現場の人物録② K原さん、S水さん
社会人になって半年後、二つ目の現場に配属された。
そこで自社の二人のベテランSE、K原さんとS水さんに出会った。
開発していたのは「日銀ネット」。
1980年代、日本の中央銀行が開発に着手した銀行間決済システム。その後国債などの業務システムが追加されたが、最初は基幹業務である当座預金、それに準備預金、外為円決済、無担保コールの三つの業務システムと独自のメンテナンスシステム(パラメータ/維持管理システム)が付随していた。
この国内最初の中央銀行と金融機関とのネットワークシステム、その上流設計段階から二人は参画していたらしい。
お客様は超エリート頭脳集団である日本銀行の職員さんたちである。その人たちの要求やら調整やらをしながら仕様を整理、取りまとめて設計書を作り上げていたのだから相当な実力があったに違いない。
ただ新人社員の私には、この二人は雲の上の存在で、どれくらいすごい二人だったかを理解できなかった。ただなんとなく「会社の上司」で「偉い技術者」くらいの感覚だった。
二人の偉大さを理解したのは、二人が別の現場に移動して数年後のことだ。
K原さんは主にオンライン業務部分を、S水さんはバッチ業務部分を担当していた。ただ基本設計だとその区分けはあまり意味がなくて、両方知っていて当然であり、成果物に対する責任の分担程度にしか過ぎない。
私が二人の凄さに気が付いたのは、1988年に日銀ネットが正式に稼働開始して一年くらいしてからだ。
ふと設計書キャビネットの最上段に鎮座し、手が届きにくくて誰も読もうとしない──というか、使用する機会が滅多になかった三冊の分厚い設計書を、なんとなく手にした時だった。
この三冊、一冊が「概要設計書」。残り二冊が「基本設計書」だった。
どちらも高級な分厚い表紙の特注ファイルだった。それが一般の技術者が敬遠して読もうとしなかった一因かもしれない。とても状態がよくて綺麗で、開くと静電気でくっついた上質紙がパリパリと音を発するほどだった。
ちなみに日常頻繁に多くの技術者が読んでいた「詳細設計書」は、分冊が百冊以上あって安っぽいビニール製、用紙も普通紙だった。多くの人が利用する分冊の表紙が破れて無残な姿になってしまっていたものだ。
さて、概要設計書も基本設計書も、どちらもシステムの根本原則とか理念、思想、目的とかを明確に丁寧だが簡略に記したものであった。
それは、日々のシステム開発作業で「どうしてこうなってるか」とか「なぜこうしないのか」と浮かぶ疑問を一発で解決するものだった。
いや、一発で解決とか簡単に書いたけれど、それが実はとんでもなく凄いことなのである。
システム開発の着手時、お客様(日銀)の要求を満足する内容と予想される問題解決方法を余すことなく簡潔に、かつ正確に記していた。それは先を見通しており、開発が進んで変更が生じても、そこだけは譲らず、矛盾を生じさせないシステムにしようという内容になってた。
だから整然と章題が列記された目次だけみても、自分が調べたいことがどこに書かれていそうか、初めて見た自分にもわかった。詳細設計書しか見てなかった者でもキーワードを知っていれば、その単語を探せばよかったのである。
こんなものを、何もないところから作り上げるっていうのがどれほど凄いのか、入社三年目にして理解させられた。そしてその日からこの三冊を集中して読み込むことにした。
執筆した中心人物たち、つまり当時の数多の技術者・担当者たちの中にK原さんとS水さんがいたのは確実だ。
二人が書いた部分も識別できた。
文体は統一されてたけど、なんとなく章ごとに雰囲気が違うので分かる。二人が残した内部資料なんかもあったからまず間違いなかった。
こんなすごいものを自分は作ることができるようになるのか?
まあ、そんな自問を心のどこかに置くようになったのだ。
そして二十数年ほど経った今でもその自問の答えは「そんなの無理」である。
決定的に頭の出来が違ったのだ。あれと同じものを新たに書けと言われても凡人には出来ない。
ただ、書かれていた章構成、内容、書き記す観点、配慮されている事項、そいうことが頭に染み付いたため、常に日銀ネットの「概念設計書」「基本設計書」をベースにして設計の方向性を考え開発するようになってた。それは自分の仕事を正確にしてくれた。
どこの現場でも、あの三冊の内容を理解していれば通用する。それが自分の強みだったと思う。
逆に上流工程の設計書を読まないで開発作業をすることが怖くなった。
新しい現場に行くと、上流設計書の在処を聞き出して真っ先に読んだ。尋ねられた人は「そんなことを最初に聞く人は初めてだ」と言われ名前を覚えてもらえて二度おいしいこともあった。
2015年、古い日銀ネットは新しい日銀ネットに切り替わった。
しばらくして1988年に稼働を開始した旧・日銀ネットは全面停止。
K原さん、S水さんたちが設計し、二十年以上稼働し続けて一度も致命的な障害を起こさなかった日銀ネット。
その上流工程設計書。
今ごろあの三冊の設計書は日銀の倉庫のどこかに保管されているのだろう。
もう二度と手にすることはない。でもすばらしい設計書だったと今でも思っている。それを書き上げた大先輩の技術者二人に感謝である。
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ここからは技術者の四方山話。興味ない人は飛ばして閉じてください。
その①
新人の時、K原さんとS水さんが揃っているところに、何か技術的なことで質問に行ったことがあった。
幸い打ち合わせが終わったあとだったので、会議スペースでそのまま質問を聞いてくれたのだけど、二人が私の質問の答えについて専門的な検討を始めてしまい、何を話しているのか全く分からなかった。当時は珍しかった最新のコピー機能付き白版に絵をかいてなんやかや意見を交換していたのはぼんやり見てた。
しばらくして検討が終わり、両目が「??状態」の新入社員に気が付いて、結論だけを簡単に教えてくれた。私としてはそれで充分だったけど、滅多に新人と話をしないので直接質問に来た私を珍しく思ったのだろうか。
最後にこんなことをK原さんとS水さんが言った。
「IMSを覚えればあと十年は食えるぞ」
「うん、そうだねえ」
え? と何を言われたかわからない私を置いて、二人は会議スペースを離れて自席に戻ってしまった。
IMSというのは、IBM汎用マシンに搭載されているDB/DCシステムだ。OSの直下で動いてデータベース機能とデータ通信機能を一手に引き受けているIBM純正でIBMが大事に育てている汎用機基本システム(後年ミドルウェアとかに分類されていた)のひとつだ。
当時は知らなかったけど、私が質問した内容はこのIMSの機能についてだったようだ。それで、そんなことをアドバイスしてくれたのだろう。
その後本格的に日銀ネットの無担保コールシステムと外為円決済システムの担当として仕事にのめりこんでいき、自然とIMSの知見を深めることになった。二人の「あと十年は……」の言葉もあって、IBMの純正マニュアルでIMSについても徹底的に読み込んだ。(すごい量のマニュアルだったけど頑張った)
日銀ネット稼働後四年して独立してから、様々な現場に行った。そのどこでもIMSが採用されていて、IBMでない現場はIMSのクローンつまりIMSモドキのシステムがあったりで、日銀での知見はそのまま通用した。
メガバンクなどはもちろん、今なおIMSは消費者金融や生損保のシステムで現役稼働してるし、聞くところによれば製鉄会社なんかでも稼働中とのこと。
K原さん、S水さん。
「十年どころか、三十年たってもまだ通用してるやん」
良い方に見通しが狂うあたり、やっぱりこの二人はすごい人たちだった。
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その②
本文中に「無担保コールシステム」というものが登場する。
これ、旧日銀ネット開発における黒歴史のひとつだったりする。
日銀ネット開発初期段階から、当座預金、準備預金、外為円決済と並んで「無担保コールシステム」の開発が明記されていて、最終的に結合テストのユーザー検証も済んで順調に開発が進んでいた。
個人的には全業務システム中、最も品質が高いのがこの無担保コールシステムだと思っていた。それは私の一年先輩の方たちがとても優秀で、ほぼ完ぺきに設計もコーディングもやり遂げてたお陰だ。
そこへ当時の大蔵省から通称MOF検が入り、莫大な期間と人員と資金を費やして開発してきた無担保コールシステムは「日銀が開発して提供するシステムではない」(市場の主体である短資会社らが作るものである)という鶴の一言により、総合試験を待たずして廃止された。
これを聞かされた時、たぶん私は十秒くらい死んでたと思う。
この無担保コールシステム、新人配属のときはバッチシステム、その後テスト工程に入ってから次第にオンライン、照会と担当範囲を広げて覚えてきたシステムだった。仕様はほぼ頭に入っていたしプログラムも聞かれたら即座にコーディング箇所が頭に浮かぶ程度にはなってた。
それが、稼働前に消滅である。
泣ける。
その後、業務システムとしては廃止にはなるが、あるプログラムだけは、日銀ネット全体の運用にからんで稼働させる必要があるということで、本番リリースすることになった。
それは私が新人のころから担当してたバッチプログラムで業務仕様がなかなか難しくて苦労した思い出のあるプログラムだった。
「せめてそれがリリースされるならちょっとは我慢できるかな」
……とか思ってたなあ。
その後。
まさか生きてるうちに、自分を育ててくれた日銀ネットが新システムに切り替わるとは思いもしなかった。
長生きはしたくないねえ。
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