第3話

   二、

 舎監さんの語る“殿方”とは、実に奇っ怪な男だったらしい。

「南国土佐から出府したばかりの、それは大きな殿方でしたの。入門初日、わたくしも父や兄と共にその殿方と挨拶を交わしたのですが、なんでも裕福なお武家の次男坊だとうかがったのに、お召し物が……妙に小汚いのです。髪なども、野武士か何かのようにボサボサで」

「はあ」

「当時は縞の仙台平が流行っていましてね。その御方もやはり、仙台平をお召しでした。国許をつ時に仕立ててもらったというお話なのですが、随分上等の生地なのに既にヨレヨレで……。しかもお腰の回りに妙なガラが入っているのです」

「柄!?」

「そう。縞なのに、黒丸の柄が幾つも入っているのです。可笑しいでしょう!? 江戸では、そんな柄の袴なぞ見かけませんから、わたくしがつい、『その柄は、お国許土佐のふうですか?』と尋ねたのです。そうしたら……」

 男曰く、彼は書をしたためた後、筆先の墨を袴で拭う癖があるのだとか。

 ――昨日江戸に着いて、夜に手紙を仰山ぎょうさん書いたキニ、袴が墨だらけになっチュウ。

「あの御方は頭を掻きつつ、土佐言葉丸出しでそう申されたのです」

「うふふふ。面白い殿方ですわね」

「そうでしょう!?」

 そんな、どこかトボけた田舎男、ゆるゆるの次男坊に、気が付けばいつの間にかすっかり心を奪われてしまったらしい。

 剣術道場は大概、新たな入門者に対し師範が必ず立ち会い、その技量を確認する。処遇を決するためである。

 その男は、千葉定吉の跡取りたる兄・重太郎から見事一本を取り、早々から一目おかれる存在だった。入門当初こそ粗野な田舎剣術丸出しで、古参の熟達者らに歯が立たなかったものの、たちまち腕を上げ塾頭を務めるまでに至った。

「強いだけでなく、本当に面白い殿方だったのです」

 と懐かしげに語る、舎監さんの瞳には、あたかも年頃の乙女のような輝きが宿っていた。

 男は南国育ちのせいか、嵐の到来を察知する能力があったらしい。

 そんな日は誰よりも早く道場に顔を出し、褌一つになって道場の真ん中にどかりと座っているのである。そして次々とやってくる門弟に、

 ――おまんらも皆、裸になれ。

 と命じ、それから全員を複数の組に別ける。

 ――往け。

 と命じた第一陣は、触れ組である。町内を走り回りつつ、

 ――嵐が来るぞ! 備えを怠らぬよう。

 と大声で呼びかける。

 第二陣は、金槌と木切れを抱えて町内を回る。そして町家の屋根に上り、修繕して回るのである。第三陣も同じく、町家を回って雨戸に釘を打ち付け、風に飛ばされそうな物を片付ける。

「こうして門弟達が道場に戻って来る頃には、本当に風雨が強まり始めているのです」

 舎監さん達道場の女衆おなごしはその間、皆で甘酒を用意しておいて、作業を終えて戻ってきた男達にそれを振る舞ったのだという。

 彼らの働きは、近隣の住民達に随分と感謝されたらしい。

「面白いでしょう!?」

「そうですね。それが、舎監さんの想い人……なのですね」

「ええ。夫婦めおととなる約束を交わした殿方、なのです」

 そういって舎監さんは、手元の黒い布切れを悦子に手渡す。

(ん!? 何でしょう……これ)

 ひろげてよく見れば、それは羽織の片袖だった。


「奇妙な殿方だ、と思っていただけなのですけれどね、最初は。痩せていましたけれど背が六尺近くもあって、道場でも兎に角目立つのです。面を被っていても判りますのよ。気が付けば、いつも自然とそのお姿を目で追うようになって……。いや、小千葉の鬼娘には似合わない話ですよね。わたくしもちゃんと自覚しておりますのよ」

 おお恥ずかし、と舎監さんは赤くなり、袂で顔を覆う。その所作は、悦子と同世代の娘達と何ら異ならない。普段の舎監さんからは想像もつかない、意外な一面を見た思いである。

(可愛い……)

 自身の母親よりも歳上の舎監さんに対し、そう感じてしまった。親近感をおぼえた。

「その殿方とは、その後どのように?」

「あの御方は無事、北辰一刀流の免許皆伝を授けられ、道場の塾頭をしばらく務めたのですが、遊学の期限が切れてお国許の土佐に帰りました。ところが程なく、お国抜け(脱藩)して江戸に戻られたのです」

 当時は世が大いに乱れていて、

 ――徳川とくせんを倒し天子様中心の新たな世を築き、以って外夷に立ち向かうべし。

 と騒ぐ若者で溢れていたらしい。

 男もその一人で、旧態依然の土佐藩に見切りをつけ脱藩し、西国諸藩を巡った後江戸に出てきたという。

 桶町千葉はそんな男を暖かく迎え入れ、国抜けの罪人として土佐藩から追われる彼を、しばらく匿った。

「さような御方なのに、つい、また嵐の前日に以前と同じことをやったのです。それで付近の町家の者達に『あの背の高いお武家様が千葉道場に戻られた』と割れてしまい、更にはその噂が近くの土佐鍛冶橋藩邸に伝わって」

「そして藩邸から訴追の者がやってきて……」

「そうですの。おほほほ。そこはまあ、わたくし共も覚悟の上であの御方を匿っていましたから、すぐに道場の裏手から長州藩邸の方に逃がし、事なきを得ましたけれど」

「大変な殿方に惚れてしまわれたのですね」

「そうですのよ」

 ただ、男は兄・重太郎とも仲が良かったし、父・定吉も随分と男に目をかけていた。彼女が男に好意を寄せていることも、兄や父はおろか周囲にも漏れていたらしい。実は早い段階から、彼女の婿にどうだろうという話が為されていたのだとか。

「まあ! それは喜ばしいことですわ」

「ええ。あの御方は次男坊でしたし、本来ならば何の障害もなく、婿として我が千葉一門に迎え入れる事が出来た筈でした。本家・お玉ヶ池千葉の方でも、元々わたくしとあの御方との縁談に前向きでした」

「なるほど。……してその殿方は、何というお名前の御方でしょうか」

 悦子がそう問うと、舎監さんはそっと右の手のひらを、私の手許の本に差し向けた。

「土佐の、坂本龍馬、と申す御方です。その本に詳しく書かれています」

 悦子はちょっと驚いた。その名に心当たりは無いが、本に載るくらいだから大層な殿方なのではないか。

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