第145話 退けぬ一線、それが道理
殆ど人もおらず、職員が忙しく行き交うハンター協会は、既に業務も終了間際なのだろう。そんな職員たちを廊下の端でやり過ごし、サイラスが奥へと進んでいく……見覚えのあるそのルートは、ユーリが初めてきた時に通されたルートだ。
「……こんな所に通路なんてあったか?」
クロエが眉を寄せるのも無理はない。普段は光学迷彩と認識阻害の魔法で隠されている通路は、今だけクロエを迎え入れるかのように、その顔を覗かせているのだから。
クロエの疑問に誰も答えず、サイラスに続いて薄暗い通路を進んでいく。切れかけた魔導灯がチカチカと明滅する廊下を進むクロエが、周囲をキョロキョロと伺いながら口を開いた。
「一体……どこへ行こうと……」
「つけば分かるさ」
クロエの独り言に、サイラスが振り返らずに笑ってみせた。
「そ、そうか……」
サイラスの返答に渋々頷くクロエだが、ユーリは先程一瞬だけクロエの肩が跳ねたのを見逃さなかった。自然とユーリの口角が上がる……コイツちょっとビビってるな、と。それを知ってしまえば、やるしかない。
クロエの後ろを歩くユーリがタイミングを見計らう。足音を少しずつ消し、気配も少しずつ薄れさせていく――ユーリの真後ろにいたクレアだけが、ユーリが急にコソコソとしだした事に気がついたが、何をしようとしているかまでは理解が及んでいないようだ。
一瞬だけ廊下の明かりが消えた――瞬間
「わ!!」
ユーリの声が廊下に響き、それとほぼ同時に
「――ヒィー!」
「何事だ?!」
とクロエの悲鳴とサイラスの警戒した声が木霊した。
一瞬流れる沈黙、そしてクツクツと声を押し殺して笑うユーリの声……
「ユーリ君……一体何をしている?」
蟀谷に青筋を立てるサイラスを、「別にいいだろ」とユーリが鼻で笑い、気にするなとばかりに手を振った。
「ちょっと雰囲気が重たかったからな」
笑顔のユーリの視界の端で、屈み込んでいたクロエがゆらりと立ち上がった。
「……ナルカミ……」
クロエの冷たい呟きが通路に小さく響く。
「歯を食いしばれ!」
――スパーン
と小気味いい平手打ちの音が通路に反響した。
「……何も殴るこたぁねぇだろ……」
頬を抑えてむくれるユーリに、「うるさい。素っ首叩き斬られなかっただけ有り難いと思え」とクロエが眉を吊り上げて振り返った。
口を尖らせるユーリだが、平手自体は避けようと思えば避けられた。それを敢えて受けたのは、クロエが見せた思った以上の反応に、自分でもやりすぎたなと思っていたからだ。
怒られるだろうとは思っていたが、まさか平手打ちが飛んでくるとは……だが、流石に怒らせた以上、その怒りは甘んじて受けねばならない。
それを承知で脅かしたのだから。
ユーリのせいで張り詰めていた空気が緩みに緩みまくった頃、四人はあの日ユーリを招き入れた扉の前に辿り着いた。
「ヴァンタール卿、お見せしよう……これが私の秘密だ――」
意味深な笑顔を浮かべたサイラスが扉を押し開いた。
急に入り込んできた明かりにクロエが目を細め、そしてなれてきた瞳に映し出した光景に、「ここは……?」と困惑した声を漏らしている。
サイラスの秘密基地、オペレートルームであるが、今の時間は誰もいない。ただただ動力が切れたコンソールやモニターが並ぶ不思議な空間だ。そんないつもの空間だが、ユーリは微妙な違和感を覚えている。
全ての動力が切られているので、機器が暗い事だろうか……いやもっと何か大きな違いがあった気がするのだが、何せここ最近はクロエを伴っていたためここには訪れていないので、記憶が朧気だ。
配置が微妙に変わっているのもまた、ユーリの記憶にフィルターをかける一役を買っているのかもしれない。
妙な違和感に小首を傾げるユーリの隣で、
「グレイ卿、これの何が秘密なのだ?」
眉を寄せるクロエにサイラスが「まあ待ちたまえ」と
「これは……?」
首を傾げるクロエがサテライトとサイラスを何度か見比べる。
「これはサテライトと言って――」
そう切り出したサイラスの説明に、クロエが暫し考えこんでから顔を上げた。
「……素晴らしい発明だな……本当に使えるのであれば……だが」
サテライトを返したクロエが更に続ける。
「本当にこれを実現したいなら、なぜ上に話を通さない?」
眉を寄せるクロエに、サイラスは肩を竦めてクレアからタブレットを受け取った。
「これを見たまえ」
手渡されたタブレットにクロエが視線を落として暫く……「馬鹿な」と呟く声が小さくオペレーティングルームに響いて消えた。
「これだけ仔細なレポートがあるならば――」
「それを却下された……と言えば分かるだろう?」
サイラスの言葉にクロエが目を見開いて再びレポートに視線を落とした。タブレットをスクロールするクロエの指がいったりきたり……画面の上を忙しなく動くクロエの視線は、恐らく却下された理由を探しているのだろう。
「こんな物を却下するだと……」
タブレットを握るクロエの手は震えている。画面から上がってきた瞳に映るのは、明らかな困惑だ。
なぜ却下したのか。
クロエの瞳にありありと浮かぶ疑惑……それを一蹴するようにサイラスが眼鏡を上げて口を開いた。
「卿も薄々感じているのではないか?」
眼鏡の奥、サイラスの瞳が真っ直ぐにクロエを捉える。
「【人文】がそして【軍】が徒に人命を散らしている……と」
その言葉にクロエは堪らずサイラスから視線を逸し、「そんなこと……」と小さく反論の言葉を呟いた。
「卿がどう思おうが自由だが、私はそう確信している……だから――」
サイラスの言葉に合わせるように、周囲の機器が一気に動き出した。供給された動力を得たモニターが点灯し、誰も座っていないコンソールもスタンバイ状態でオペレーターが来るのを今か今かと待っているかのようだ。
「だから、私はこのシステムを完成させた」
その言葉にクロエが周囲を見渡し、「実現していたのか」と驚きの声を漏らしている。
「実現させるさ。なんせ、そのレポートは一〇年も前に出したものだからね」
そう言いながらサイラスが「魔力を流してみたまえ」とクロエに再びサテライトを手渡した。クロエがおずおずと魔力を通すと――宙に浮いたサテライトがクルクルと回りだした。
それと同時にクレアが一つのコンソールを操作しだす……どうやら宙を浮くサテライトは現在クレアが操作しているようだ。クルクル回っていたサテライトが止まり、クレアの「前面モニターを――」との言葉にクロエの視線が自然と壁に掛けられた巨大モニターへ。
「……映ってる……私が――」
呟いたクロエの言う通り、俯瞰した映像とその横にはクロエの状態を示すデータが表示されている。少し高い心拍数は、どうやら少し興奮状態にあるのだろう。他にも魔力の残量を表すメーターや、体調を示す緑色の人型など、普段はオペレーターが見ているだろう画面にクロエは釘付けだ。
「これが私の秘密だ。一〇年かけて……漸く完成にこぎつけたオペレーティングシステム……君のよく知る人物の助けもあってね」
サイラスが懐かしむような顔で、「レポート最後の共同著者を見たまえ」と言った言葉に、クロエがタブレットを最後までスクロールして……固まった。
「ら、ラジェフ隊長……」
タブレットを持つクロエの手が、肩が震える中、サイラスは黙ったまま頷いた。
「アレクサンドル・ラジェフ……私の友人にして、君が初めて配属された部隊の隊長」
サイラスが呟いた言葉に、ユーリはそう繋がるのか、と漸く合点がいった。エレナが【軍】を抜けたことは薄々勘づいているが、なぜサイラスを頼ったのかが分からなかったのだ。クロエの「なぜここにいる」という言葉を借りれば、エレナが【軍】として配属されていたのはイスタンブールではない事だけは明白だ。そんなエレナがサイラスを頼った理由……それは偏にサイラスとその隊長の繋がりからなのだろう。
その点についての納得は出来たユーリだが、納得できていない事が一つだけある。
震える心を抑えるように、俯き下唇を噛みしめるクロエの姿を見て、ユーリは溜息をついた。気づけば折角通路で緩めた空気も、今や最初の時以上に重苦しく部屋全体を包みこんでいる。
やはりこの考えだけはどうしても解せない……いやもっと端的に言うと気に食わない。
サイラスは言っていた【人文】が【軍】が徒に人命を散らしている、と。つまり相手の目的は何か分かっていないが、人々の命を捧げる事が、敵の手段であると勘づいている。
勘づいていて、このカードを切る……という事は、相手の出方を伺うつもりなのだろう。クロエが報告すれば相手の出方次第で、その手段が合っているかどうかの確認が出来る。なんせ、このシステムは相手の手段を真っ向から潰すようなものだ。
少し危ない橋だが、サイラスがカードを切るという事は、それ相応の準備が終わったという事、つまり自身に影響が無い、若しくは少ないと判断しての事だとユーリは確信している。
短い付き合いだが、サイラス・グレイはそういう男だとユーリは知っている。
そう、初めはそう思っていた。このカードを切る事で、クロエをメッセンジャーに相手の出方を伺うつもりだ、と。
だが今は違う。先程敢えて、クロエが気づいていなかった彼女の元隊長の名前をわざわざ出した。意味のないことをしない男。それがサイラス・グレイだ。その時の違和感は、今はある種確信となって、ユーリの脳内を駆け巡っている。
……気持ちは分からなくはない。だが、やり方が気に食わない。
顔を強張らせ、身体を震わせるクロエはユーリが知っている彼女とは全く真逆で弱々しく今にも消えてしまいそうだ……。剣を握り、戦いに出るなら男も女も関係ない。だが、今は……そう頭に過ったユーリが思わず口を開いた。
「ジジイ……テメェは……」
呆れたような、それでいて怒気をはらむユーリの声に、困惑、無表情を向けるクロエとクレア。そして……
「何かね?」
尊大な態度で鼻を鳴らすサイラス。
「
眉を寄せるユーリに、「綺麗事だけではやっていけまい?」とサイラスはユーリの言葉の裏を確信しているかのように溜息を返した。
「だとしてもだ。こんな……」
言葉を切ったユーリが、未だ困惑するクロエを見て大きく息を吐いた。
「こんなやり方……迷子の女を作って二重スパイやらせるなんて、俺の道理に反するぜ」
そう言いながらサイラスとの間に立つユーリに、「え? どういう……」とクロエが漏らした困惑した声が、静かなオペレーティングルームに響いて消えた。
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