第2話
「それなる女性は、さる御華族のご子女である。彼女に無礼をはたらく
舎監さんは冷静に、しかし毅然とした口調でそう告げると、携えていたカンテラを私に預けつつ厳しい目つきで男達を睨みつける。が、彼らは、
「威勢の良い
と意にも介さず、うち一人が悦子の手を無理矢理引いて、肩を抱き寄せようとしたのである。
刹那、
――どすっ!!
と鈍い音が響き、次の瞬間男がうめき声を上げながらその場に崩れ落ちた。
恐怖のあまり腰の抜けかかった悦子もまた、つられてその場に尻もちをついた。
震えつつ舎監さんを見上げると、彼女はどこから取り出したのか、右手に脇差の如き木刀を握り、傍らに居た別の男の篭手を一瞬にして
(すっ、凄い……)
流れるような一連の動作で、たちまち三人を無力化した舎監さんは、短い木刀の切っ先を残る男達に向ける。
その身のこなしに、一切無駄がない。素人目にも相当な達人と判る。なにより驚かされるのは、舎監さんの目に何の動揺も感じられないのだ。ただ淡々と、目前の不逞の輩を排除すべく、なおも連中を冷静に睨みつけた。
さすがに連中も、舎監さんの秘めたる技量を察したらしい。
「ヤバい! ズラカるぞ」
身を翻してバタバタと暗闇に逃げ去った。
地面に尻をつき両腕を後ろに突っ張って呆然としていた悦子を、
「もう大丈夫ですよ」
と、舎監さんは何事も無かったかのような飄々たる表情で、助け起こしてくれた。そして、騒ぎを聞きつけ顔を出す周囲の住民達に、
「邏卒を呼び、見たままを報告して下さい。こちらの女性は華族女学校の御
と声をかけ、なおも怯え震える悦子の肩を支えつつ、夜道を寄宿舎まで戻ったのである。
悦子にしてみれば、あの時の出来事は生涯忘れられないだろう。
(舎監さんは、私の身を護ってくれた)
という思いがある。
いわば大恩ある大事な御方なのだ。
(幸いにして私は華族の子女ゆえ、いざという時はお父様にお願いすれば、多少のお力添えは出来るかもしれない)
だからこそ悦子は、こうして彼女の見舞いを思い立ったのである。今こそささやかながらも、あの時のお返しをしたい、と。――
「
「そうですね……。ありがとう」
そう言って力なく笑う、舎監さん。ちょっとだけ何やらご思案の様子だったが、
「ではしばらく、この老婆の愚痴に付き合って頂けますか」
と、悦子に寂しげな笑顔を投げかけた。
悦子はその笑顔の中に、かつて凛々しい美女であっただろう頃の面影と、その長い苦悩を垣間見たような気がした。
悦子は手を叩いて小間使いを呼び、舎監さんに日本茶、自身に紅茶を用意させた。
それから室内を見回してちょっと思案した後、見舞いの小鉢を窓脇に飾った。何の飾り気もない、質素な舎監さんの部屋。そんな中にあって、可憐な淡い青紫の花は、随分と映えた。
とはいえ、裕福ならずとも
それでも、素朴ながらも凛とした気品が感じられ、
(まるで舎監さんみたい……)
と嬉しくなった。
これでよしとばかり、ちょっと満足げな顔で頷く、悦子。それを何故か感慨深そうに眺めつつ、依然寂しげに、しかしちょっとだけ嬉しそうに微笑む、老女。――
二人、向かい合うように椅子に腰掛けた悦子に対し、その老女は、
「わたくしは、北辰一刀流・千葉一門の娘として生まれ育ちましたの」
と、自らの出自を名乗ったのである。
「千葉一門?」
悦子は小首を傾げる。
「そうよね。お若い悦子さんは、ご存じないですわね」
再び寂しげに微笑む、舎監さん。
「丁度悦子さんがお生まれになった頃でしょうか。廃刀令が発令され、武士の時代が終わりましたの。その前はまだ
彼女の説明によれば、かつて江戸と呼ばれた
「我が千葉一門は、その一つですのよ。千葉一門の武名は全国隅々にまで知れ渡っていました。北辰一刀流の創始者、千葉周作。そしてその弟にあたる、千葉定吉。それぞれ神田お玉ヶ池と京橋桶町に道場を構え、大勢の門弟を育てたものです。わたくしは、その桶町道場・千葉定吉の次女なのです」
「はい」
「わたくしは武家の女としての修養以上に、千葉一門の娘として、北辰一刀流の武術を学ばされました。小刀の皆伝を得ていますし、薙刀の師範でもありますのよ」
なるほど、と悦子は思った。だからあんなに強かったのか、と。
不逞の輩数人に囲まれても、全く動じず一歩も引かず、一瞬にして淡々と三人を叩き伏せた腕前。そういう事だったのかと腑に落ちた。
「それで……何故、そんな御方が」
「そうね」
悦子の疑問に察しがついたらしい。またもや寂しそうに微笑む、舎監さん。
「世が世なら、わたくしも武家の娘として不自由なく育ち、良縁あらばどなたか殿方と
しかし
「身寄りもなく、女一人で当世を生きてゆくのは、なかなか大変ですのよ。世も大きく変わりましたからね。まあ幸いにしてわたくしの場合、北辰一刀流の門弟があちこちにおりましたから、その伝手で、こうして女学校舎監のお役目をお世話して貰えましたけれど」
彼女によると、千葉一門の男達は、常日頃の厳しい修業のせいか皆早逝したらしい。
「唯一残った兄・千葉重太郎も、蝦夷――そうそう、今は北海道と言うのでしたね――その北海道で開拓使のお役目を奉じ、その後は京にてお勤め。……ええ、遠方ですから疎遠でした。ですがその兄も、つい先日亡くなったそうですの」
「それはまた、大層お気の毒に」
「まあ、そんなわけで一族が皆、死に絶えてしまいましてね。少々気落ちしていましたが、それも仕方ない事と思っていましたの。……そんな折も折」
ふう、とひとつ大きな溜め息をつくと、彼女は一冊の本を悦子に手渡す。
「先日、こちらを書店の店先で見かけまして、買い求めたのです。で、昨日読んでいたのですが」
そう語る彼女の表情はますます陰鬱とし、今にも涙が零れ落ちそうな有様だった。それを気丈にも必死で耐えている、という面持ちである。
「立ち入った事をお聞き致しますが」
悦子は彼女にそう断り、
「何故、舎監さんはお独りなのですか。……いや、舎監さんならばお若い頃はさぞかしお綺麗で、縁談も引く手あまたでしたのでは?」
と、問うた。
おほほほ、と彼女は一転、わずかに表情を綻ばせた。素の笑みを見せた。
「お若い悦子さんに、こんな話を申し上げるのも気恥ずかしいのですけれどね。わたくし、これでも若い時分には“小千葉小町”だとか“千葉の鬼小町”などと呼ばれたものですのよ。いや鬼小町なんて、褒められているのだか貶されているのだか、よくわかりませんけれども」
「ええ、そうでしょうそうでしょう。昔はホント、お綺麗だったとひと目でわかりましてよ。今でも肌艶がよろしくて、随分お若く見えますもの」
「ありがとう。悦子さんのような、お若い方にそう言って貰えますと、婆も嬉しくなります」
ふふふ、と二人して笑う。
「こんな、腕っぷしの強い鬼娘ではありましたけれど、有り難いことに縁談なども幾つかございましたのよ。水戸様や因州様、宇和島伊達様の御家中の、それぞれしっかりしたお家の方々の」
「ええ、そうでしょうとも」
「
「わかります」
舎監さんの表情が緩む。が、それも束の間、
「でも、わたくしが心に決めた殿方はひとりだけ……」
そう言うと、彼女の表情がにわかに曇った。
その手にはいつの間にか、どこから取り出したものか、何やら黒い布切れらしきものが握りしめられていた。
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