衛士隊の詰め所だ。
ユーリがリンファと詰めていたのは西側だが、東も同じ作りなので壁の一部に外を見るための窓……と言うなの四角い穴がある。そこへ向けてユーリは壁を伝うように落下していく。
ガンガンと頭を襲う鈍い痛みを我慢するユーリの視界に、窓外を除いていた衛士二人の頭が飛び込んできた。二人の衛士の間、その窓枠に手をかけたユーリが、「邪魔するぞ」と滑り込む形で部屋へと転がり込んだ。
「な、なんだ貴様――」
驚いた衛士二人が、慌てて魔導銃を構えるが、その隣で別の衛士が「待て」とそれを制した。
「貴様は確か、ユーリ・ナルカミ……?」
「おお。覚えてたか。短い間だけど同僚だったからな」
頭を抑えながらもニヤリと笑ったユーリが、仮眠用のベッドに腰掛けた。正直既に限界近い頭痛を覚えているが、必要な伝言を頼まねばならない、と気力を振り絞る。
「モンスターが来る……しかもバカみてぇな数だ」
ユーリの言葉に、魔導銃を持ったままの男二人は「何を根拠に」と声を上擦らせるが、二人を止めた男だけは真面目な表情でユーリの話しを聞いている。
「あの巨大モンスターはお前が?」
外に横たわっている龍を顎でシャクる男に、「ギリギリだったけどな」とユーリが苦笑いを返した。
「そうか……」
それだけ呟いた男が、窓の外、まだ見えぬモンスターの大群を睨みつけた。
「我々は何をすればいい?」
「分隊長! この男の言うことを信じるんですか?」
魔導銃を抱えたままの一人が声を上擦らせるが、分隊長は「異常事態なのは確かだろ」と横たわる龍を指さした。渋々と言った感じの男二人だが、認められないというより、認めたくないといった雰囲気だ。
ここが今から戦場になるなど、と。
それでも敵は来る。待ってはくれない。だからユーリは揺れる視界を抑えるように、眉根を思い切り寄せて僅かに顔を上げた。必要事項だけは伝えてから横にならねば。
「とりあえず、ハンター、衛士、軍人、それにモグリも。能力者という能力者を集結させて、全員で押し返すしかないだろ」
フラフラとするユーリに、「各方面に連絡を入れればいいんだな」と分隊長が大きく頷いた。
「ああ。後は市民を安心させる方法も、だ……逃げる場所はねぇが、一塊にして上にでも突っ込んどきゃ暫くは大人しいだろ」
頭痛に顔を歪めるユーリに、「我々の分野だな」と分隊長が頷いて部下二人へと視線を向け――三人の視線が交わると、誰ともなく頷きあった。
そこからは実に早かった。分隊長の指示により、隊員の一人が非番衛士隊員への直接連絡へ走り、もう一人は分隊長はその左手につけたデバイスで衛士隊の新しい隊長へと状況の報告をしている。
ガンガンと頭の中から鈍器で殴られるような感覚を感じながらも、ユーリは状況を見届けるために、意識を手放すのを我慢している。霞む目の前では、分隊長が「とにかく全隊の招集と、マフィア連中への連絡を――」と強めの口調でお願いしている所だ。
どうも新しい衛士隊隊長は優柔不断らしい。
それでも分隊長に押し負けるように、衛士達の招集をかけてくれるようだ。恐らく上の方でも、龍の存在は確認しているだろうから、【軍】は放っといても大丈夫だろう。主力が抜けて心もとないが、いないよりはマシだ。
サイラスには先ほど連絡した。恐らくサイラス経由でハンター協会への連絡は済んでいるだろう。動かすのが難しいだろう、と思っていた衛士とマフィア連中に、このタイミングで声を掛けられた事は大きい。
間違いなくこの分隊長が、柔軟に判断してくれたおかげだ。
「悪いな」
「気にするな。誰かに殴られて色々気付かされたからな。その借りを返しただけだ」
ニヤリと笑った口元と言葉に、つくづく人の縁とは不思議なものだ、とユーリが微笑んだ。
「なら今度は俺が借りる番だな……暫く寝かせてもらうぞ」
既に我慢の限界を向かえていたユーリがべッドの上で横になった。
「好きにしろ。モンスターが来たら叩き起こしてやる」
窓の外を睨んでいる分隊長の姿を最後に、ユーリの意識は一度闇へと落ちた。
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