第8話
六、
とはいえ、多少の後日談がある。
華族女学校卒業後のある日、悦子は父の代理として、とある祝宴に出席した。そこで偶然、一人の紳士の面識を得たのである。
紳士は自らを、板垣退助と名乗った。
「板垣伯爵様のご尊名は、存じ上げておりますわ。お目にかかれて光栄に存じます」
近頃すったもんだの挙げ句、伯爵に叙せられた人物である。陛下が維新の元勲・板垣に爵位を授けようとするも、板垣が再三固辞し、先日ようやく拝受に至ったという記事を、悦子も新聞で読んでいた。
「お若い方にそう言って頂けると、実に嬉しいですな」
板垣は破顔した。見事な髭の、堅そうな風貌とは異なり、意外にも気さくな紳士である。
(そういえば……)
ふと気付いた悦子は、そんな板垣に尋ねたものである。
「板垣伯爵様は、確か土佐のご出身でございましたね。土佐といえば、坂本龍馬様をご存知でしょうか」
「おおっ!」
板垣はふいに奇声を上げた。
「ご存知もなにも、坂本先生はそれがしの遠い親戚にあたります。板垣今日
龍馬とは同世代、土佐における身分も板垣の方が上ながら、板垣は龍馬を
「えっ! まさか、ご親戚でございましたか」
今度は悦子が、驚きの声を上げる番だった。
「ん!? 坂本先生が、何か?」
「いえ、実は……」
悦子は初対面の板垣に、あの舎監さんの事を話した。板垣は幾度か小さく頷きながら、じっと悦子の話に耳を傾けていたが、次第にその顔色が変わってきた。
「ふむ……。坂本先生が北辰一刀流の皆伝を得ている事は、地元土佐で知らぬ者などおりますまい。その千葉道場のご息女と
「どうやらそのようでございます。ご本人様がそう語っておられました。その
「ほう、片袖……。坂本先生、ああ見えてなかなか粋な事をなさるものですなぁ。……おお。羽織といえば坂本先生は、確か、明智の桔梗紋でしたな」
「そうです。まさしくその、桔梗紋でございました」
ふむ、と唸りつつ板垣は腕を組む。
「その女性の、現在のお住まいはどちらで?」
「それが、よくわからないのです。私も女学校を卒業しましたし、舎監さんもいつの間にかお辞めになってしまわれまして、どなたに尋ねても行方が知れないのです」
「左様ですか。……一族皆亡くなられて、お独り身と仰いましたな」
しばらく思案していた板垣は、ふと顔を上げ悦子を見ると、
「その
「千葉さな様、でございます」
「はぁ~っ!?」
板垣はまたもや、大声を上げた。
「そのお名前に、心当たりがある」
「それは、その、どういった……?」
「それがし、こう見えていささか多忙の身でありましてな。お陰で近頃、どうにも体の加減が良くない。そこで、先日たまたま見かけた灸院に立ち寄り施術を受けたのです。そこの看板が“千葉灸治院”。先生は歳の頃四〇ほどのご婦人で、それがしの記憶が正しければ、お名前は千葉
「あっ! 多分、その御方です。実際のお歳は五〇ほどの筈ですが、お綺麗な方で、一〇はお若く見える」
「なるほど。されば間違いなさそうだ。……うむ、なんと奇遇な」
彼は後ろを振り返り、小田切君小田切君、ちょっと来たまえ、と一人の恰幅の良い紳士を呼び寄せた。
この者は我らが同志で、甲斐の小田切謙明君……と板垣は紳士を悦子に紹介する。
「小田切君。貴君も随分と体にガタがきていて、あちこち加減が悪いと常々ボヤいておったな」
「はあ。恥ずかしながら」
「では早速、千住のとある灸院を探して通いたまえ」
「え?」
「千葉灸治院、と看板が出ておった。主は、どうやらあの坂本先生の許嫁という
「坂本先生の!? それはそれは……」
「あいにく、儂も場所をよう憶えておらぬ。かと言うて、あの辺りは娼婦宿など多い土地柄ゆえ、儂がうかつにウロウロ探し回るのも憚られる」
うっかり爵位なぞ授かるものではないのう、不自由でかなわぬ、と板垣は頭をかきつつ笑い、悦子と小田切もつられて笑った。
「なるほど。そういう事情でしたら、小生にお任せあれ」
「うむ、頼んだぞ。繁盛しているように見えたが、その割に金銭的にはあまり恵まれておらぬようだった。身寄り無き老女の一人暮らしぞ。手助け出来る事があれば、是非手助けしてやってくれ。坂本先生の許嫁とあらば、捨て置けぬ」
「承知致しました」
「あの……」
悦子は小田切に問いかけた。
「私も、舎監さん――千葉さな様――にお逢いしたいですわ。お住まいが分かりましたら、私にも教えて頂けないでしょうか」
「う~む」
小田切ではなく、板垣が首を捻る。
「千住というのは昔、岡場所がありましてな。あまり土地柄がよろしゅうないのです。華族の若いお嬢様が足を踏み入れるのは……いかがなものでしょうかな」
そう渋る板垣に、
「まあ住所が判明しましたらば、悦子様がその女性とどこか他所でお会いできるよう、はからいましょう」
と、小田切が提案してくれた。
それは助かりますわ、と喜んだ悦子だったが、この話もまた、それっきりとなった。板垣も小田切も多忙の身で、その後全く連絡が取れなくなった。
悦子自身もまた、舎監さんの姿に影響を受け、変わりつつあった。
あの日、舎監さんの力になりたいと必死になった頃から、
(華族女学校にて新たな学問を授かった私は、何を為すべきか。この時代にあって私は如何に生きるべきか)
を真剣に考えるようになったのである。
この国を守ろう、と多くの志士達が命懸けで新たな時代を切り拓いた。舎監さんからそう教わった。ならばその
(自身の生き様、
ならばこそ、常に信念を持って行動する。自身を無力と嘆き諦めず、今の自分に出来ることを考え、ひとつひとつそれを着実に実行する。そう心掛け、漠然と日々を暮らすのではなく、他人のため積極的に動くようになった。
そのせいか次第に、
――是非、悦子様のお力を拝借したい。
と、あちこちから声が掛かるようになり、にわかに忙しくなった。たまの休みにふと思い立ち、書生を伴って千住を歩いてみたが、“千葉灸治院”の看板を探し当てることは叶わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます