第2話 ペルセウス


「私はね、雨が好きなんだ………………」


 ペルセウスがまだ5歳の頃の思い出である。

 暗い空を見上げて、ミラは言った。


「…………降るよ」


 そう言って、静かに目を閉じる。

 次の瞬間ぽつり、と一粒。

 あっという間に世界は雨に塗り替えられた。

 大地は黒く湿り、木々の葉は降り注ぐ雫を弾いて軽快な音を立てている。


「聞いて」


 ミラが言う。

 相変わらず、その瞳は閉じられていた。


「遠くの雨の音を聞いて………………。森全体に意識を広げるの」


 静かに告げるミラ。

 自身がやって見せながら、ペルセウスにも教えてくれる。

 

 ペルセウスは素直に従い目を閉じた。


 聴覚が研ぎ澄まされる。

 

 自分を取り巻く世界の全て。

 まだ見ぬ森の奥深く。

 それら全てに等しく降り注ぐ雨の音。

 

 ――――――夢を見るように、意識を「身体」という枷から解き放つ。

 世界を俯瞰して眺めていた。

 森も大地も降り落ちる雨も、自分自身やミラのことも、見下ろすように眺めていた。

 自分が二人存在しているような、不思議な気分。

 

 ………………………………。

  

 やがて、時の狭間にいるような感覚が支配した。

 雨の音が、やけにゆっくりと響いている。


 肌を弾く雨の感触が、心の底から心地良かった。

 身体が空気のように軽く、力が無限に湧いてくるようだ。

 初めて感じる感覚である。

 

 目で見る必要はない。

 強化された感覚が、あらゆる小さな動きさえ鮮明に教えてくれる。

 木々の揺らぎ、遠くに潜む獣の鼓動、風の流れ――――――――。

 

「ペル………………!?」


 不意にミラが言った。

 珍しく驚いたような声である。


「…………目を開けていいよ」


 言われて、ペルセウスは目を開けた。


 まるで別世界だった。

 

 降り落ちる雨の雫が、鮮明に見える。

 木々や生き物が持つエネルギーが、光となって目に飛び込んでくる。

 すぐ近くの木の洞に、リスが二匹。

 朽ちた木の影に蛇が一匹。

 更に遠く、大地の裂け目に狼の群れ……………………。

  

 物理的な壁を超えて、あらゆる情報が伝わってくる。

 

「これが精霊たちの目……………………彼らが見ている世界」


 ミラが教えてくれる。

「精霊たちの目」と、彼女はたしかにそう言った。

 

 ――――――精霊。

 

 森の奥深くに住まうとされる高位の存在。

 それは、たしかに実在する。

 実在するのだが………………。


「私も初めて見るまでは信じられなかった…………………………。どう?…………楽しいでしょ?」 

 

 強化された目で彼女を見る。

 遠くを見て、満足そうに微笑むミラ。 

 彼女は、眩いほどの輝きを放っていた。

 その光は、リスや蛇や狼の比ではない。

 生命としての「格」というものが明らかに違った。

 

 次の瞬間、視界からミラが消えた。

 そしてすぐに、背後から声がする。


「…………精霊は存在するよ」


 振り返るが、姿は見えない。

 また違う方向から声がする。


「彼らは大きな力を持っているの………………それは大地の力だったり、風の力だったり、はたまた闇の力だったり…………」


 やはり姿は見えない。

 いや、雨のせいで視界も悪いのだが………………


「私はね、雨の精霊に気に入られているみたい。…………雨が私に力をくれるの」


 声だけは、変わらずに聞こえてくる。

 降りしきる雨の音を通り抜け、鮮明に頭に響いてくる。


「これはごく僅かな、神に選ばれた人だけが、何年も訓練を続けてようやく使える力………………」


 ペルセウスはもう「見る」ことはやめ、再び目を瞑った。

 感覚を研ぎ澄ませ、ミラを探す。


「ペルはすごいよ………………その才能もだし、今だって私を探そうとしているんでしょ?」


 集中するが、まるでミラの気配を感じない………………。

 それでも、更に深く意識を沈める。

 自分を空気に溶け込ませ、ほんの僅かな違和感さえも取り逃さないよう、意識を広げる。

 より細かく、より繊細に、慣れ親しんだミラの気配を探り出す。

 風をもっとよく見よう。

 雨の一粒一粒に注目しよう。

 そうすれば必ず――――――――――――。


「すごいなぁ、見つかりそう」とミラ。


 声がした。

 空気が震えた。

 そちらを見る。

 雨の雫が、僅かに軌道を変えて落ちていく……………………。

 しかし、


「…………最高だよ」


 また違う方向から声がした。

 気付くと、そこにはもう何の気配もない。

 

 ――――不意に右肩に手が置かれた。

 優しく、細いミラの手。


「ペルは何でもできちゃうね」


 頭を撫でられる。

 ぐっしょりと濡れた髪を、彼女の指が梳くように撫でる。

 

「これからもっといろんなことが出来るようになるよ。今私がやったように姿を消すとか、瞬間移動するとか…………………頑張れば自分で雨を降らせたりもできるよ。…………興味があるなら私が教えてあげる」

 

 その顔にはいつもの笑顔が輝いていた。

 顔を伝う雫、濡れた髪、頭を振って雫を飛ばす仕草………………それらの全てが美しい


 ――――――――――――雨が降る森の奥深く。ペルセウスが五歳の頃の思い出である。


――――――――――――

 

 霧雨が降る森の小道。

 一台の馬車がゆっくりと動いていた。

 

 東の空は、まだ暗い。

 

 逞しい黒馬を御するのは、黒のローブを羽織る小柄な男。

 雨を凌ぐべく深々と被ったローブに隠れ、その顔は見えない。

 

 こんな時間に、金さえ渡せば動く奴だ。その顔くらいは見ておきたかったのだが……………………。


「お前も俺と同じなのか……………………」


 誰しも心のなかに秘密を持ち、素顔を隠す時がある。

 自分は闘技場で素顔を隠し、この男は真夜中に――――。

 

 それは大抵の場合、自己防衛だった。

 無理に見るのは礼儀が成っていない上に、少々の危険を伴うのである。


「………………何か言ったか?」


 しわがれた声。

 男が振り返り、言う。

 酒と疲れの滲む、闘技場のような「裏王都」で聞き慣れた声だ。

 

 雷鳴が轟き、稲妻が光る。

 ほんの一瞬照らし出された男の顔は、頬に傷があるということしか分からなかった。


「何も…………言ってない」

「言っただろうが」


 疲れたように言い、視線を前へと戻す。

 雨の音に混じり、男が舌打ちするのが聞こえた。


「何が同じだって?……………………俺と、お前の何が」

「………………だから、何も言ってない」

「…………………………」


 またしても雷鳴が轟き、急に雨脚が強まった。

 大粒の雨が馬車の上にかかる帆布を弾き、夜の心地よい静寂を妨げる。


 黒馬がいななき、たてがみを振るって水滴を飛ばす。

 男のローブを、幾筋もの水滴が伝う。


「………………ここまででいい」


 この雨ならば、濡れながら歩きたかった。

 雨が本当に好きだから、雨に触れる機会を逃したくなかった。

 

「あぁ?……………………何だって?」

「だから、俺はここで降りる」

「あぁ?…………聞こえねえよ。雨の音を考えて喋れや」


 御者の男は振り向きもしない。

 雨で視界の悪い山道を、巧みに馬を御して馬車を進める。


 ペルセウスは御者席の方へ顔を出し、言う。


「ここまででいい。後は歩く」

「はあ?てめえ…………こんな時間にわざわざ俺を起こしてこんなクソな事に付き合わせやがったのか?」

「………………金は払う」

「当たり前だ、てめえは馬鹿か?………………。このクソ雨の

 中、学園まで歩くのかよ。気違い野郎が……………………」


 クソ雨?

 こんなに美しく、繊細で、愛おしい雨を、クソだと?


「何してやがる、早く金をよこせ」


 それに、ペルセウスはポケットから金貨の入った革袋を取り出す。

 御者の男が出した手にそれを乗せる。だが、まだ渡さない。


「てめえ、何の真似だ?」

「………………雨は、決してクソではない。美しく、尊いんだ。…………………………言え」

「はあ?」

「言えよ、雨は美しく尊い」

「なんなんだよ全く……………………」


 男は面倒くさそうに顔を歪める。金貨の袋を取ろうとするが、渡さない。言うまでは、絶対に渡さない。


「くそが……………………。雨が何だって?」

「……………………」


 男の目を見る。

 爆音とともに、雷がすぐ近くに落ちた。

 ほんの一瞬、視界が真っ白になる。

 見つめる瞳に、微かな恐怖の色が浮かんだ。


 さらにもう一つ、雷鳴が轟き雷が落ちる。ほんの、目と鼻の先だ。

 馬が不安そうに大きくいななく。

 

 そして……………………。

 

 ようやく、男は面倒くさそうに口を開いた。小さく舌打ちをする。


「分かった分かった、取り消す………………。これで満足か?」


 男は何かを察したようで、目を泳がせている。

 その様子を見て、

 

「……………………まぁ、いいよ」


 と、手の力を緩めた。金貨の袋が男の手に渡る。


「じゃあな………………気をつけて帰れ」


 それだけ言って、馬車を降りた。


 降りた瞬間、全身がずぶ濡れになったが気にしない。

 いや、気にならない。

 肌を打つ雨の感触が心地良い。

 

 ――――――――――――これでこそ、雨だ。


 背後で馬車の音が遠ざかっていき、やがて完全に消えた。


 この道を真っ直ぐ進めば、朝には学園に着くはずである。

 雨が降りしきる中、ペルセウスはゆっくりと歩き出した。

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