トワの広場でゆで小豆を売る【改稿版】

仲津麻子

第1部

第1話エリーネルの世界

 気がつくと、カーテンのすきまから光がさしこんでいた。キッチンの床にふせていたため体が痛かった。

 八穂やほは、手でトントン首のうしろをたたきながら立ち上がった。まだ、頭がぼんやりしていて、状況がよく飲みこめていない。


 確か夕方に帰宅して、買ってきた食材を冷蔵庫に入れた。それからお腹を空かせていた飼猫のリクに、キャットフードを食べさせ、自分も食べようと、トマトパスタとサラダを作って食卓に置いた。

 そこまでの記憶はあった。それからどうしたっけ、八穂は思い出そうとした。


 「そうだ、あの時、家が壊れそうなくらい揺れて」

 

 八穂は、大きな地震があったことを思い出した。

家が突然、床が波打つように揺れはじめたので、あわててガスの元栓を閉めて食卓の下にもぐりこんだ。

 食卓は、三年前に亡くなった両親が気に入って買ったカリン材のテーブルで、重くて丈夫なため、多少の揺れでは動かなかった。


 飼猫のリクは驚いてどこかへ隠れてしまったのか、いくら呼んでも姿を見せなかった。心配だったが、ひどい揺れでまともに立つこともできず、床にはいつくばったまま収まるのを待っていた。


 そのまま寝てしまったのか。八穂は食卓の上に乗っている冷めたパスタと、ひからびたサラダに目をやった。見るからに不味そうだったが、中身は置いた時のまま、こぼれてもいなかった。

 部屋は物が落ちていることもなく、帰宅した時のまま変わりがないように見えた。


 八穂は地震の情報を知ろうとスマホを手に取った。ニュースアプリを立ちあげようとしたが、ネットに接続できなかった。

おかしいな、八穂は首をかしげた。田舎住まいとはいえ、これまで繋がらないことなどなかったのに。

 

 不思議に思いながらも、スマホを置いて窓に近づいた。勢いよくカーテンを開けると、外は気持ちよく晴れていた。

 

 両親が残してくれた家は、八穂が一人で住むには大きすぎるほどの二階建て一軒家だった。近隣農家の広い敷地には及ばないが、庭には木が植えられていて、母が家庭菜園をしていた頃の小さな畑もあった。

 八穂も庭仕事が嫌いではなかったので、仕事の合間を見て、畑に野菜やハーブを植えたり、プランターで花を育てたりしていた。


 家を囲んでいる白い柵に目を移すと、根元に植えてあるパンジーは、昨日と同じように咲いていた。ところが、その先にあるはずの道がなかった。

 毎日自転車通勤するのに使っている道で、車がやっとすれ違える程度の田舎道だが、少し離れた商店街に続いているはずだった。

 

 それがなくなっていて、代わりに庭の先にはかえでのような木立が広がっていた。家の周辺は農地なので、こんなに木が生えているような場所はないはずだった。

 

 わけがわからず八穂は手で目をこすった。何度もまばたきしても、景色は変わらなかった。

 何が起きたのか、昨夜の地震で道が消えるなんてあるだろうか、八穂はどう考えたらいいのかわからなかった。


「リク?」


 リクが木立の間からのっそり歩いて来た。黒に銀色の毛がまだらに混じった大型猫で、首のまわりにはフサフサしたタテガミのような毛が生えている。長い尻尾は楽しげにゆらゆら揺れていた。


 交通事故に遭わせないため、完全室内飼いにしているので、勝手に外へ出ることはなかったはず。それが警戒するようすもなく、のんびり歩いているのに驚いた。


「リク、だめでしょ。おそとは危ないから。戻ってきなさい」


 八穂はあわてて裏口のドアを開けて叫んだ。それにしても、鍵がかかっていたはずなのにどこから出たのだろう。不審に思った。


「リク!」

『問題ない。まわりに危険なけものはいないのだ』


「え、なんで、リク」

 突然、リクの意志が頭の中に響いてきて驚いた。

 

「じゃべれる、リク、どうして?」


『リクはリク。だけどこの世界では虎の神獣ドウンでもあるのだ』

「はあ?」

『この世界の至高神エリーネが言ったのだ。ヤホを守れって』


 この世界? エリーネ? 何のことやら。八穂は混乱した。

ただ何か途方もないことが起こったことだけはわかった。猫の言葉が理解できるなんて、普通であるはずがない。

 

 「リク、この世界ってなに、エリーネって」

 『ここはエリーネ神がつくったエリーネル界』


 リクの説明によると、ここは地球とは別の世界。エリーネル界にある国、メイリン王国だという。

 隣国ドアル公国が禁忌を犯し聖女召喚の儀式を行ったとか。それが失敗して、時空の膜に複数の裂け目ができてしまい、偶然にも八穂の家がそれに飲みこまれてしまったのだという。


「そんな、そんな小説みたいなこと」

 八穂は戸惑うしかなかった。

 

 『ヤホは来たくてここへ来たんじゃない。だからエリーネ神は、リクを神獣にしてヤホを守れって言ったのだ』

 リクは甘えるように八穂の足に体をこすりつけた。


「リク」

 『だいじょぶ、リクが守るのだ』


 そう言ってリクはブルッと体を震わせた。リクの体が光を発した。

八穂は思わず目を伏せたが、顔を上げると、目の前には巨大なリクがいた。

 

 毛並みは猫の時と変わらなかった。黒と銀と黒が混じったような複雑な模様だ。尻尾はピンと立って長く、フサフサどころかバサバサ音がしそうなほど、幅広く茂っていた。


 八穂はリクを見上げた。いつも足もとにいて見おろしているリクの顔が、今は首が痛くなるほど高いところにあった。


「なんと言っていいのか、言葉も無いというのはこういうことだね」

 八穂は言って、リクに近づいてみた。


 驚きはしたけれど、恐怖は感じなかった。体が巨大化しただけで、見た目はいつものリクだったからかもしれない。

 

 『大きくなれる。小さくもなれるのだ』

 リクが嬉しそうに、尻尾をブンブン振ると、風が起こって八穂の髪がフワと吹き上がった。

 

「かっこいいね、リク」

 大きすぎて頭まで手が届かないので、八穂はリクの前脚あたりを撫でた。


「でも、普段はいつもの猫のままでいてね、大きいとみんなを驚かせてしまう」

 八穂が言うと、リクは理解したのだろう。まぶしい光を放ってもとの大きさにもどった。


『ヤホ、ご飯食べたいのだ』

 口元をペチャペチャ動かしながら、リクが意志を伝えてきた。


 八穂は、リクの気持ちが伝わるのはいいけれど、ご飯の催促されるのは良いんだか悪いんだか、微妙だなと思った。

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