第7話

   五、

 翌朝。――

 障子窓越しに差し込む朝日を感じ、悦子は飛び起きた。

 一刻ほどしか寝ていない計算だが、幸いにして頭も体もすっきりしている。

 身支度を整え寄宿舎を出ると、今朝もまた、いつもの場所に“朝の顔”が見当たらなかった。

(やはり……。私がなんとかして差し上げないと)

 そんな思いを強くしつつ、女学校の門をくぐる。

 何をすべきかは既に考えてある。昼過ぎに学校が終わると、悦子は真っ直ぐ寄宿舎に戻り、自室に籠もった。机に向かい、ペンを握って二通の手紙をしたためる。

 一通は出版社宛である。


 ――御社刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の記述に、誤りがあります。そのため深く傷付き、心痛のあまり健康を損ねている女性がおられます。是非とも筆者の方にお伝え下さい。その女性に直接お会いになり、正しい事情を取材なされて、記述の訂正をお願い申し上げます。


 はしたなくもうんうん唸りながら、一生懸命そのような主旨の文面を考え、改めて丁寧に清書した。

 もう一通は、実家のお父様宛である。


 ――私の恩人である、女学校舎監の女性が、とある小説の誤記に苦しんでおられます。出版社を通して筆者に訂正を要請したいと思います。たかだか小娘に過ぎない私が申し入れたところで聞き入れて貰えないかもしれませんので、是非ともお父様の方から、私のお手紙を出版社に届けて頂けないでしょうか。


 こちらもどうにか清書まで漕ぎ着け、小間使いを呼び悦子の実家へ届けるよう頼むと、そこで力尽きた。何しろ昨晩、あまり寝ていない。またもや夕食もとらず、寝床へ転がり込んだ。

 翌朝、いつものように起床した。熟睡し心身共に爽快である。身支度を整え、寄宿舎を出る。

 その、悦子のあとを追いかけるように、

「悦子お嬢様ぁ~っ」

 と昨夕の小間使いが走って来た。彼曰く、お父様は悦子の頼みを快諾してくれたらしい。

 はたして数日後、春陽堂書店社長の和田篤太郎と名乗る人物が、悦子を訪ねて来た。手紙の効果があった、と悦子は喜色を浮かべる。

「幸いにして」

 と、和田社長は悦子に語った。

 あの本、“汗血千里駒”の著者・坂崎紫瀾氏というのは、執筆に関しては誠実な御方だ、と。小説とはいえなるべく正しく書き記そうと、常に様々な人に逢って取材を重ねているのだとか。

 そして過去の記述に誤りが判明すれば、頻繁に訂正を入れているというのである。

「それは、よろこばしゅうございますわ」

「ですが、その坂崎紫瀾氏は現在、土佐か京のいずれかにおられるのです。どちらにせよ、氏が東京に来られて改めて取材……となると、随分先の話になるかと」

「なるほど。それは困りますわねえ……。いかがいたしましょう」

 されば、と和田社長は、まず私めが舎監さんに取材を行いましょうと提案してきた。それを然るべき媒体に発表し世間に公表する。坂崎氏の小説に関しては後日改めて対応してもらう、というのである。

「そういう事であれば、舎監さんも納得して下さるかもしれません」

 悦子は和田社長を待たせて舎監さんの部屋を訪れると、彼女にその旨説明した。舎監さんは、

「悦子さん、ありがとう」

 と礼を述べて下さり、和田社長の取材を受け入れてくれた。

 小間使いに命じて別室に席を用意すると、舎監さんと和田社長の対談が始まった。

「あの本に書かれている、坂本龍馬様とご縁のあった女とは……このわたくしの事なのです。神田お玉ヶ池千葉の娘“光子”ではなく、桶町千葉の次女、さなゝゝでございます」

「ほう」

「お玉ヶ池千葉はもとより桶町千葉にも、光子という名の子女はいないのです」

「ああ、なるほど。つまり小説序盤に登場する千葉道場の女丈夫とは、あなた様でございましたか。大千葉の“光子”は全くの誤りで、正しくは小千葉のおさなゝゝ様……と」

「ええ」

 舎監さんは冷静に、淡々と、在りし日の龍馬との出来事や、思いの丈を語った。

 彼女の話から想像するに、龍馬との関係は実質一〇年にも満たない。

 が、そこにはひとりの女性の人生そのもの、愛と苦悩、葛藤など全てが――全てと言ってよいものが――あった。舎監さんの傍らで耳を傾けていた悦子は、時勢に翻弄されつつもひたすらひとりの男性を愛し通した気高き女性の、凄まじい想い、いや想いの熱量に圧倒され続けた。そしてそれが全て失われた後の、虚しさ、哀しさに改めて涙した。

「いやはや……。なんとも数奇な運命をお持ちのようで」

 舎監さんが全てを吐露されると、和田社長はペンを置いて額の汗を手拭いで拭きながら、感嘆の声を漏らした。

(そんな陳腐な言葉で表せるような、容易い人生ではありませんわ)

 悦子は舎監さんに同情し、内心切歯扼腕の思いがしたが、しかし和田社長にしてみれば仕方ない事だろう。悦子だって、自ら感じた事をすべからく言葉に表せるものではない。それこそ先日、涙を堪えられなかった舎監さんに対し、かけるべき言葉を失ってしまったではないか。

 それでも、

「おさな様のやるせないご心情、この和田もとくと承知致しました。心よりご同情申し上げます。この件、必ずや著者坂崎氏に伝えますので、何卒気を落とさず……。おさな様の今後の人生に幸あらんことを」

 と寄宿舎を辞する和田社長に、

「ありがとうございます」

 と、微かな笑みを見せつつ頭を下げる、舎監さんの様子を見て、

(これで少しは、舎監さんのお力になれたかしら。何か吹っ切れたようなお顔をなさっていらっしゃる)

 と感じた。若い悦子は、ひとつ大きな仕事を成し遂げたかのような、手応えを感じた。

 もっとも、この対談がいつ、どこに発表されるのかは判らず終いとなった。程なく悦子は女学校を卒業し、それと前後して舎監さんも、

 ――老齢のため

 と、職を辞したためである。

 今後のお住まいを尋ねるいとまもなかった。悦子の、舎監さんとの縁は、それっきりとなった。

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