019 微睡のクロエ


「ほんとにいた……。これが……微睡のクロエ」


 透き通る白い髪を腰近くまで伸ばし、椅子にゆるりと腰掛け目を閉じた姿は、なるほど観光目的で来る人がいるという理由もわかる。なんというか、蠱惑的で扇情的だ。

 見た目はほとんど人間と変わらない。唯一の違いは頭に大きな角が生えていることだろうか。


「怨霊は……ずいぶん静かね。魔族っていうのも嘘とか……?」


 魔族を前にして、理性が消し飛ぶ可能性も考えていたが、どうやら赤い瞳を見なければ怨霊には魔物だとわからないらしい。

 というか、実際、この見た目だけでは魔族だと判断できないような気がするが、クロエという名前もあるわけだし、きっと彼女が起きて活動していた時期の記録が残っているのだろう。


「ふむふむ、いてっ!」


 近付いて確認してみようとすると、半透明の壁のようなものに阻まれ、額を打った。


「なんだこれ……。あ、これが結界ってやつか」


 調べてみると、三角錐の形に結界が張られているようだ。

 結界ってなんだかよくわからないけど、要するに防御魔法だろう。


「ふぅ~ん。なんで寝てるんだろ、この人……。っていうか、あれって――」


 私は微睡のクロエの身体に刻まれたタトゥーが気になっていた。

 ローブ・デコルテのドレスの大きく開いた胸元に見えている、複雑な紋様。

 

 ドクンッと、心臓が跳ねた。

 私はあの紋章を知っている。

 翼を広げた鳥のような、文字というよりは絵のような紋様。


「あれって……の紋章じゃ……」


 怨霊の記憶に刻みつけられた、自分自身を殺した相手。

 燃えるように赤く輝く、見たこともない紋章の光をなびかせ国を滅ぼした相手。


 どういう繋がりか、それとも繋がりなんてないのか。

 微睡のクロエの胸元には、確かにあの時の男と同じ紋章が刻まれていた。


 私も知識としてしか知らないが、魔族は紋章なしで魔法が使える……正確には自分の意思で魔力を使うことができるらしい。それゆえに、紋章は必要ない……はずだが。


「……ま、いっか。せっかくだしメモっとこ……って。少し距離が遠いな……」


 私はストレージから紙とペンを取り出し、クロエの胸元の紋様を写し取ろうとしたが、なにせちょっと距離がある。勇者の紋章はかなり細かいデザインで、ここからだと細部がちょっと怪しい。あと、服と髪で微妙に隠れた部分もある。

 ほぼ、問題ないだろうけど、せっかくだから完璧なものを写していきたい。

 双眼鏡的なものでもあればいいんだけど……。


「っていうか、あれ紋章なのかな」


 紋章はけっこうそれぞれ形が違うから、これが紋章かどうかはよくわからない。

 ……いや、勇者がそれを紋章として運用していたのだし、やはり紋章なのか?

 まあ、発動してみればわかるだろう。

 

 というか、紋章の起源みたいなもの自体がおとぎ話的であり謎なのである。神に教えてもらったとか、神に成り代わる紋章だとか、なんとも曖昧なのだ。

 それならまだ高名な書道家が生み出したとかのほうが、説得力があると思う。

 ……まあ、ファンタジーな世界でそんなことを言っても仕方ないのかもしれないが。


「うーん。結界か。これって壊せないんだよね」


 今まで何人もの人が挑んだらしいからマジだろう。

 少なくとも私では無理だ。

 無理なんだが――


小転移ショートテレポート


 私はその魔法を唱え、結界の内部に転移した。

 壊すのは無理でも、向こう側へ行ければいいのだ。

 小転移は『収納紋』の第3魔法だ。


 紋章を身体に入れることで魔法が使えるようになる。

 例えば、太陽紋ならば、最初から第3魔法まで使えた。

 術の名前や効果を知らなくても問題ない。

<紋章が教えてくれる>

 紋章術の本にもそう書かれていた通り。


 収納紋に関しては、「紋章術」にも二つ目以降の魔法のことは書かれていなかった。

 だから、名前の通り一つの魔法だけを扱う紋章なのかと思っていたのだが、そうではなかったのだ。まあ、これは私が勝手にそう思い込んでいただけなのだろうけど。

 しかも、収納とは全然関係ない魔法が使えるようになったもんだから、「なんだこれ」ってなったよね。2つ目の魔法は「停滞スロウ」で3つ目が「小転移ショートテレポート」なんだから。


「ていうか、普通に結界の中に入れちゃったけど……」


 何百年も前から討伐依頼が出ていたんじゃなかったのだろうか。

 目の前にいる魔族クロエが目を覚ます様子はない。

 その気になれば、今の私でも倒せるだろう。


(綺麗な人……)


 女の私でも見蕩れてしまうほど、美しい人だ。

 人間じゃないから……なのだろうか。ずっと眠っているだけのはずなのに、肌の血色は良く、まるで時が止まったかのよう……いや、呼吸音も聞こえないし、実際そうなのかも。

 ていうか、死んでるんじゃないのかな、これ。


「ま、いいか。紋章、紋章っと」


 私はクロエの紋章にかかっている髪を払い、服をちょっとずらしてその紋章の全容を露わにした。

 なんだかイケナイことをしてるような感じがして、無駄にドキドキしてしまう。


「魔族は胸元に紋章を入れるのかな……? 人間は背中だけど。なんか意味があるのかな」


 今まで見た中では格段に複雑な紋章。

 私は夢中で写した。カッコイイ紋章だ。というか紋章かどうかは定かじゃないんだが、まあ、そこはもうこの際どうでもいい。

 ていうか、そもそも紋章がなんなのかもよくわからないし。


「よしっ、できた!」


 できた! のはいいけど、これ持って帰んなきゃじゃん。

 レッドホーン討伐とかいう感じじゃなくなってきたな……。

 優先順位的には紋章が上だろう。レッドホーンの討伐報酬は銀貨5枚に過ぎないが、クロエの紋章の写しは値千金。自分的には。

 よし。


 そんなことを考えていた、その時だった。


「ねえ」


 鈴が鳴るような声が響く。

 全身から汗が噴き出すのがわかった。

 圧倒的な「力」をすぐ側から発せられるのを感じる。自分が紋章士になったからか、あるいは魔力から作られたドッペルゲンガーという存在だからか、いつのまにか魔力を知覚できるようになっていたのだが、今までにない、巨塊のような魔力がすぐそばにある。


「どうやって結界を抜けたの?」


 私は恐る恐る顔を上げた。

 微睡のクロエがその目を開き、興味深そうに私のことを見つめていた。

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