9 新しい出会い
シオンさんと別れ、私は自転車に乗って大学を出た。
ペダルを踏んで自転車を漕ぎ続けると、白い建物に青い屋根が連なる商店街が見えてくる。
「今夜は何を作ろうかしら」
ここ最近の私は、午前中にシオンさんと一緒にハーブ菜園のお手伝い。帰りに商店街に寄って、夕食の材料を買って帰るのが日課となっていた。
商店街に到着した私は自転車を降りると、ゆっくり押しながら商店街を見て回る。
「今夜は何にしようかしら……ムニエルにでも挑戦してみようかしら」
数日前に料理の本を購入し、今は色々な料理を作るのがすっかり楽しみになっている。
フィオナがお菓子作りが好きだったのも、今なら理解出来る。教会の暮らしではお菓子を作ることが許されるのだろうか?
そんな事を考えながら商店街を歩いていると、『ヘレン手芸店』と書かれた看板が目に止まった。
「手芸店……こんなところに?」
私は自転車を止めて、看板が立っている店を眺めた。アーチ型の窓からは店内の様子がうかがえる。
反物で売られているカラフルな布地に、そして……。
「あ、刺繍セットが売られているわ。他に何が売ってるのかしら」
途端に興味が湧き、私は扉を開けて店内へ足を踏み入れた。
「すごい……まるで海の中みたい」
店内に入ると南国の島らしく、水色に塗られた壁には可愛らしい貝殻やイルカがところどころに描かれている。
白い棚には様々な手芸用品が売られていた。
「あ、この手芸糸……すごくいいかも」
棚の上に青系統の刺繍糸が束になって売られているのが目に止まった。
この糸で『アネモネ』島の海を刺繍すれば、どんなに素敵だろう。
そこで私はその商品を手に取ると、カウンターへ向かった。
「いらっしゃいませ。お買い上げですか?」
カウンターにいたのは20代半ばと思しき、栗毛色の髪の女性だった。
「はい、こちらの商品を下さい」
「700リンになります」
お金を受け皿に乗せると、女性は笑顔で私を見た。
「すぐにお包みしますね。お客様は刺繍をなさるのですか?」
「はい、刺繍が大好きなんです。時には時間を忘れてしまうぐらいなんです。この青い糸でアネモネの美しい海を刺繍してみたくなったんです」
「それはすごいですね。風景を刺繍するなんて。時間も手間もかかるでしょうに」
「はい。けれど徐々に出来上がっていくのはとても楽しみです」
そこまで話したところで、私はふと目の前の女性店員に自分の刺繍したハンカチを見てもらいたくなった。
「あの、このハンカチですが……私が刺繍したハンカチなんですけど、見て頂けますか?」
私はポケットからハンカチを取り出し、カウンターの上に広げた。
このハンカチには赤や青、紫のアネモネが刺繍されている。この島に来て、すぐに刺繍した作品だった。
「まあ! なんて素敵なのでしょう……あの、お客様。差し出がましいですが、少しお願いしたいことがあるのです。よろしいでしょうか?」
突然女性店員が真剣な顔を向けてきた。
「お願い……ですか?」
「はい、実はこの店はつい先日オープンしたばかりなのです。お客様はこんなに素敵な刺繍を刺せるのですよね? ご覧の通り、当店は海をモチーフにした手芸店を目指しています。そこでお願いがあります。こちらの商品に貝殻の刺繍をしていただけませんか?」
女性店員がカウンターの上に置かれていたコースターを差し出してきた。
「え? 刺繍……ですか?」
「はい、勿論謝礼金はきちんとお支払いいたします。それに材料は全てこちらで用意いたしますので……お願いできないでしょうか?」
「私の刺繍が入った商品を……お店に出すということですか?」
「その通りです。引き受けて頂けないでしょうか……」
その時、再び私の耳にヴィオラの言葉が蘇ってきた。
『私にもレティみたいに刺繍の才能があれば、女ひとりでも生きていけるのに』
もしかすると、この申し出は……チャンスなのかもしれない。
「はい、私の方こそどうぞよろしくお願いします」
笑顔で返事をする。
これが私とヘレンさんが初めて出会った記念するべき日となった――
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