第135話 今を楽しめ
店内を包み込むリリアの歌声に、客たちは勿論、入ってきたばかりの軍人たちも、誰もが圧倒されている。
「つくづくスゲェ歌声だよな」
「ホンマ……何なんやろね」
カウンターに座る二人も、リリアを眺めながらグラスを傾ける事すら出来ぬ程だ。
そんな圧倒的とも言える歌声が終わり、スタンディングオベーションに迎えられながらリリアが舞台から客席へと戻ってきた。周囲からの称賛が未だ慣れぬリリアは、頬を赤らめて恥ずかしそうにお辞儀をするだけだ。
それでも小さな店内を包む拍手は暫く途切れない。
漸く拍手が途切れ、皆が思い思いの感想を口に食事を口に運んだり、店を後にする中……
「どうだったかしら?」
後ろ手を組んだリリアは、ユーリ達の前でモジモジと恥ずかしそうだ。そんなリリアに「どうって……」とユーリは眉を寄せ、その隣でヒョウはゴクリと生唾を飲み込んだ。
ヒョウは分かっている。何故リリアが恥ずかしそうなのか……それは
ヒョウの脳内でシナプスが高速で情報を交換する……恐らく顔見知りの居ない時の二人はこんな感じなのだろう……
――どうだった?
――バッチリだ。
――エヘヘへ。
……ヒョウの妄想の中では、何故かユーリがリリアの頭を撫でているが……そんな事はないくらいで、大体普段のやりとりはヒョウの想像通りなのは間違いない。
そのリリアが、モジモジと恥ずかしそうなのは、ヒョウの目を気にしての事だろう。いつものようにユーリの称賛を聴きたいのだろうが、二人のやり取りを知り合いに見られるのは恥ずかしい。
そんな思いがリリアをモジモジとさせているのだ、とヒョウは予想している。
そして、ヒョウが生唾を飲み込むほど気がかりなのは、隣の朴念仁の反応だ。
リリアでさえ恥ずかしがってこの態度だ。朴念仁ユーリであれば、ヒョウがいる手前、格好つけて「聞いてなかった」とか何とか馬鹿みたいな事を口走る可能性が高い。
もしそうなれば、ヒョウは二人の痴話喧嘩に巻き込まれる事になる。ユーリの事は好きだし代え難い友人である……が、そんな奴だろうが痴話喧嘩に巻き込まれたいか、と言われれば間違いなくノーだ。
リリアが「どうだった?」と聞き、ユーリが「どうって……」と眉を寄せた瞬間にヒョウの頭脳が高速回転し、危機を感知して生唾を飲み込むまで……その間僅かコンマ〇二秒……。
来るべき痴話喧嘩にヒョウが構える中……
「どうって……いつも通りバッチリだ。お前の歌は世界一だよ」
……眉を寄せたままのユーリが、まさかの讃辞を紡いだ。不意に決まったカウンターパンチに、ユーリを見たヒョウが「
やるやん……ユーリを見るヒョウの感想だ。意外や意外。女心など分かっていないと思っていたが、中々どうして決める所は決める男ではないか。とヒョウは何故か自分のことのように嬉しくなっている。
それは恐らくリリアもそうなのだろう。まさか友人の前でストレートに褒められるとは思っていなかったのか……相変わらずモジモジと恥ずかしそうだ。
「あ、ありがと……」
なんとか声を絞り出し、ポツリと呟いたリリアだが、その様子に再びユーリが眉を寄せた。
「歌は良いけどよ……お前、何か変なモン食っただろ。さっきからモジモジして……」
やっぱ馬鹿やん……眉を寄せ続けるユーリを見るヒョウの感想だ。なぜ先程までは上手く行っていたのに、ここに来て卓袱台をひっくり返すのか……真正の馬鹿である。いやそもそもが間違っていた。ユーリに恥ずかしさや人の目を気にする等の、普通の神経を求めたのが間違いなのだ。
顔を引きつらせるヒョウの横で、「は?」とリリアが纏っていた雰囲気が、一瞬にして凍りついた。
「食べてないわよ……ユーリと一緒にしないでくれる?」
一瞬で真顔になったリリアと冷える周囲の温度に、ヒョウは「ほら見てみ……」と予測していた事態へと帰結した事に肩を落とした。
「バカか。俺はこう見えてグルメだ。変なもんなんて食わねぇわ」
「何がグルメよ! ちょっと前に変な飴買ってたじゃない!」
「あ、あれは……ほら、アレだ。冒険心というものがだな……」
「なーにが冒険心よ。大体出かける時はいっつも――」
両手を腰に頬を膨らませるリリアの声を、ユーリが手を挙げて制した。リリアの「何よ?」とでも言いたげな視線がユーリに刺さるが、ユーリはリリアから視線を外して、その肩越しに後ろを見ている。
「……あれ、多分お前の客だぞ?」
ユーリの言葉と視線にリリアが振り返れば、そこにはこちらを見ている軍人達の姿があった。
「……あたし?」
自身を指差しながら、再びユーリを見るリリアだが「俺じゃねぇ事だけは確かだな」とユーリがカウンターに肘を、膝に足を乗せ、挑発する気満々の嘲笑を浮かべて軍人たちを眺めている。
そんなユーリの横柄な態度に、軍人たちが囲むテーブルが俄かにザワつくが、それだけでこちらに向かって来る事はない。
「ラストオーダーが終わってから入ってきたのに、卓についてるんだ……。何かあるんだろ?」
相変わらず挑発するような顔だが、軍人たちの反応が薄い事から、ユーリの表情は先程よりは幾らか穏やかだ。
ユーリの指摘に、確かにと頷いたリリアがユーリ達に背を向けて軍人たちが囲むテーブルへ――
「何の用やろね」
リリアに向けて敬礼する軍人を眺めるヒョウが、膝に乗せた足の上で頬杖をついた。
「さあな……」
そう言いながらユーリはカウンターにあったグラスを掴んで、視線だけリリアに固定したまま中身を呷った。
暫く軍人たちと言葉を交わしていたリリアが、少し困ったような顔で周囲を見回した。彷徨う視線は誰かを探しているように……ユーリやヒョウを通り過ぎて止まった。
そんな視線が気になる二人が、視線の方を振り返れば――丁度厨房からカウンターに顔をだしたリリアの父に行き当たった。
リリアの父親もその視線に気がついたのだろう。普段の無表情からは想像できない程困惑したような顔を浮かべ、リリアへ視線を返している。
その視線を辿って二人が再びリリアに視線を戻せば……頷いているリリアが映った。どうやら父親に来い、と言っているのだろう。その意図を汲んだ父親が、カウンターの脇を潜り抜けてリリア達のもとへ――そして始まる親子懇談。
暫くそのやりとりを見守るユーリとヒョウ。ユーリが再びグラスを傾け、残り少なくなった中身を飲み干した。
残りの一滴まで喉に流し込もうとするユーリを
「……なんや難航しとるな」
とヒョウが肘でつついた。
「親父同伴って事は、そんだけ難しい話題なんだろ」
空になったグラスを諦めたように、ユーリが溜息をつきながらカウンターに戻した。
「親に確認……結婚の申し出やな」
ニヤリと笑って「どうすんの?」とユーリを覗き込むヒョウに、ユーリが鼻を鳴らして口を開いた。
「本当にそうなら…どうもこうもねぇだろ。決めんのはアイツだ」
そう言いながらピーナッツを放り込んだユーリが、「まああんな青瓢箪が良いって言うとは思えねえがな」とケラケラ笑いながら、ヒョウにピーナッツ入りグラスを差し出す。
「……ユーリ君って、そういう所 意外よな」
ピーナッツを摘んだヒョウに「どういう所だよ?」とユーリが眉を寄せる。
「いやほら、僕らって影のある男やん? 秘密だらけの怪しい――」
そう言って肩を竦めるヒョウに、ユーリは「そりゃまあな」とピーナッツを口に放り込んだ。
「普通そういう男って『俺なんかより、アイツの方が――』って言うて一歩引くやん?」
ユーリが自分に寄せたピーナッツにヒョウが手を突っ込めば、ユーリが思い出したように、ヒョウへとピーナッツグラスを差し向ける。
「でもユーリ君って、そこで引かへんやん。そこが意外やなって……」
幾つかのピーナッツをを自分の手に広げたヒョウが、グラスをユーリへと押し返した。まるで「説明を求む」と言わんばかりの行為に、ユーリは一瞬だけ考えるように眉を寄せ、「大した事じゃねぇよ」と小さく笑った。
「自分の境遇に勝手に絶望して……それのせいにして逃げる程、ガキじゃねぇだけだ」
膝の上に乗せた足に頬杖をついて、ユーリがリリアを眺める。
「好きなら好き。嫌いなら嫌い。それでいいだろ? 仮に逆の立場なら、抱えてるだの何だのなんて知ったこっちゃねぇし、それこそ今まで生きてきてんだ。誰しも大なり小なり何か抱えてる……ならお互い様だろ」
ピーナッツを弾いて口に放り込んだユーリに、「行儀悪いで」とヒョウが溜息をもらす。
「お互い様……かも知らんけど、ホンでも場合によっては残酷な別れが来るやん」
手のひらから一つずつピーナッツを摘まむヒョウに
「そりゃいつかは死ぬだろ。別れのない出会いはねぇよ」
とユーリが大きく溜息をついて、もう一度話し込むリリア達へと視線を向けた。困り顔のリリアの隣で彼女の父は腕を組んで考え込んでいるようだ。
「仮に明日死ぬとしても、俺は俺の気持ちに嘘はつかねぇ。例え別れが待っていると分かってても……」
言葉を切ったユーリに、顔を上げたヒョウが「分かってても?」と続きを促す。
「……そこまで歩いた道のりは、決して不幸なものじゃねぇだろ? 最期の時まで幸せいっぱい笑って歩けるなら……最高だろ?」
挑発するようなユーリの笑顔には、「お前も気にせず好きにしろ」と書いてあるようで、ヒョウはなぜか堪えきれず吹き出してしまった。
「ユーリ君、意外に詩人よな」
笑うヒョウに「うっせ」とユーリが頬を赤らめて顔を逸した。
「今しか考えてねぇだけだよ。今が楽しかったら、それでいいんだよ。俺は――」
笑うユーリに「そんなもんか……」とヒョウがリリアを眺めながら笑顔を浮かべ、「そんなもんだ」とユーリも同じ様に笑顔を返した。
「ま、だからと言って、選ぶのはアイツであって……」
とそこまで口走ったユーリが急に口を噤んだ。片手を口に当て、顔を赤らめる姿はつい今しがた口走っていた言葉が、とある意味を孕んでいる事に気がついたからだ。
「選ぶのはアイツであって……?」
ニマニマしたヒョウがユーリを覗き込む。
「うっせ、今のはアレだ……あの言葉の綾だ」
そんなヒョウを押しのけるユーリだが、その顔は中々に赤く、先程までとは打って変わって初心な少年のようだ。
ニマニマするヒョウと、その視線を避けるユーリがギャーギャーと騒ぐ……そんな二人の声に混じって――
「――リ、ユーリ!」
――ユーリを呼ぶリリアの声が聞こえてきた。
その声にユーリとヒョウが二人して顔を見合わせ、リリアの方へと視線を向ける。そこにはユーリを手招きするリリアと、腕を組んだままこちらを凝視している父親、そして少し不満そうな軍人たちの姿があった。
「彼女が……いや、婚約者が呼んでんで」
ケラケラと笑うヒョウに、ユーリは「おぼえとけよ」と舌打ちをこぼしながらリリアの下へ。
「ンだよ?」
ぶっきら棒な言葉とともにユーリは頭を掻いた。先程までヒョウに誂われていたせいか、どうもリリアを直視できない。
「えっとね。私の歌……軍の人が、東征の陣中見舞いに来てくれないかって」
嬉しそうにはにかむリリアに、ユーリはヒョウと二人で求婚に困ってるだ何だと、下世話な想像をしていた事を少しだけ申し訳なく思っている。
「そりゃすげぇな」
ユーリの言葉にリリアは「えへへへ」と嬉しそうに頬を掻いた。
「それで……荒野に出ないといけないじゃない?」
「そりゃまあ陣中見舞いだからな」
腕を組んで頷くユーリの肩を、リリアの父親が不意に叩いた。まるで激励のようなその行為に、ユーリが一瞬だけ小首を傾げるが、リリアの父親は何も言わずにカウンターの方へと歩いていく。
その背中を怪訝な表情で見つめるユーリに、「だから……」と再びリリアが声を掛けた。
「だから、私の護衛をユーリにお願いしたくて」
リリアの言葉に「へ?」とユーリが今日一番の間の抜けた声を返した事を、カウンターから見守っていたヒョウが知るのはもう少しだけ後だ。
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