狭間に落ちしもの
月白輪廻
狭間に落ちしもの
―――見覚えのない場所だ。
大学の授業を終えた、その帰り道だったと思ったが、ここは一体全体どこなんだ。
目の前には蔵のような建物が一つ。それ以外、周りには家の一軒もない。土が剥き出しになった、だだっ広い土地があるばかりだ。
蔵の入り口には色褪せた小豆色の暖簾が掛かっている。もしや店なのだろうか。今流行りの古民家カフェとやらか。
暖簾には店名が書かれているようだが、文字が掠れてどうにも読み取れない。
「いつまでも何やってンだい。とっとと入りな」
戸の隙間から顔を出したのは、真っ黒な髪を日本人形のようにおかっぱにした少女だった。
俺の腰程の背丈だが、年増女のような口を利く。
俺は少女に促され、訳が分からないままに暖簾を潜った。
足を踏み入れた蔵の中は、様々な物に溢れ返っていた。古いものから新しいものまで、無秩序に並べられている。呆けたようにきょろきょろ見回していると、先程の少女が近くの丸椅子に腰掛けた。
メニュー表もなにもない。飲食店ではないのか。古民家カフェという予想は早々に外れた。ならば古物商か。
この少女は店番なのだろうか。言われるがままに入店してしまったが、客として来たのではない。購入意欲がないことを伝え、とっとと帰らなければ。
―――どこへ?
そんな考えが浮かんだことに、首を傾げる。
授業は終えたのだから、家に帰るのだ。当然だろう。帰らなければ。ここは一体どこなのだ。少女に聞いて、早く戻らなくては。……どこへ?
いけない。思考がループしている。家だ。家へ帰る。そうだ。家へ……
「あんた、何を落としたンだい」
取り乱す俺の意識を、少女の声が引っ張り上げた。丸椅子に座る少女が足を組み直す。小振りな花柄の赤い着物に対して、白い足袋がやけに目を引いた。
「落とした?俺が?何を?」
「それは知らないよ。落としたから、こんな所に来たンだろうに。いや、思い出せないのか。それじゃあねぇ」
少女の指先が、俺の顔を指し示した。人を指差すなと親から教わらなかったのか。こちらを向く桜色の爪に、俺は顔を顰めた。
腹立たしさを覚えつつも、少女が指差す辺りに触れた。ぬるりとした感触に、慌てて手を離す。
視線を自身の指先に向けると、何かが付着していた。赤い、赤い、それは。
―――血だ。
悲鳴を上げた俺は、咄嗟に着ていた衣類で指先を拭った。しかし一度認識してしまったからか、赤いそれはどんどん流れ出し、俺の顎を伝う。血はぽつりぽつりと音を立てて、土間に染みを作った。
恐慌する俺をじっと観察する少女の瞳に、情けない声が漏れた。怖い。何なんだ、ここは。何なんだ、こいつは。
ふと少女が俺から視線を外し、店の奥を顧みた。そこも入り口と同じく、小豆色の暖簾で仕切られている。そちらは居住区なのだろうか。
少女の意識が逸れたその隙に、俺はじりじりと蔵の入り口へ後退した。こんな変な所、とっとと出てってやる。
その時、店の奥からバタバタと賑やかな足音が近付いて来た。
「ユメさーん。やっぱりないですよ、こっちじゃないんじゃ……ってうわぁあ!?誰!?頭から血が!?えっ、これユメさんがやったんですか!?ついに人を!?」
「……何で
「いやぁ、失礼しましたぁ」
闖入者であるこの青年は、ここで働く従業員だそうだ。逃げるタイミングを見失った俺を来客用のスペースへと案内した彼は、湯飲みを三つ運んで来ると無害そうな顔でそう言った。
この青年も少女と同じく和装で、漫画やドラマ等で見る書生のような格好をしていた。
そして彼は当然のように、俺の斜め前へと腰を下ろした。従業員の割に如何せん図々しくはないだろうか。
「僕ぁ、真白と申します。こちらこの狭間堂の店主、ユメさんです」
「狭間堂?」
俺は真白と名乗った青年から手渡された手拭いで、顔の血を拭った。しかしそれは依然として止まる気配がなく、仕方なしに鉢巻の要領で頭に巻くことにした。
そしてそのまま、出された湯飲みに口を付ける。ペットボトルの茶しか飲んだことのない俺には茶の良し悪しは分からなかったが、美味かった。
「はっきり申し上げるとですね、貴方はもう死んでるんですよ。お亡くなりになられてるんです。狭間堂は、そういう人しか来られない場所なんで」
「はぁ。まあ、こんな血塗れでぴんぴんしてるんだから、ここが現実じゃないのは確かだよな」
頭から血を吹き出させながら、茶を飲んでるのだ。さすがに信じざるを得ない。
「ふぅン?落ち着いてるねぇ?」
ユメと紹介された少女が、艶っぽく鼻を鳴らした。その口振りは、どこかからかうような響きがある。
「いや、結構驚いてはいるんだが……現実味が無さすぎて、逆に冷静になってきた。それで、俺は何でここに?何なんだよ、ここは?」
「狭間堂はですね、常世で生きる人達が、知らぬ間に落としてしまった大切なものを保管している場所なんです。そして亡くなると、それを探しにここへ来る。そしてそれを持って、あの世にいくのです。全員ではないですよ。それが大切だったことすら忘れてしまう方も、いらっしゃいますからね。だからここはあの世でも、常世でもないのです」
「持っていく?そんなの、死んだら必要ないだろ?」
「うーん、身も蓋もない。持っていくのは大切なものに纏わる、記憶や感情といったものですよ。寂しいでしょう、そういうものもなく逝くのは」
「そういうものか?」
「さあ。僕ぁ、死んだことはありませんからねぇ」
真白が和装の懐に右手を突っ込むと、何かを取り出した。それをテーブルに置き、俺の目の前へと差し出す。
俺はそれに見覚えがあった。蘇ったのは幼い頃の記憶だ。
「それ、何で……」
「そいつが、あんたの持っていきたいもんって奴サ」
ユメがカウンターに片肘を突き、口の端を持ち上げた。
テーブルの上に置かれているのは、角の丸くなった一枚の写真だ。折れや汚れも目立ち、決して綺麗とは言い難い。
「母さん」
それは幼い頃、病気で死んだ母と幼い自分が写った写真だった。撮影者は父で、この写真が唯一母の姿を写した中で残っていたものだった。
それを見た途端、記憶の海が俺を満たそうと流れ込んで来る。
母を亡くした後の父は脱け殻のようになり、俺が中学に上がる前に自殺した。俺は母方の祖父母に育てられ、奨学金を借りながら地元の大学に通っていた。そして授業も終わり家へ帰る途中、脇見運転の車に突っ込まれ……俺の意識はそこで途切れている。
「思い出したかい?」
ユメの問いに、俺は静かに頷いた。真白が気遣わしげな視線を寄越す中、俺は写真を胸に抱いた。
「親父が、母さんの写真を全部捨てたんだ。見るのが辛いって。婆ちゃんの家は一度火事になってるから、写真も残ってなくて。唯一これだけなんだ、残ってたの。でも一度親父に見つかって取られちまってさ、その後は見つからなかったから、捨てたんだとばかり思ってたけど……そっか。親父、捨てられなかったんだな」
「―――時間だね。もういきな、迎えだ」
俺は立ち上がり、頭に巻いていた手拭いを真白に差し出すと、狭間堂の入り口へゆっくりと向かった。
手拭いは汚れ一つ付いておらず、血の一滴すら付着していなかった。
重い戸を開けて小豆色の暖簾を潜ると、先程とは景色が変わっていた。
赤黒い闇の中で、一人の男が待っていた。平安貴族のような格好の、体格に恵まれた男だ。彼の後ろには牛の頭に身体は人間の化物と、馬の頭に同じく身体は人間の化物が立っている。
「落としたものは、見付かりましたね」
低く穏やかな声で問われ、俺は自然と頷いていた。
後ろを振り返ると、狭間堂の入り口でユメと真白が真剣な表情で俺を見ていた。
俺はひらりと手を振ると、彼等に背を向けた。男が狭間堂の二人へ向かって、頭を下げる。
「ではこれにて。いつもありがとうございます」
「あんたのためじゃないサ、篁。とっとと行きな」
「はい、失礼致します。貴女の探し物も、見付かると良いですね」
「余計なお世話だってンだよ」
二人のやり取りの意味は分からなかったが、もう俺に知る術はないのだろう。
今度はどこに行くのか。自己という意識が薄れて消えゆく感覚を感じながら、俺は目を閉じた。
―――母さん、親父、今いく。
「やっぱり見付かりませんね、一体どこにあるんだか」
「何のためにあんたを雇ってると思ってるンだい。早くしな」
「このためじゃないのは確かですよ。そもそもユメさんが失くしたんじゃないですか。僕ぁ知りませんからね!?」
真白は泣き言を言いつつ、多くの『落とし物』に溢れ返る棚をひっくり返した。
ユメが最近お気に入りの、貝殻に入った紅を失くしたというから朝から探しているのだ。しかし一向に見当たらない。
店の奥をもう一度探しに行こうかと伸びをした所で、ユメが「あ、」と小さく声を上げた。
真白が振り向くと、彼女の小さな手の平に見覚えのある貝殻が握られている。
「すまないねえ、帯に挟んだンだった。すっかり忘れてたよ」
「そんなあ、探し損じゃないですか。……まぁ、でも結構そういう物ですよね。探し物って。案外近くから見付かったりするものっていうか」
「そういうもんかねえ」
「そうですよ」
「そうかい」
ユメが貝殻を開き、紅を小指に付けた。
彼女は手慣れたように唇をなぞると、紅を馴染ませぎこちなく微笑んだ。
狭間に落ちしもの 完
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