第132話 まあ……チョー強いって言ってたしね

 向かい合うヒョウとユーリ……ただお互いを眺めている二人の間に流れるのは、今から立ち会うとは思えない程気楽な雰囲気だ。


「ルールはどないしよか?」

でいいだろ?」


 笑顔を見せるヒョウとユーリだが、それを見守るエレナ達はその毒気の抜かれるような雰囲気に困惑した表情を浮かべている。


 二人が友人同士、という事は知っている。だが今から真剣に勝負をしようというのに、まるで「昼飯どうする?」「いつもの店でいいんじゃね?」と言った、飯でも食べに行くノリなのだ。


 どれだけ仲が良くとも、これから拳や剣を交えるならば、どこかに緊張というものが生まれるのが普通である。それが微塵も感じられない……つまり二人にとって、これから始まる事はという事なのだろう。


「オーケーや。ほんなら……」


 いつもの貼り付けたそれとは違う、心の底から見せる笑顔のヒョウがゲートから一振りの太刀を引き抜いた。怪しく光るその刀の切っ先を床へ――そのままヒョウがくるりと一回転。


 切っ先と硬い床が擦れて、鈴がなるような音が周囲に響き渡った。


 高硬度かつ高度な防御魔法の組み込まれたアダマンタイトの床には、ヒョウを中心とに薄っすらとした綺麗な円が描かれている。


出たら僕の負け」


 太刀をゲートに戻しながら笑うヒョウ。


「出来なきゃ俺の負け」


 首を鳴らし、その場で数度跳躍をするユーリ。


 あまりにも不公平過ぎる条件に、エレナが「馬鹿な……」と驚嘆の声を漏らした。先程までユーリと切り結んでいたからこそ分かる、ヒョウが提示しているハンデがあまりにも大きすぎる事を。


 ユーリ相手にあんな小さな円から出ない?


 どう考えてもエレナでは無理だ。いや、エレナどころかサイラスでも、そして【軍】やハンター達の最高峰でさえ不可能だと思える。今のユーリは、少し前にゴブリンの集落を殲滅したユーリとは比べ物にならないくらい強いのだ。


 だと言うのに……


「つーか前より円が大きくなってねぇか?」

「そら、力を戻しつつあるんや。前のサイズには流石にキツイわ」


 と二人はさも普通、それどころか円が大きすぎるとユーリがクレームを入れる始末である。


「まあいい……そろそろ……返してやるぜ」

「やってみ? 強さが戻るまでに


 二人がその笑顔を獰猛な物に変えた瞬間、弛緩していた空気が一気に張り詰めた。


 確かに獰猛な笑顔だ……だが二人はただ笑顔を見せているだけのはずなのに、訓練場の空気はピンと張り詰めている。あまりにも張り詰めた空気に、事態を見守っているエレナ達は思わず息を吐く事すら躊躇われる程だ。


 ……呼吸の音すら煩い。


 そう思えるほどの緊張感に、二人以外は誰も言葉を発せないでいた。


 張り詰めた空気の中、誰かが「ゴクリ」と唾を飲み込んだ。その音が合図だったかのように、一気に空気が動き出す――


 空気が振動する音は、ユーリの

 いつの間にか駆けていたユーリが、その音と共にヒョウの目の前に現れた。

 初撃は左正拳。


 唸りを上げてヒョウの顔面へ迫る拳。


 それをヒョウは体を左に開いて右足を引き半身で躱す。

 半身になるヒョウの目の前を通過するユーリの拳。

 その手首をヒョウの右手が掴んで引っ張った。


 つんのめるユーリ。

 その体重の乗った右足をヒョウの左手が掬い上げる。


 ユーリの両足が地面を離れ、宙を舞う。


 円を描くように放り投げられるユーリ……が、掴まれた手首を捻ってヒョウの右手首を掴み返す。


 お互い手首を掴み合った状態。


 そのままユーリが身体を捻って、両足で着地。

 と同時にヒョウの腕を引っ張り返しながら右上段回し蹴り。


 蟀谷に迫るユーリの右足をヒョウがダッキング。

 空振ったユーリの右足を左手で押し込めば……


 ヒョウに背を向け、更に股の間から手を握るユーリの姿。


「あ、やっべ……」


 ユーリが声を漏らした瞬間、ヒョウがその腕を思い切り引っ張った。


 腕に引かれるユーリが、自分の股ぐらをくぐるように一回転。


 辛うじてブリッジの体勢で背中への直撃を避けたユーリ……その背中をヒョウの左足が蹴り上げた。


 蹴りの勢いでクルクルと回転して飛んだユーリが地面に着地。


「――っつー。やりやがったな、こんにゃろ!」


 両手で背中を擦るように痛がるユーリの姿は、今まで誰も見たことがない新鮮な姿だ。


「いやー。危ないわ。思ったより戻ってきてるやん」

「うっせ! だわ。嫌味言いやがって」


 ヘラヘラ笑うヒョウに、口を尖らせたユーリが「フー」と大きく息を吐き出した。


 顔を上げたユーリがヒョウを真っ直ぐに見据える――かと思えば、ゆっくりとヒョウの周りを歩き始めた。円を描くようにゆっくり。


 時折ユーリの身体が揺らめく。まるで風に揺れる柳のようなゆっくりとした、脱力した揺らぎ。ユーリの全身が揺らいだ……と思えば、その身体がブレて見える。かと思えばユーリが一歩前へ。まるで残像のようブレたユーリがその場に一瞬だけ残り、直ぐに消える。


 揺れる。進む。残像……その間隔が徐々に短くなっていく――


「あれ? ユーリさんが沢山見えるんですが?」


 目を擦るカノンの横で、アデルやフェン、ラルドも同じ様に目を擦っている。


「……緩急を最大限につけた歩き方……」


 そしてその様子を見守るエレナでさえ驚いている。エレナには勿論ユーリが緩急を大きくつけて動いているという事は分かるし、見えている。それでもこの様な動きが歩き方一つで出来るなど知らない。


 加えて無数のユーリが取り囲むヒョウは、眉一つ動かさず驚いた素振りもないのだ。……つまりヒョウからしたら見慣れた技術ということだ。


 歩法。


 様々な武道で歩法は基本と言われる。いわゆる足の使い方。極めればそれこそ縮地などの神業すら成し得る、基礎にして奥深い技能。それが歩法である。


 足さばき、運足法などとも呼ばれるそれは、ユーリやヒョウにとっても最も基本的な技術であり、ユーリは持てる歩法を活用し、緩急をつけた動きで残像をあたかも分身のように見せているのだ。



「へぇ、ちっとはマシになったやん」


 笑顔を浮かべるヒョウに『うっせ』とそれを取り囲んだ複数のユーリが声を上げた。反響する声のせいで、ユーリの分身全てがまるで実体のようだ。


 ヒョウを囲む複数のユーリ。それらは全く動きを見せない中、ヒョウとエレナだけが、真後ろに回ったユーリが加速したことに気がついた。


 ユーリが真後ろからヒョウに接近。

 本体ユーリが離脱した事で、順番に消えていく分身。

 が既にヒョウはユーリの射程圏内。


「見えてんで!」


 笑うヒョウが、カウンターとばかりに右後上段回し蹴り。



 その蹴りがユーリに当たる直前でユーリが失速。一瞬現れたユーリの鼻先をヒョウの踵が掠めた。

 そこに残像を残したユーリが、今度こそヒョウへ右拳を叩き込んだ。


 訓練場全体が揺れる程の衝撃に、全員がその目を細める。




「あっぶなー」


 衝撃波の発生源には、右の蹴り足を上げたままユーリの拳を掴むヒョウの姿。加速からの正拳突きと思わせて、そこでも緩急をつけた動きでヒョウを翻弄した。


 最初に見せていた分身すら仕込みだ。分身を餌に、高速で。全てはこの一撃、相手のカウンターを誘い、そこにカウンターを返すというユーリの作戦。


 だがそれすらも、ヒョウは凌いでみせた。この狭い円の中で。


 だが、そんな渾身の一撃を受けられたユーリは、


「にゃろ……」


 と、嬉しそうな笑顔を見せている。はるか高みにいる己の友人。自分が再び登っている山の大きさへの喜び、そしてその道が間違えていないことの喜び。


 そしてそんなユーリの前でヒョウも嬉しそうだ。友人が着実に、かつての勇姿を取り戻しつつある事への喜び。


 笑みを浮かべたままの二人の視線が交わった。


 今だ蹴り足が宙にあるヒョウの軸足へ向けて、ユーリの左下段回し蹴り。

 ヒョウが飛び上がって躱す。


 宙へ浮いたヒョウに、「!」と笑顔のユーリが回転そのまま右後回し蹴り。

 それを「酷いやん!」とユーリの蹴り足を抑え込むようにヒョウが側転。


 くるりと回転して再び円の中に着地したヒョウ。

 その目の前で同じ様に反転して向き直るユーリ。


 ユーリのジャブ二連発。

 そんな拳をヒョウが首を左右に回避。

 弾丸のようなジャブが「ボボッ」と空気を破裂させる。


 引き戻す右拳に合わせて繰り出されるユーリの左正拳。

 ヒョウが膝を抜きつつ腰を右にひねった。


 ヒョウの頭上を通過するユーリの左拳。

 それを尻目にヒョウは左正拳をユーリの土手っ腹に叩き込んだ。


 衝突の瞬間辛うじて後ろへ跳んだユーリに、「ヒュ~♪」とヒョウが口笛を鳴らした。


「ボコスカ殴りやがって!」

「隙だらけやもん」


 笑ったままの二人が再び中央で打つかる。


 衝撃波が幾度となくユーリを弾き飛ばし、そして何度も技術を凝らした攻防が繰り広げられる。


 間合いを詰めるユーリにヒョウのカウンター。

 右の正拳をユーリがサイドステップで躱して飛び上がる。


 クロエに見せたのと同じ、サイドステップから横の攻撃へとつなげる。


 ユーリの跳び右横蹴り。

 それを身体を反らしてやり過ごしたヒョウ。

 自身の前を通過するユーリの右足を掴んだヒョウがその場で回転。


「ちょ――」


 情けない声を上げてユーリが放り投げられた。


 吹き飛んだユーリの両手が地面を捉えて数度バク転。


 着地のエネルギーを足裏で溜め込む――「ドン」と大きな音を立ててユーリが再びヒョウへ突っ込んだ。


 ヒョウの目の前で踏み込んだユーリが思い切り跳躍。

 高々と飛び上がったユーリは天井に着地。


 ユーリの全身を真っ黒な闘気が包み込む。


 再びユーリの靴底が悲鳴を上げ――「そろそろ一発くらい殴らせろ」とボヤいたユーリの身体を、重力加速度も味方にヒョウへと叩きつけた。


「嫌や」


 舌を出すヒョウへ、縦回転を加えたユーリの踵落とし。

 それを受け止めたヒョウ。

 その衝撃でヒョウの膝が僅かに沈んだ。



「闘気は流石にキッツいな」


 苦笑いのヒョウが、ユーリを上へ押し返す。

 その反動を利用したユーリがバク転で着地。


 屈んだままのユーリがその場で水平回転。

 伸び切ったヒョウの足への足払い。


 飛び上がるヒョウ。

 それに向けて、「俺は学習できる男だ」と笑顔で右上段


 回し蹴りと違い、突き刺すような蹴りが宙を浮くヒョウの下腹部へ。


 突き刺さる瞬間――上体を前傾に、そして開脚してユーリの蹴りを躱したヒョウ。


 ユーリの蹴り足が戻るより疾く、前転したヒョウの踵落とし。

 慌てて足を引き戻しながら、ユーリの右腕がそれを受け止めた。


「危なっ――」


 続くユーリの言葉をヒョウが紡がせない。

 逆足の踵がユーリの右腕に叩きつけられ、その衝撃でユーリの右腕が自然と下がった。


 叩きつけられたヒョウの両足は、自然とユーリの側頭部付近に――

 ユーリが気がついた時には遅かった。

 足でユーリの側頭部を掴んだヒョウが、そのまま身体を捻って回転。


 それを耐えようとするユーリだが、ヒョウの両手が地面を捉えた事で勝負は決まった。


 腕の力も使い、更に身体を捻るヒョウにユーリが放り投げられて地面を転がる。


 ゴロゴロと床を転がったユーリが床の上に四肢を放りだした。上下するユーリの胸が、疲労の色を濃く表している。


「どうする? まだ続けるん?」


 円の中、後頭部の後ろで手を組むヒョウに、上体だけ起こしたユーリがニヤリとした笑みを見せた。


「当たり前だ……と言いたいところだがな……今回は俺の勝ちだぞ」


 ユーリの笑顔に「またまた……」とヒョウが呆れた溜息を漏らす。


「お前、さっき手ぇついた時、円からハミ出てたからな」

「嘘やん!」

「ホントだ」


 そう言ったユーリが、「だろ? エレナ」とエレナに視線を向けた。


「……そうだな。指先が出てた……というのをハミ出たというのであれば、だが」


 エレナの渋面は、あのくらいならは「出た」とは言わないんじゃないか? とでも言いたげだが、「ほら見ろ」と勝ち誇った笑みを浮かべるユーリには伝わっていない。


「見たかヒョウ。


 ニヤリと笑ったユーリが、もう一度床の上に四肢を放りだした。


 高らかに笑うユーリに「しゃーないな」とヒョウが呆れた笑顔を浮かべた頃……


「待たせたな。今日も無辜の市民のために働くぞ!」


 空気も読まず現れたのは、大手を振る笑顔のクロエだ。そんなクロエの姿に、そう言えばユーリ達は彼女を待っていたな、とその場の全員が思い出した。……カノンでさえ「忘れてました」と呟いてしまうのも仕方がないだろう。


 それだけ二人が見せた攻防が凄まじかった……と言う所だろうが、今しがた来たばかりのクロエはそんな事など知らない。


 今も転がるユーリに「何を寝ている?」と眉を寄せているクロエだが、先程までの立ち会いを見られなくて正解だな、とユーリは小さく溜息をついた。


 クロエに見られていたら、その上にどう伝わるか分かったものではない。そう考えれば彼女のタイミングの悪さも捨てたものではない、とユーリは感謝の意を示そうと口を開いた。


「おうポンコツ騎士、良いところに来たな。今から宴会だ」

「はあ? 何を言っている。さっさと任務に行くぞ!」


 寝転がるユーリを無理やり起こすクロエ。


「ちょ、待て。今結構ヘトヘトで」

「何を言っている。もう任務も受けてるのだぞ」


 眉を吊り上げたクロエが「ほら、起きろ」とユーリを引っ張る。


「お母さんッ! お母さんと駄目息子ッ!」


 そんな二人を眺めて突っ込むカノンに、「誰がお母さんだ!」と眉を更に吊り上げるクロエ。


「あ、あの人も地獄耳です!」


 アワアワするカノンとは苦笑いのフェン達三人。


 先程までの張り詰めていた空気は完全に弛緩し、訓練場を包むのは混沌とした賑やかさだ。


「ははは……何や新しい子も賑やかやな」


 そんな賑やかさに触発されて、ヒョウも笑い声を上げるが、エレナだけはそんなヒョウを真剣に見つめていた。


「……あれが【情報屋】、ヒョウ・ミナモトか……」


 拳を握りしめたエレナの呟きは広い訓練場に響くことなく、ギャーギャー煩いユーリ達の声に掻き消されていった。

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