005 紋章を書いてみよう

「さて、どうしよう」


 ご婦人を帰らせた後、私ことドッペル・リディアは林の中でゴブリンの死体を前に唸っていた。

 骨まで露出した手は誰が見ても重症なのだが、それでも消える前にやっておくことがある。


 魔物の知識については、常識レベルのものは怨霊が持っていた。

 この世界に満ちる『魔』から産み落とされる、魔の化身たる魔物。

 月と同じ赤い瞳を持ち、肉体を欲して人間に襲いかかる人類の天敵。


 たとえば、魔物っぽく見えても目が赤くないものは、動物ということになるらしい。

 このゴブリンは明確に魔物だ。

 そして、怨霊の記憶にある魔物たちも、みな瞳を赤く輝かせていた。


 私は木陰に隠しておいたナイフを痛む手を押して扱い、ゴブリンの頭に生えた産毛を一本一本丁寧にそり落としていく。

 ゴブリンの頭髪は適度なコシがあり、長さも十分。

 量は物足りないが、さしあたりの分としてはなんとかなるだろう。


「これで筆……作れるかな……」


 屋敷には2頭の馬がいるが、5歳児であるところの私では、尻尾やたてがみを切るのは難しい。

 人に頼むという手もあるが、明らかに不審だ。


「集めた毛を括って……と。魔物のものだからかな、すごく丈夫な髪してんのね、ゴブリンって」


 普通はちょっと引っ張れば髪なんて切れてしまうものだが、ゴブリンの毛はわりと強靭だ。そのくせ、人間の髪と違ってフワフワしているし、けっこう筆向きかも……?


「めちゃくちゃ不格好になっちゃった。筆ってよりブラシって感じだけど、使えなくもない……かな? さて」


 今度は魔結晶だ。

 ゴブリンの両の目玉は、光を失い、しかし赤黒くそこにあった。

 私はそれを穿り出し、林の中にあった自分の背丈ほどもある石の上で砕いた。

 近くの小川から水をすくってきて、赤い粉となった魔結晶と少量混ぜて赤い墨らしきものを作る。

 本にはにかわと混ぜるとあったが、まあこれでもギリギリ大丈夫だろう。意外と粘りがある。


「よし。いちおうこれで朱墨はできたかな?」


 こればかりは早い内に試しておかなければならない。

 また、いつ、どんなタイミングで「私」の前に魔物が現れるかなんてわからないのだから。


「確か、形はこう。リディアの身体の記憶力の良さに感謝かな、これは」


 本で見た記憶を頼りに、地面に木の枝で紋章を描く。

 あの本に載っていた『紋章』は、「太陽紋」「収納紋」の2つ。

「写し」をやったばかりというのもあるが、形の簡単なほう――「太陽紋」を私は覚えていた。

 というより、太陽紋は篆書に似た文字のようなもので描かれており、簡易的な筆でも書けなくもなさそうだったのだ。

 収納紋は、毛筆に朱墨をたっぷりと付けなければ書くのは難しいだろう。

 そういう意味でも、太陽紋が書けて、なおかつ紋章として起動させられるかは重要だった。

 

「書く場所は……ふとももでいっか」


 本来は背中に書くものなのだが、当然、手が届かない。

 フトモモでは起動できないかもしれないが、とにかくチャレンジしてみよう。


 そう。

 私はドッペルゲンガーだから、いくらでも自分の身体を使って試すことができるのだ。

 これは使い捨てできる「命」の圧倒的アドバンテージの1つと言えるだろう。

 無限にコンティニューできるようなものなのである。


 拳の痛みを我慢しながら、スカートをまくり上げ、幼い太ももに紋章を描いていく。


「よし。いちおう書けたわね」


 最初はこんな即席の朱墨で肌に書けるのかと思ったが、想像よりもずっと粘りがあり、かなりしっかり書くことができた。

 あとは魔力を通せばいいわけだが……。


 私はドッペルゲンガーを作る本体オリジナルの感覚を記憶として持っている。

 ドッペルゲンガーである私には当然、ドッペルゲンガーは作れないが、魔力を使う感覚そのものはなんとなくわかるのだ。

 身体から力がスッと抜けていくあの感覚を再現するように、私は太ももの紋章へと力を注いだ。

 すぐに紋章から反応が返ってきた。だが――


「あっ、ダメだこれ。あ、あああ、ダメダメ、ストップ――」


 紋章が輝き、確かにそれは発動したように見えた。

 しかし、紋章は私が持つ魔力以上のものを強引に奪っていき、魔力で構成された私の身体そのものを食い尽くしていった。


 ◇◆◆◆◇


「おつかれさま、私」


 目を覚ました私は、気絶していた間にドッペルがしていたことをすべて理解し、空中に向かって呟いた。

 

 時刻は深夜。

 そういえば私、まだ5歳児なのにそれなりに大きい部屋で1人きりなんだな。

 まあ、教育方針なんて土地によって違うのが普通か。元日本人の感覚だと、ちょっと可哀想というか、育児放棄なんじゃないのかと思ってしまうが。

 服装が寝間着に替わっているから、メイドか母がやってくれたのだろう。全くの放任というわけではないから、今の私としてはちょうど良い塩梅ともいえるかも。


「……さて、困ったわね。手詰まりだわ」


 元々、リディアは魔力が足りないから、一度きりの紋章である『奇跡の紋章』を背中に付けていたのだ。ドッペルが紋章を起動させられず――厳密には起動はしたけれど、肉体が耐えられず消滅してしまうのも当然だと言えるだろう。

 リディアが奇跡の紋章を描いたのは、16歳の時。

 成長で多少は魔力が伸びるだろうに、それでもダメだったわけで、私のこの肉体はその部分はかなりポテンシャルが低いと言わざるを得ないだろう。


 つまり、紋章の力を使って強くなるには、紋章を起動できるところまで魔力を強くする以外にないのだ。


「……急がば回れ……か。猶予を15年も貰っておいて良かったと前向きに考えておきましょうか」


 ドッペルゲンガーは、術使用時点の「私」を複製する魔法だ。

 たとえその複製が訓練して強くなった所で、その肉体を「本体」に戻すことはできない。

 つまり、魔力を強くしていくのは「私自身」でなければ不可能なのである。

 魔力枯渇で意識を失うことがわかっている以上、無理をしすぎるわけにもいかない。


 せいぜい、毎日魔力ゼロまで頑張って気絶して寝るようにする――できるのは、そんなところだ。


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