第8話 Hevy entropy field.

「そろそろ減速した方が良いですよ。ええと、七福商会のお姉さん」


 マモルは健気にハンドルを握り続ける七福商会の女に声をかけた。


 親交を深めるべく名前を尋ねたのだが、彼女に答える余裕など残っていない。


 それでもマモルの忠告は耳に入ったのか、軍用SUVが少しだけ減速をした。


 新天竜川橋の両端に互いの検問所が建っている。


 数キロ手前の地点までは避難する車両で混在していたのだが、検問所近辺まで来ると交通量は極端に少なくなった。


 未だ互いに国交を結んでいないため、普段から閑散としたエリアである。


 だが今、マモル達が乗る軍用SUVの前方に見えるのは――、


「――第57師団だな」


 皇国側検問所の尖塔には関東共和国の旗が制圧の証として立てられている。


 数十機の弐式ふたしきと装甲車両が築いた防衛陣地の前面には、多数の破損した車両と死体が転がっていた。


 関東共和国と結んだ休戦条約を無邪気に信じた皇国は、大規模な兵力を南方に回しており国境防備が脆弱だったのだ。


「退避したのかと思っていたが、味方も捨て置くとは――」


 薫子はHEFヘフ域に残された兵卒達の不運を憐み、数舜だけ瞳を閉じた。


「いや――、あっ、そうだ! 薫子ちゃん」


 防衛陣地の前衛を担う弐式ふたしきは、アサルトライフルの銃口をマモル達の車列に向けている。


「旗! 旗を上げないとっ! 関東軍に撃たれちゃうよ」


 何故ゆえにこの男は関東軍と交わした旗印の約まで知っているのか――という疑問を薫子は飲み込んだ。


 ――これが、奄美情報部の実力か。

 ――皇国に囚われたのも、策略のうちだったのかもしれんな……。


 感心すると同時、絶命の危地にあっては全てが些末な問題と思える。


「うむ――、せめても我等の手向たむけとするか」


 それは、最期まで足掻くという薫子の意思表示でもあった。


赤久住あかくす、掲げよ」

「なんまんだぶなんまん――え? あ、わ、分かりやした。けど――」

「掲げよ」


 どうせ、HEFヘフに飲まれるなら無駄と告げようとした赤久住あかくすだったが、浜名湖闘技場で形成された不思議な主従関係に衝き動かされた。


 薫子――という幼い容姿の少女には、抗い難いカリスマ性のようなものがある。


 再び念仏を唱えながらも、赤久住あかくすはダッシュボードの上盤に載せていた金属の棒を掴んだ。


 助手席の窓を開けて棒を上空に突き出すと、ジョイント部に着けられていた布地が風になびいて拡がった。


 白い布地に黒糸で「=∑=」と刺繍されている。


 関東軍からは白旗を目印として掲げてくれと言われたのだが、これを拒否して彩杜若あやかきつばたの家紋に似た旗を作らせたのだ。


 シグマ旗に率いられた車列の走る様は、検問所前に敷かれた防衛陣に向かって突撃を敢行するかのようにも見えた。


「こ、こっちに来やがるっ!!」


 防衛陣地から出た二機の弐式ふたしきが、マモル達の車列に向かって動き始めている。


 その時──、


「あ、皆さん」


 緊張感の欠片もないマモルの気楽な声が響いた。


「ほら、綺麗ですよっ!」


 窓の後方を指差して嬉しそうに告げる。


「ようやく塩柱が光り始めました。いよいよ臨界ですね~」


 成長を止めた巨大な槍は、破局の訪れを告げるが如く燐光を放つのだ。


「――」

「ぎゃあああ、おがああちゃああああんっ」

「終わり――ですのね――」


 三者三様の反応を示す仲間達を見たマモルは、つい愉しい気持ちになってしまう。


「アハハ」


 彼が朗らかに笑った瞬間、辺りを白光が覆い尽くした。


「なんまんっ──」


 ◇


 三方ヶ原みかたがはら塩柱は、成長臨界点を迎えると同時に半径十キロメートル圏内に存在する全ての生命体に影響を及ぼしていく――。


 浜松市と磐田市に拡がる平野部の大半が、HEFヘフ域に入ったのだ。


 域内に取り残された人々は、早送り動画の如く衰えていく自身の手を見詰めながら、生涯を振り返る間もなく死を迎えている。


 他方の車中は――、


「おお?おおおっ!?」

「い、生きてますわっ!え、勘違い? 間違い?」


 赤久住あかくすと七福商会の女は、半信半疑ながら安堵する様子となっていた。


 他方の向かってくる弐式ふたしきの動きにも乱れはない。


 二機のうち一機が進行方向に立ち塞がり、前方の左方向を指差している。


 もう一機は軍用SUVの脇を走り抜けていった。


 その弐式ふたしきを目で追った薫子は、後続する車両の状況に気付き叫んだ。


「七福! ハンドルを切れっ!!」

「は、はいっ? ──きゃっ」


 バックミラーで後方を確認した七福商会の女は、大急ぎでハンドルを左に切った。


 直後、運転手が老衰死して制動を失った後続の軍用SUVは、慣性のまま直進を続けマモル達の乗る車両を追い越していく。


 寸でのところで、追突を免れたのだ。


 だが、安堵する間もなく、多数の射撃音と衝突音が辺りに木霊する。


「きゃあああ」「なんまんだぶぅぅぅ」


 路肩に乗り上げた車内で、前部座席の二人は頭頂部を押さえ身を縮こめた。


 防弾能力を有する軍用SUVとはいえ、弐式ふたしき用アサルトライフルが放つ40mm弾の前には意味がない。


 それを知るマモルと薫子は、頭を上げたまま外の様子を窺っていた。


 ──なるほど。みんなモブだったのか。


 一撃で破砕された他の軍用SUVと、横倒しとなった弐式運搬車両を見たマモルの感想である。


 関東軍としては、運ばれて来た弐式ふたしきのみを保全しようとしたのだろう。


 無論、利用価値のある薫子もだが──。


 < 亡命希望の皆さん。もう、大丈夫です >


 マモル達に接近する弐式ふたしきの外部スピーカーから女の音声がクリアに響いた。


 < ようこそ──。自由、平等、友愛を尊ぶ、我等が関東共和国へ >

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