第76話 彼もある意味被害者

 屋上の丁度中央で打つかりあったユーリと男――


 ユーリの右ジャブを躱した男が繰り出したカウンター。

 それをユーリの左手が受け止め、その衝撃で辺りの空気が振動した。


 下から湧き上がる賑やかな声は、二人の激突を楽しんでいるかのようだ。


 そのまま屋上の至るところで衝撃が走り、遅れた音が空気を鈍く振動させる。


 一旦間合いを切ったのだろう、ほぼ同時に姿を現した二人。

 動いたのはユーリが速かった。

 立っていた場所に舞い上がるホコリだけ残して再び姿を消した。


 かと思えば、そこから然程離れていない場所に姿を現したユーリ。

 そしてまた風とホコリだけを残してユーリが消え、離れた場所に現れる。


 消えて、現れ、風に揺れる柳の如く、右に左にジグザグと――ユーリが緩急をつけて男に迫る。

 消えては現れ、現れては消え。

 リンファの目には、まるで分身しているかのように見えるユーリだが、男に慌てる様子はない。


 何度かジグザグと、方向を切り返していたユーリの姿が現れたのは――男の真後ろだ。


 出現した瞬間にはもう振り上げられていたユーリの右ハイ。

 男の右側頭部に迫るそれを――「聞こえてるぞ!」――男が屈む。


 空を切るユーリの右脚。

 屈んだ男がそのまま左足で回転足払い。

 刈り取られるユーリの軸足――かと思えば、その勢いを利用してユーリは斜め回転コークスクリューしながら再び右脚を振り抜いた。


 屋上を揺らす衝撃。

 足下から聞こえる賑やかな声。


 ユーリが叩きつけた右脚を、笑う男が左腕でしっかりと受け止めていた。


 未だ宙に浮いたままのユーリに、「だから無駄だ!」と男が右拳を振り抜いた。


 男の右フックを、ユーリは着地と同時に左腕で受け止めた。

 受け止めたと同時に、ユーリは男の右腕に左腕を絡みつけ脇に抱え込む。


「掴まえた」


 男が顔を歪めたと同時、ユーリが小手投げの要領で男を放り投げた。


 顔面から倒れ込む男が、慌てて左手を付く。それに「悪手だぜ」と笑うユーリが身体を捻っ――た瞬間、男が左手を離してユーリに合わせて身体を捻り起こした。


 背を地面に、ユーリに向き合うように身体を捻った男の左腕が光る――

 男の左手に出現した軍用サーベル。

 その切っ先がユーリの額に迫る――それをユーリは、男を放して仰け反るように躱した。


 ユーリがそのままバク転。数回のそれが、男とユーリとの間合いを切る。


 その目の前で右肘を気にする男が「問題ない」と笑顔を見せてサーベルを握り直した。


 サーベルを右手に持ち直した男がユーリに向けて突進。

 間合いを一気に詰めた振り降ろし。

 体を開くユーリ。

 その鼻先を掠める切っ先。

 切っ先が視界の下に消えた瞬間、ユーリの右腕が男の顔面へ繰り出された。


 それを知っていた男のバックステップ。

 僅かに届かないユーリの右拳。

 伸び切ったユーリの右腕に迫る、男の右斬り上げ。


 それを左前方へ転がりこむようにして躱すユーリ。

 ユーリの肩の上を刃が空振る。

 そのまま右手をついたユーリが、前転しながら左踵を男に繰り出した。

 完全に虚をついた一撃だが、男の左腕がそれを受け止める。

 その勢いを利用したように、男が大きく下がって間合いを開いた。


 再びユーリに迫る男。

 迎え撃つユーリ。


 二人が打つかる度衝撃が空気を震わせ、遠くから聞こえる賑やかな声が、震える空気に呼応してビリビリと歪む。


 何度目かの衝突の後、再び間合いを切って二人が姿を現した。


「聞こえル……聞こえるゾ……貴様ノ


 男がニタニタと笑いながらユーリの周りをゆっくりと回る。瞳孔が開き、口から僅かに涎も垂らす男だが、ニタニタと笑う姿は不気味な余裕を感じさせる。

 対するユーリはと言うと――腕を組んで仏頂面、という何とも対照的な姿だ。


 今のところ間近で見ているリンファには、互角に見える戦いだ。だが、相手の余裕そうな表情と言葉、そしてユーリの険しい表情からすると、ユーリはかなり押されているのかもしれない。


 そんな険しい表情のユーリが、大きく溜息をついて口を開いた。


「お前――?」


 ユーリの困惑した表情と言葉に、男もリンファも「は?」と固まった。


「いやだってよ。心が読める割には反応が遅いっつーか」


 腕を組んだまま唸るユーリが、


、殆ど先読みっつーか、だったからよ」


 と大きく溜息をついてゲートの中に手を突っ込んだ。ガサゴソと中を弄るユーリが「お、あったあった」と漸く取り出したのは、一枚のだ。


「この前荒野で拾ってよ。格好いいだろ?」


 と楽しそうに笑うユーリが後ろに両手を回して、右にコインを握ってから両拳を前に突き出した。


「どっちでしょう?」


 真剣な表情のユーリに、男は呆け、リンファも「馬鹿かこいつ」と唖然としている。だが当のユーリは「早くしろよ。読めるんだろ?」と眉を寄せて口を尖らせるばかりだ。


「……右」

「おー! 正解だ。じゃ、次な」


 男の正解に合わせるように、下の賑やかさが更に増した気がする。その雰囲気に「楽しそうじゃねぇか」と笑うユーリが、コイン当てを何度か試すが、もちろん全てが正解だ。


「……いい加減ニしろ。こンな事――」

「ちょっと待てって。次で最後だからよ」


 ユーリは眉を寄せる男に手を挙げながらリンファへと近づき、「お前も手伝え」とリンファを立たせてコソコソと――


「これで最後、どこにあるでしょうか?」


 満面の笑みで両手を突き出すユーリと、この微妙な空気に耐えられないが、渋々と言った感じで両手を突き出すリンファ。


「貴様の左手だ」


 男が面倒そうに言った瞬間、「リンファ、テメェちゃんと『アタシの右手』って念じてたか?」とユーリがリンファに詰め寄るが


「やってたわ! ていうかこんな下らねー事につきあわすな」


 とリンファ額に青筋を浮かべて外方そっぽを向いた。その様子に「ンだよ。カリカリしやがって」とユーリが頭を掻いてコインをゲートへと放り込んだ。


「満足シタか?」


 呆れ顔で肩を竦める男に、「したした」と頷いたユーリが大きく息を吐き出した。


「いやー、どうやら本当に読めてるんだな……」


 片手で顔を覆うユーリが「読めてんのかー」と呟きながら「違って欲しかったんだけどなー」と更に続けた。


 そのユーリに「だから言ってんだろ」と、突っ込みそうになったリンファが大きく息を呑んだ。ユーリを纏っていた雰囲気が、少しずつ変わっているのだ。


 ゆっくりと燃え上がる炎のような闘気が、次第に大きくなり、今はビリビリと空気を震わすほどの圧力を持っている。そして何よりその闘気の質が異常だ。


 男の瞳が映した深淵など、表層でしか無かったと思えるほどの雰囲気。纏うオーラの禍々しさは、人ではなく【悪魔】だと言われたほうが納得できるくらいだ。


 その雰囲気に男も今は表情を引き締め、サーベルを構えてユーリを睨めつけている。


「心を読む……その力――」


 ユーリの顔、その上半分を覆っていた右手がゆっくりと下がり――


「どうやって手に入れた?」


 ――凍える程の殺気にリンファは息をするのも忘れて、ユーリの昏い瞳から目を離せないでいた。黒く昏いその瞳。普段の黒目以上に深い黒の筈なのに、どこか赤みを帯びている様に見える瞳。リンファはその中に――深淵の奥に――燃え上がる憤怒の炎を見ている。


「こ、こノ気配ハ――」


 男もユーリの変貌ぶりに驚いているようで、余裕そうな表情が一変、頬を伝う脂汗が男の動揺を大きく表している。


 無理もないだろう。ユーリの放つ気配は異様過ぎるのだ。刺すような殺気で凍える程寒いのに、見続けていたら全身が焼け爛れる程熱い。


「答えろ……どうやって手に入れた?」

「……言うト思うカ?」

「そうか――」


 呟いたユーリが更に殺気を纏う。相反する二つの感覚に、リンファの息が止まり、酸素を求めるように口を動かした瞬間、ユーリの姿が消え、


 屋上でワンバウンドした男をユーリが蹴り上げる。

 咄嗟にガードした男だが、吹き飛ぶ男の先にユーリが出現。

 ユーリの左ハンマーパンチ。

 それを辛うじて受け止めた男――が地面に再び叩きつけられた。


 震える屋上――床が割れる程度で済んでいるのは、高級な素材と最新の強化魔法のおかげだろう。


 再びバウンドする男をユーリが蹴り上げ――ようとするも、男がサーベルを振って辛うじて追撃を躱した。


 再び距離を取った男が肩で息をしながら「油断シていたヨ」と回復薬ポーションを飲み干した。それを敢えて見過ごしたユーリが小さく溜息をついた。


「心を読むんだろ? この程度躱してくれよ」


 ユーリの呆れた笑みに、「少し驚いたダケダ」と男が強がるように笑みを返した。


「貴様の疾さニモ直ぐに慣レる」


 男が吐き捨てた瞬間、再びユーリの姿が消えた。


 男が「そコダ!」と突き出したサーベル。

 それを紙一重で躱すユーリ。

 左頬を掠めた刃に、踏み込みと同時にユーリの左鉤突きフック


 頬と挟み込むように放たれた左拳が、サーベルの鎬を捉えた。

 根本から折れて舞うサーベルの刀身。


 一歩前で踏み込んだパンチには遠いユーリだが、左鉤突きフックの勢いそのままに、男に向けて左上段回し蹴りハイキック

 心を読み右手を引いた男がそれを受け――た瞬間反転したユーリの左後ろ回し蹴りが男の左側頭部に突き刺さった。


 ユーリの左上段を、僅かに飛んで威力を殺していた事もマズかった。まともに蹴りを受けた男が「ぐぁああ」と屋上の上を滑って転がる。


 慌てて飛び起きる男。

 腕を組んでそれを待つユーリ。


「それで? どうやって手に入れたか気になったか?」


 ユーリの変わらない雰囲気に、「さあネ」とだけ答えて男がニヤリと笑った。


でやられてる奴が、格好つけんなって」


 ユーリが盛大に溜息をつくが、男は「オ前の疾さニモ慣れてキタと言っただロ」と口に溜まった血を唾と共に吐き捨てた。


「慣れてきた。慣れてきた……ね」


 ユーリが徐ろに男を指差し「右頬」そう宣言した途端、男の顔が「パン」と音を立てて一瞬だけ仰け反った。


 何が起きたのかわからない男が呆けた表情を見せた途端、鼻血が一筋流れて「ポタっ」と屋上に間抜けな音を響かせた。今だけは何故か下の賑やかさが、やたらと遠く聞こえる。


 呆然とした男が右手で鼻を拭い――


「な……」


 ――そこについた血に眉を寄せた瞬間、ユーリが再び「左頬」と宣言する――と男の顔が弾けて鼻血が垂れ、「右膝」とユーリの宣言が、男の膝を払って尻もちをつかせた。


「キ、キサマ……」


 慌てて立ち上がった男の顔面に浮かぶのは、『驚愕』の一言だ。


「どうせ心を読んで攻撃がバレるんだろ? なら?」


 不敵に笑ったユーリが、「左肩」「右脇腹」「デコ」「左腿」と宣言する度男の身体が衝撃で跳ねる。


「どうした? 疾さに慣れたんだろ? この程度反応してくれよ」


 呆れ顔のユーリだが、リンファにはユーリが突っ立ったまま宣言しているようにしか見えない。……見えないのだが、ユーリは宣言した場所を攻撃して、また元の位置に戻って来ている。リンファからしたら信じられない事だが、現に目の前で起きている以上、事実として受け入れるしかない。


 心を読まれて尚、。「心を読むなら、読まれても問題ない疾さで殴れば良いんじゃね?」そんなユーリの声が聞こえてきそうだが、リンファは乾いた笑いすらあげられない。


 言葉にすれば簡単だが、この男相手にそれを出来る人間が何人居るだろうか。


 そんな事を考えるリンファの目の前で、ユーリが首を鳴らして男を睨みつけた。


……テメェ程度が扱える代物シロモンじゃねぇんだ……」


 ユーリの言葉に「うるさイ、うるさイ!」と男が声を荒らげて髪を振り乱した。


「もう感覚も分かんねぇんだろ? お前を捨てた奴らに義理立てすんのか?」


 ユーリの盛大な溜息に、「コレは、あの方ガ与エてくれた――違ウ! コレはワタシの力! ワタシだけの!」と男が更に声を荒げる。


「渇くんだ! この力がアレば……ワタシの……渇きが――」


 支離滅裂な発言の男が胸を掻きむしり、そこから血が滲み出す。


「全てを壊シテ……復讐スル――」

「……復讐するんだよ」


 眉を寄せるユーリに、「セカイに――ワタシをこんな目ニ合わセたセカイに――」 


 男が口調を変え、髪を振り乱す――それを前にユーリは顔を顰めて黙ったまま。


「憐れむな! 私を――ワタシをアワレムナ――!」


 爛々と輝く男の瞳はいつの間にか真っ赤に――憤怒の炎にその身を焼かれるように、男の身体が少しずつ崩壊していく……


「これ以上は無理か……手がかりになると思ったんだが」


 大きく溜息をついたユーリが、。これ以上男から情報は聞き出せない。何より彼もある意味被害者なのだ――


「なら、終わらしてやらねぇとな――」


 そう呟いたユーリの前で、男が涎を振りまきながら天に向けて咆哮を上げた。怨嗟のようで、慟哭のようで、何とも言えない悲しい咆哮だが――


『じゅーーーーう!』


 ――不意に始まったカウントダウンに掻き消され、下で盛り上がる人々には届かない。どうやら前夜祭スタートのカウントダウンが始まったようだ。本来なら日が変わるタイミングのカウントダウンが正規なのだが、祭りのスタートを待ちきれない住民たちがここ数年取り入れた趣向だ。


『きゅーーーーう!』


 カウントダウンに合わせ男の姿が消え、ユーリの目の前に現れた。

 屋上を踏み抜く男の左足。

 ユーリに向けて放たれる男の右拳。


 それに合わせるのはユーリの左。

 超高速のカウンターが男のを捉えた――

 砕けて千切れる男の拳

 巻き込むように曲がる肘。

 それでも止まらぬユーリの拳が、男の顔面へ。

 顎を砕き首をへし折る。


『はぁーーーーち!』


 膝から崩れる男。攻撃を読んでいても、圧倒的な力で粉砕されては成すすべも無かったという所か。


 崩れる男をユーリが掴んで上へ向けて放り投げた――遥か上空をクルクルと回転して飛ぶ男。


『なぁーーーーな!』


「リンファ! 最大出力でブチかましてくれ!」

「え? ええ? いいのか?」(『ろぉーーーーく!』)

「頼む」


『ごぉーーーーお!』


 何時になく真剣なユーリに、リンファが「分かった」と頷いて魔導銃マジックライフルを構えた。


『よぉーーーーん!』


 落下してくる男。

 高まるリンファの魔力。


『さぁーーーーん!』


 グニャグニャと揺れる男。もう意識もないはずなのに――一瞬だけ見えた男の瞳は何処か寂しそうで、でも何処か嬉しそうで……


『にぃーーーーい!』


『いぃーーーーち!』


「お前も色々あったんだな」


 そう呟いたリンファが思い切り引き鉄を引いた――『ぜろーーーーーー!』――巨大な紫の閃光は、花火代わりに点灯した無数の光に紛れて男の身体を包んで消し飛ばした。


 プレートに当たる寸前で霧散した閃光。それが収まり再び薄暗くなった屋上には、パラパラと男だったろう物が振ってくるだけだ。


 その灰とも欠片とも言えない物を手に取ったユーリ。


「じゃあな……――」


 足下の歓声に掻き消された声が、ユーリの唇を若干震わせた。ユーリはその言葉を飲み込むように、掌の欠片を握りしめ――たそれは、ユーリの手の中で崩れてサラサラと屋上へと落ちるのであった。



 イスタンブール奪還祭――開幕

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