桔梗一凛

幸田 蒼之助

第1話

   一、

 いわゆる“朝の顔”というものがある。

 その寄宿舎から華族女学校に通う女学生達にとって、“朝の顔”といえば、ひとりの老女であろう。彼女は毎朝、寄宿舎の先、女学校舎の門にほど近い場所に立ち、女学生達と会釈をかわす。

 ところが今朝は、その“朝の顔”たる老女の姿が見当たらなかった。

(やはり……)

 彼女に何かあったのだ、と悦子は思った。


 ちなみに、彼女を老女ゝゝとお呼びするのはいささか失礼かもしれない。

 既に四〇代の後半だと聞いているが、とてもとても、そうは見えないのである。三〇半ばだと言われても、みな素直に信じてしまうだろう。それこそ悦子の母親より若く見える。

 凛としていて背筋が真っ直ぐに伸び、学舎へと通い来る私達女学生一人ひとりに、丁寧に会釈するお方。いつも血色がよく肌艶も良い。若い頃はさぞかし美人ともて囃されたに違いない。

 老女は、昼過ぎに私達が寄宿舎へ戻る時もまた、朝と同じ場所に立っていて私達を出迎えてくれる。

 何故か常に、ひと昔前の剣術の稽古着姿で、ぴしりと姿勢を正している。そのせいか少々近寄り難い雰囲気をまとっているものの、私達に向けるその眼差しは温かい。女学生個々の表情を見守り、体調の悪そうな者にはさり気なく気遣いの言葉をかけ、何か悩みでも抱えていそうな者の手を取って傍らに引き寄せると、事情を聞き相談に乗る。

 ――舎監さん

 と、畏れ半分親しみ半分で皆は呼んでいる。あたかも母親のような存在と意識し、何となく信頼を寄せていた。

 我が華族女学校には、随分と厳しい“学生心得”がある。そこに、

 ――談話は常に話題に注意し、決して他人の身上に関して批評を試むるが如きことあるべからず。

 と定められている。

 なので誰も、その老女――舎監さん――の本名さえ知らないし、学友同士で噂し合う事もない。皆、少なからず気になってはいたが、

(どこぞの武家のお出でいらっしゃるのでしょう)

 と、何となく認識している程度……である。

 若い時分に余程鍛えているのか、日頃風邪ひとつひかないお体のようで、休日以外、お顔をお見かけしない日はないのだ。しかし昨日きのうの昼過ぎ、悦子達女学生を出迎える舎監さんのご表情は、どんよりと重く沈んでいた。

(どこかお体のお加減が悪いのでしょうか。それとも何か、心痛でもお抱えなのかも)

 立っているのも辛そうだ、と悦子は感じた。挙げ句、今朝方はその舎監さんのお顔が見当たらないのである。

(うん。お見舞いに行ってみましょう……)

 悦子は授業合間の休憩時間に小間使いを呼び、生姜や玉子など、滋養のつきそうな食材を買いに走らせた。また放課後になると、自ら学舎おもての花壇に足を運んだ。

(これで良いかしら)

 既に秋口だというのに、そこにはたくさんの花が、健気に咲き誇っていた。

 淡い青や、それより幾分紫に近い、可憐な花びらを星のようにひろげている。

(可愛らしいお花だから、花瓶に差して飾るより、小鉢に植えて差し上げた方がよろしいかも)

 悦子は係の者の許しを得て、隅の方の数本を分けてもらうと、小さな鉢に移し替えた。

 そして女学校の門を出た。

 やはり、いつもの場所に彼女の顔は見当たらない。悦子は真っ直ぐ、寄宿舎の片隅にある舎監さんの部屋へと向かうと、扉を軽くノックして中へ声をかけた。

「どうぞ」

 案の定、悦子の呼びかけに応える彼女の声に、いつものハリがない。

「失礼致します」

 ドアを開け、悦子は室内へと足を踏み入れた。


 その老女――舎監さん――はとこに臥しているかと思いきや、意外にもこざっぱりとした格好で窓際の椅子に座っていた。

 勿論、普段の稽古着姿ではない。とはいえ部屋着なのか質素な着流しを身に着け、髪なども整えられている。

(お風邪などめされたわけではないのですね)

 悦子はちょっと安心したが、しかし相変わらず舎監さんの表情はすぐれない。椅子に腰掛けているのも辛そうで、凛とした日頃のお姿とはまるで別人である。

「お体の具合がお悪いのかと思いまして……。お見舞いに伺いましたの」

 携えてきた見舞いの品々を、差し出す。

「それは恐縮です。お気遣い、ありがとうございます」

 舎監さんは丁寧に頭を下げて悦子に礼を述べると、受け取った品々を傍らの小机に置いた。

「生姜湯か玉子酒か、作らせましょう。どちらがお好みでしょうか」

 手を叩いて小間使いを呼ぼうとする悦子を、舎監さんは、

「いえ。風邪などではないので、ご心配にはおよびません」

 と手で制する。

「でも……どこかお悪いようにお見かけしますが。どうなされたのですか」

 悦子は小首を傾げた。

「少しばかり、気落ちする事があっただけです。大丈夫ですよ」

 切れ長の目を細め、微笑む、舎監さん。悦子に投げかけられたその弱々しい笑みには、四〇代後半とは思えぬ色気がわずかに滲み、同性ながらも一瞬ゾクリとさせられた。

 とはいえ、そこには常日頃の舎監さんらしい覇気が、まるで感じられない。一夜にしてひと回りは老け込まれたか、と心配になる程である。

「ご心配事ですか……。もしよろしければ、お話し下さいませんか? 多少なりとも、わたくしにもお力になれることがあるやもしれません」

 そう口にする悦子には、それなりの理由がある。他の学友達とは異なり、目の前で辛そうにしている舎監さんに、かつて少なからず世話になっているのである。

 というのも、まだ悦子が華族女学校に入学したばかりの頃、実家から急用ありと呼び出された事があった。

 丁度近所へ外出していたため、実家からの使いは悦子に会わないまま、言伝ことづてだけ残してさっさと戻ってしまった。夕刻、寄宿舎に戻った悦子はそう伝えられたものの、若い娘一人で実家へ帰るには幾分遅い頃合いである。折悪しく小間使い達も引き払っており、いかにして実家へ戻るか途方に暮れた。

「さればわたくしが、ご実家へお供致しましょう」

 そう助け舟を出してくれたのが、他ならぬ舎監さんだった。舎監さんは手早く身支度を整え、カンテラ片手に悦子と一緒に、夜道を歩き実家へと急いでくれたのである。

 実家での用事を済ませ、明日も授業があるからと無理して再び夜道を戻った帰路、その事件は起きた。二人は、酔っ払った数名の良からぬ連中に囲まれたのだ。

「おう、可愛いお嬢ちゃんじゃぁねえか。ちょいと酒に付き合っておくれよ」

 酒臭い男達に手を引かれ、悦子は震え上がった。悦子は維新後に生まれた温室育ちの令嬢ゆえ、かつてこれほど恐ろしい経験をしたことがない。腰から下の力が抜けガクガクと膝が笑い、恥ずかしながら失禁しそうな程、恐怖した。

 その時、

「下がりなさいっ!」

 闇夜を貫かんばかりの鋭い声を放ったのは、傍らの舎監さんだった。

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