第105話 見えない所で頑張ってます
ユーリとエレナがヒョウの事を噂していた頃――
「ようやっと侵入できたわ」
ヒョウは【人文再生機関】のお膝元であるパリに来ていた。他の都市と違い、唯一単層式のパリの街は、周囲にいくつもの衛星都市を兼ね備えた選ばれし者のみが暮らせる都市である。
故にこの都市に入るには、他の都市のように身分証明書だけではすまない。身分証の他にも登録された顔画像の照会、指紋や光彩などの生体認証まで必要としている厳重さだ。
元々パリまで来る予定がなかったヒョウなだけに、その辺りの準備をしていなかった。そのためハッキングやら何やらに意外に時間がかかってしまい、ようやくパリ内部に入れたのは、あの事故現場で襲われてから一週間以上が経過してからだった。
それでも長くなり始めた陽のお陰か、空が茜から黒に変わる頃合いには何とかパリへと入ることが出来た。
薄いスプリングコートのフードを目深に被ったヒョウだが、この時間帯はまだ冷えるのだろうか、周囲の人々も羽織物が手放せないようで、ヒョウの姿は上手いこと街に溶け込んでいる。
旧時代を再現したような美しいパリの街並み。
黒と橙の空が見せるコントラスト。
石畳の上をゆっくり走る車。
灯りだす街灯の下で肩を寄せ合うカップル。
店の軒先で、天然物の料理に舌鼓を打つ老夫婦。
歩道を歩く家族の楽しげな笑い声。
遠くに見える壁以外は、旧時代と変わらぬ平和な風景。この風景は、【人文】が取り戻すべき理想の姿として、しばしば通信放映局主体で各都市に伝えらている。
そのためこの時代の誰しもが一度は目にしたことがある風景だが、実際に目の前にすると流石のヒョウですら度肝を抜かれていた。
「ホンマ……ある所には全てがあるんやな」
橋の袂に出ている屋台でさえ、使用しているのは恐らく牧場で生産されている天然物の肉だ。それが漂わせる何とも言えない芳しい香りに、ヒョウは一瞬だけ足を止める――が、頭を強く振って目的地へと足を速めた。
ヒョウが向かう先は、街の中央に聳える巨大なビルだ。旧時代には無かったそれだが、今はそこが【人文】の中枢にして、この世界を牛耳る特権階級達が集う伏魔殿である。
その麓にある超高級住宅街が、【人文】の中でも重要ポストを担っている人物達の住まいだ。もちろん、今回ヒョウがターゲットにしている【能力開発局】の局長もそこに住んでいる。
今回ヒョウがかなり危険を冒してまでパリに来た理由は二つ。
一つ、皆の墓があるあの場所に近づかないよう警告するため。
一つ、あそこが【八咫烏】とどんな関係があったか聞くため。
一つ目はまあ……首だけになったイーサンとマックスを見せて脅せばある程度の効果があるだろう。ただ、あまり突っつきすぎると、相手側も本気になるかもしれない。
イーサンは「【能力開発局】の局長が――」と言っていた。つまり【人文】の最高意思決定機構【人類統一会議】の差し金ではなく、彼の独断だと言っていたのだ。
それは、あそこが【八咫烏】と何らかの関係があると知っているのは、今のところ【能力開発局】の局長だけと言う可能性が高い。
その場所について「あまり近づくな」と脅しすぎれば、ヒョウ自体が【八咫烏】だと疑われ、あの場所が完全に【人文】の管理下に置かれてしまう事態になるかもしれない。
それだけは避けるべき事態だろう。
とは言え、それはもう一つの目的、あの場所がどういう場所なのか……の回答次第だ。
実はヒョウとユーリは事故前後の記憶がない。十中八九事故の衝撃なのだろうが、気がついた時には雨の降りしきる夜中に、あの場所で倒れていたのだ。周りでは強い雨に負けじと燃え上がる炎と変わり果てた仲間の姿。
もう二年以上前になるというのに、未だに目を瞑ってもその光景はハッキリと思い出せる。
だが何故あんな場所にいたのか、そしてあの場所に行く前は……いや、正確には住んでいた所を追われた直後から、何をしていたのかはハッキリと覚えていない。
それ以前の記憶はもちろんある。小さかった頃の記憶も、そして自分達が味わった無力感も。何もかも全て覚えている。
だが、あの夜の前後だけは全く思い出せない。
何度思い出そうとしても、その時起きていた事が全く思い出せないのだ。いや、正確にはまるで寝ていたかのように、何があったかすら分からない、と言う方が正しいかもしれない。思い出そうとしても、その間の記憶だけは真っ暗なのだから。
兎に角分かっているのは、
事故があったらしい……という事。
仲間たちが死んだと言う事。
ユーリが何故か力の殆どを失っていたと言う事。
そしてあの事故現場と【八咫烏】が無関係ではないという事
その程度なのだ。
あの事故現場と【八咫烏】が無関係ではないと言う事は知っている。だが、何故それを【能力開発局】の局長も知っているのか、それは知らない。そして彼が知っている事が、ヒョウやユーリの知っている事実と同じかどうか、という事は知らない。
もしかしたら、二人が知らない新たな事実があるかもしれない。故に、【能力開発局】の局長にその辺りを話して貰いたいのだ。
その結果次第で、【人文】と真正面からドンパチやる事になったとしても、ヒョウは本気であの場所を封鎖するよう脅しをかけるつもりである。
ヒョウがそんな風に頭を整理しつつ歩いていると、辺りの風景が変わってきた。
立ち並ぶのは、豪邸といって差し支えのない住宅の数々だ。旧時代のパリと決定的に違うのが、この中心部にある巨大な高級住宅街だろう。
旧ルーブル美術館の真上に立てられた巨大なビル。それを囲むように立てられた豪邸の数々だが、旧時代の有名な史跡などを残しつつ立てられたそれは、まるで旧時代の人類の文化を独り占めしているかの様にも見えてしまう。
事実巨大ビルの地下には、かの有名なルーブル美術館がそのまま安置され、そこに所蔵されている美術品の数々も、大事に保管されているという噂だ。
【人文】曰く、人類が生存圏を奪還した暁には、この美術品達も再び日の目を見るらしいが、その頃の価値観が旧時代の価値観を歓迎できるかどうかは定かではない。
結局は自己満足なのだろう。文化を守るという名目も、そう言いながら文化地区にバカスカ豪邸を建てるのも。
決して分かり合えない人種だ。そう思いながらヒョウはターゲットである【能力開発局】局長の住む豪邸へと夜の闇に紛れて足を速めた。
ここからは、街に入るのと同レベルのセキュリティが敷かれている。ヒョウですら突破出来ないセキュリティの正体は、この街区だけで閉鎖された完全ローカルネットワークのせいだ。
セキュリティを担う部分を、この時代では考えられない地下ケーブルの完全ローカルで担っているため、外部からのハッキングは事実上不可能となっている。もちろん地面を掘って、地下ケーブルに直接アクセスすれば、侵入できるだろうが、そもそもこの地面自体、傷つけた時点でアラームが発生する仕様になっている。
完全難攻不落のセキュリティは、それだけ何かを隠したいという現れだろう。
一先ず顔認証付きの超スーパースロー監視カメラの数々を掻い潜り、ヒョウは少しずつだが確実に、ターゲットとの距離を詰めていく。
超スーパースローだろうが、ヒョウは映らない自信はある。自信はあるが、ここのカメラは一定以上の速度で移動する熱源を検知した途端、アラームを鳴らしてくれるという便利機能まで装備しているのだ。
だからこそ、逸る気持ちを抑えて今は慎重に一歩ずつカメラに映らないように、時に隠れ、時に宙を跳んで進んでいく。
それがどの程度の精度か分からない以上、無理は控えて確実な手を取るのは当然だろう。ここまで来て失敗は御免被りたい。
機械類は騙せないヒョウの能力だが、屋敷に侵入して、相手と顔を合わせさえすれば、もうミッションコンプリートと言って差し支えない。
そして、その任務達成まであと僅か――
難攻不落の鉄壁要塞とも言えるこの高級住宅街の警備を掻い潜れるのは、恐らくヒョウくらいのものだろうか。
ついに辿り着いた一つの邸宅。その玄関扉の前で、ヒョウは身につけていた外套を脱ぎ去った。
外套の下から現れたのは、仕立てのいいスーツ姿で茶髪のヒョウだ。スーツ姿に落ち着いたブラウンの髪の毛は、この街区に居たとしてもおかしくない格好である。
いくら能力で騙せるとは言え、なるべく違和感を与えない方がいい。邸宅に招かれるような客、しかも主人の知り合いであるならば、それ相応の格好でないと微妙な違和感を持たれてしまうだろう。
扉の前でネクタイが緩んでいないかも確認したヒョウが、息を吸い込んで静かにドアノッカーを叩いた。
直ぐに開いた扉から顔を見せたのは、老年の男性だ。どうやらこの邸宅でドアマンをしているだろう男性は、ヒョウを見るなり「これはこれは。お久しぶりでございます」と恭しく頭を下げて扉を開いた。
ドアマンに「ご苦労様、クロヴィス局長はご在宅かな?」と優雅に声をかけつつも、ヒョウはその視線を勘付かれない程度に周囲へと巡らせた。
巨大な玄関ホール。真正面には上へ続く階段と左右に扉。ホールの左右にも扉があるが、ドアマンに呼ばれたメイドが案内した先は、上へと続く階段だった。
ホールへと伸びる階段は、途中で踊り場になっており、それぞれ左右に分かれている。その踊場にこれ見よがしにあるのは、巨大なステンドグラスだ。昼間は陽光を受け、さぞかし美しく輝くだろうそれを横目に、ヒョウはメイドに連れられ階段をのぼっていく。
吹き抜けのホールを抜けたヒョウは長い廊下を進んでいく。前を歩くメイドは勿論、途中ですれ違う使用人達もヒョウを見ると一礼するだけで、誰も彼もがヒョウを疑う事などない。
完全にホームと思しき雰囲気の中、漸く辿り着いた扉――玄関や途中の扉もそうだが、何処も彼処も旧時代を思わせる作りは、持てる者の最上の楽しみなのだろう。
そんな扉をメイドが数回ノックした。響き渡る「コン、コン」と言う音が長い廊下に響き渡った。
『……なんだ?』
ノックから暫くして扉の向こうから聞こえてきたのは、何処か不機嫌そうな男の声だ。
「旦那様。お客様をお連れしました」
落ち着いたメイドの声だが、ヒョウは内心ここをどう切り抜けようか迷っている。正直名前を名乗っても、相手はこちらを知らない。それにドア越しではヒョウの能力の範囲外なのだ。ヒョウを知り合いだと、知己の友だと勘違いさせるためには、どうしても面と向かい合う必要がある。
『……客?』
訝しむ男性の声からも、今日ここに客が来る予定など無いのだろう。そんな男性の声音を感じ取ったのか、目の前でメイドが「そう言えばお名前は……」とヒョウを怪訝そうに振り返った。
さてこれは困った事になった。彼女の視線を受けたヒョウは肩を竦めるしか無い。正直ここで名前を言った所で、扉の向こうの男性の疑いは晴れない。だが名前を言わないというのは怪しさ満点だ。
逡巡したヒョウだが――「ヒョウ・ミナモトです」とメイドに笑いかけた。
自信ありげなヒョウの笑顔に、メイドは再び「そうでした」とほほ笑みを浮かべて、ドアに向かってヒョウの名前を告げた――その瞬間、扉の向こうが分かりやすく騒がしくなる。
ガタガタと椅子が動いてそれが倒れる音、明らかに狼狽しているだろう人の雰囲気に、メイドが「旦那様?」と眉を寄せて扉ののノブに手をかけた。
『ま、待て! 本当に――』
慌てふためく男性の声にヒョウは舌打ちを漏らしてメイドの肩に手を置いた。どうやら向こうは聞いたことのない客の名前に随分と狼狽しているようだ。このままでは失敗してしまうと、強硬手段に出ることにしたのだ。
「どうやらクロヴィス局長は照れておいでだ」
普段のヒョウからは考えられない、優しげで魅力的な笑顔を浮かべてメイドを押しやるように無理やり扉を開けた。
扉の奥で、「待て、誰が開けていいと」と怒声にも似た声が聞こえてくるが、ヒョウは気にせずメイドを振り返った。
「少し彼と込み入った話がありまして……人払いをお願いできますか、レディ?」
ヒョウの笑顔と振りまく気配に完全に心を奪われたメイドが「はい」と小さく頷くと、「ま、待て――」主人の言葉すら聞こえないとばかりに扉をキツく閉めて立ち去っていった。
「さて……」
薄暗い部屋の中、勝ち誇ったようにクロヴィスを振り返ったヒョウ。そこに居たのは、白髪混じりの茶髪を後ろになでつけた男性だ。
中肉中背だが、鷹のように鋭い視線とたくわえられた口髭は、なるほど伏魔殿で生き延びてきただけの貫禄を感じさせている。
そんな男性を前に、ヒョウはすぐに違和感を感じていた。
どうも、ヒョウを見る視線が他の人間と違うのだ。
額に浮いた脂汗も、怯えたような瞳も、知り合いを見ている……と言うよりも、まるで――
「なぜ、貴様がここにいる……ヒョウ・ミナモト――!」
「あれ? 僕の事知ってるん?」
小首を傾げたヒョウの訝しげな声が、暗がりに響いていた。
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