第6話

   四、

「わたくしは武家に生まれ、しかも女だてらに剣の腕を仕込まれたでしょ!? ですから気負っていたものです」

 そう言って舎監さんは、傍らのお茶碗を手に取ると、半ば冷えたお茶を一気に飲み干した。

 舎監さんの語るその男は、ちゃらんぽらんな人間に見えたが、腹に秘めたる覚悟は本物だったらしい。嫁なぞ貰い、その覚悟がおろそかになるようでは困る、と彼女を袖にした。

「当時わたくしは、女に生まれてきた事を酷く恨んでいたものです。わたくしは男に生まれたかった。男として生まれ、志士として我が国のために命賭けで戦いたかった。坂本様と共に生き、共に戦い、共に死にたかった。想い、慕う人というのみならず、同志でありたかったのです」

 黒船来航の際、龍馬は近所の土佐鍛冶橋藩邸から召集がかかり、不測の事態に対処すべく同・品川藩邸に詰めた。

 千葉本家の従兄弟達は、仕官先である水戸藩の屋敷に詰めた。兄・重太郎も、

 ――龍さんと共に戦わん、

 と、剣術の稽古着に鉢巻姿で土佐品川藩邸をたずね、

 ――尊藩の人員の末席に加えて頂きたい。

 と頼み込んだ。

 なんと舎監さんも、女ながらこれに同行したらしい。

 兄に倣い稽古着を着け、髪を後ろで縛って鉢巻し、渋る兄を説得して土佐藩邸を訪れた。

 彼女にしてみれば、藩邸に詰めている龍馬同様、国難を憂えるいっぱしの“志士”のつもりだった。腕におぼえがある。天下の千葉道場でさえ、剣の腕で自分に勝る者など指折り数える程しか居ないではないか。大概の男に引けを取らぬ働きができる、と自負していた。兄や坂本様と一緒に夷人共と戦うべし、と勇んでいた。

「それが、いつの間にか坂本様への想いを自覚するようになり、そして坂本様の覚悟を耳にし……。わたくしは所詮、女なのだ、と。そう悟った瞬間から、では女としてどう生きるべきなのか、解らなくなってしまったのです」

 わたくしは北辰一刀流千葉家の娘として生きるのではなく、坂本様に妻として寄り添い、ずっと夫を支え続ける。そういう生き方でも良い、と決意しましたの。

 武家のおなごとは、本来そうあるべきなのです。主人あるじが国のために命を捨てると覚悟したならば、妻たる自らも主人と覚悟を共にする。――

「わたくしは幸い、剣の腕がありましたからね。妻として坂本様と覚悟を共にし、自らも剣をとって、国のため命を捨てようと思いました。武家のおなごならばこそ、当然そうあるべきと思ったのです。……でも」

 そういって、舎監さんは寂しそうに笑った。

 坂本様のお考えは、違ったのです。おさなさんに無用の苦労をかけるわけにはいかない。儂はこの乱れた世において、いつ命を落とすとも限らない。おさなさんを未亡人やもめにするわけにはいかぬ、と。或いは儂が幕府に捕まり、千葉家に迷惑をかけるわけにもいかぬ、と。

 結局坂本様は、世が平穏を取り戻し、その時まだ儂が生きていれば、一緒めおとになりましょう、と。――

「お互いの想いも同じ。天下国家の為に命を捨てる、という覚悟も同じ。されど、やはりお互いのおかれた立場が違ったのです。わたくしは結局、剣の名門・千葉家の娘でした。わたくしの身勝手で、千葉家の名を汚す事は決して許されなかった。だから二人の縁は、実を結ぶことがなかった」

「はあ……」

「その時の事、なのです」

 舎監さんはそう言うと、悦子が膝の上に置いていた羽織の片袖を、てのひらで指し示した。

「それが、わたくしと坂本様の“婚約のあかし”だそうですの」


 悦子はそれを改めて手に取ると、ひろげてみた。

 大事にしていたのだろうが、これまでに幾度も洗濯を重ねたらしく、随分と色せている。

 中ほどに、紋が入っている。これまた色褪せ、今にも消えそうである。悦子はそれに見入った。

「この御紋は?」

「そうね。悦子さんのお年頃でしたら、もうご存知ないでしょうね。それは“桔梗紋”です」

 そう言って舎監さんは、窓際に目をやり、悦子の置いた小鉢の花を指し示した。

「奇しくも、あのお花……悦子さんが持ってきて下さったあのお花と、同じですのよ」

 悦子は驚き、目を丸くした。

(あっ。お花と同じで、この御紋も星のような形をしているわ)

 なんでも越前のお殿様(松平春嶽)から拝領した、大事な羽織だったらしい。とはいえ、早々から汚れまくってボロボロになっていたらしいのだが……。

 ――儂はこうして貧乏しちょるキニ、ゼニも何もない。結納の品なぞ渡せんキ。

 龍馬はいきなりその大事な――とはいえ、着の身着のままゆえ汚らしくボロボロだが――五つ紋の片袖をビリビリと破り、少し離れて控えていた彼女に手渡した。

 呆然と片袖を眺める彼女に、龍馬は、

 ――それを結納の品、いや、ふたりの約束の証と思って下さいおもうとーせ

 と言った。父の定吉も龍馬の意を酌み頷くと、返礼として龍馬に小刀を与えた。

「ですが」

「ですが……?」

「坂本様とは、それっきりになってしまったのです」

「それから一度もお会い出来なかったのですか?」

「そうですの。バタバタと諸国を駆け回っていたようで、たまに江戸にいらしても、すぐとんぼ返りばかりだったようです」

「まあ」

「そして気が付けば、王政復古の大号令が下され、官軍が江戸の街にやってきて、彰義隊などが暴れ江戸の街がひっくり返ったような騒ぎとなり、それがようやく落ち着いた頃……」

「……」

「あの御方は、それより一年も前に、京にて暗殺されていたらしいと知ったのです」

「何とまあ……」

「その本を読んでいて、その頃の事をあれこれ思い出してしまいましたの」

 舎監さんは、黙って俯いてしまった。


 舎監さんは昨日の朝、悦子達の登校を見届けると、この本を読み始めたのだという。

 坂本様とやらとの思いに耽り、随分と気落ちしたのだろう。

「おまけに……」

「え!?」

「その本には大きな誤りがあるのです。筆者の方――坂崎紫瀾しらん様と仰るようですね――が、どなたからお聞きなさったのか分かりませんが、わたくしのことを誤ってお書きになっているのです。坂本様と恋仲にあったのは、わたくしではなく本家・お玉ヶ池千葉の娘――つまりわたくしの従姉妹――と勘違いなさっているようで」

「え~っ! それはまた、何と言うか……本当にお気の毒」

 悦子は舎監さんの心中を察し、我が事のように悲痛な思いがした。

 当の舎監さんからすれば、随分と哀しく、そして悔しいことだろう。まだまだ人生経験の浅い、一〇代の悦子でも、それくらいは充分察しがつくというものである。

 されど、何と慰めて良いやら言葉が浮かばない。お気の毒なんてありきたりな表現しか口をついて出て来ないではないか。自身の未熟さが、ただただもどかしい。

(女学校に通わせて頂いて、日々色々と学んでいる筈なのに、何も活かせない)

 腹立たしさすら覚え、やるせない。

 そんな悦子から、舎監さんは視線を逸らすかのように俯く。

「あの御方の壮絶な最期。あの御方を支えて共に生きたい、と願っていた当時のわたくしの想い。その死を耳にし即座に自害さえ決意した事。今なお、坂本様に抱くわたくしの想い。……それら何もかもが、筆者の方の誤りによって水の泡にされてしまった、と申し上げたら良いのでしょうか。上手く言い表せないのですが、とにかく我が身の全てを否定されてしまったかのような、虚しさを感じているのです」

「……」

「北辰一刀流千葉の家名を守るべく、わたくしは坂本様とのご縁を諦めました。そしてあの御方は非業に斃れ、わたくしのみ生き永らえた。皆が大層な思いをしてようやく新しい世を迎えてみれば、わたくしのような武家の人間は不要になった。そして千葉道場は無くなり、千葉家の男達も皆、死去した」

「……」

「おまけに本にまで、わたくしのことが誤って書かれているのです。わたくしがこの世に生を得た意味は、結局何だったのでしょうか。わたくしの“生のあかし”は、どこにあるのでしょうか。……昨日その本を読み、わたくしの人生全てが霞の如く消え去ったかのような、虚無感に苛まれたのです」

 そう言うと、ここまでずっと堪えていたものが、舎監さんの切れ長な目の両端から溢れた。

 それは老いし女性の、魂の慟哭とでも言うべき切々たる訴えであった。未だ人生経験乏しい悦子にとって、荷の重過ぎる問いかけでもあった。

 彼女の心の痛みは、なるほどよく解った。しかし若い悦子には、自身の母親よりも歳上の彼女に、なんと声をかけて慰めて良いやらわからず終いだった。ただただ、立ち上がって彼女の肩を抱くように寄り添い、その手をとって握りしめ続ける事しか出来なかった。ひたすら自身の未熟さ、無力さに歯噛みした。


 小半刻ほど、そうしていただろうか。

 気が付けば、舎監さんの質素な部屋はすっかり暗くなっていた。

(もう真っ暗……。随分と長居してしまいましたわ)

 悦子は舎監さんの部屋の灯りをともし、手を叩いて小間使いを呼ぶと、舎監さんの夕食を持参させた。

「この本、数日お借りしますね」

 そう断って本を手に取ると、舎監さんに丁寧に挨拶して部屋を辞した。

 そして食事もそこそこに自室に籠もり、読み耽った。新聞連載の長編小説らしいが、龍馬の登場しない場面は流し読みしつつ、ほぼ一晩かけて目を通した。灯りの油を随分と使ってしまったが、まあ今晩だけは仕方ない、と自身に言い訳する。

(そうそう……)

 最後に、本の奥付おくづけに目を通した。

 舎監さんも仰っていたように、筆者は土佐の坂崎紫瀾しらんという方らしい。出版社は“春陽堂書店”と記されている。

(住所は……京橋区南伝馬町ね)

 そう確認し、いろいろと思案を巡らすうち、そのまま寝入ってしまった。

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