サ店に行くぜ

季節外れの雪塊のようなどっしりとしたもさもさの帽子が頭上から落ちてきたので、思わずキャッチした。陽気な声で「ナイスキャッチ!」と上から聞こえたので顔を上げると強風で黒髪がばさばさしている30代前半くらいの男が笑っていた。


その男が帽子をキャッチして貰ったお礼をしたいとしつこく後ろをついてくるので「アルプのようだ」と呟くと、横から顔をにゅっと覗いてきて「あるぷって何?」と好奇心旺盛な子供のようにきらきらと訊いてきた。

すげぇきもいおとこ。


すげぇきもいおとこだと思ったが、ここまできもいのは珍しいので「茶店で話を聞いてくれたらそれでいい」と自分からお茶に誘った。

殆ど自分と変わらない身長。真っ白なコートで隠れているが上半身が厚く、下半身の重心がやや後ろに傾いている。おそらく鍛えているんだろう。

しかし、私程ではない自信があった。本当にやばい男だとしても、こいつ一人なら何とかなるだろう。

私は久々に飲むノンカフェインじゃない紅茶に口をちびちびつけながら目の前の男をよく観察した。


「で、あるぷって何?」

「ドイツの夢魔?吸血鬼?か何か。帽子が取れると自分の姿を透明にする能力がなくなって困るから、帽子を拾ってくれた人には必ずお礼をするんだよ」

「へえ~!初めて聞いた!ちょっと俺みたい」

「いつもこんな事してんのか?」

「外に出てる時はね」

「きもちわるいおとこだな」

「そう?何かして貰ったらお礼しないと!って思わない?」

「帽子を拾ったくらいでつきまとってくるのはたちの悪いナンパみたいなもんだ。そのうち捕まるからもうやめとけよ」

「そっか。気を付ける。ありがとう」


彼は素直に私の言葉を受け取り、ただの水を飲みながら米粉のガトーショコラを手づかみでもぐもぐ食べていた。そこにあるフォークは飾りだと思っているのだろうか。真っ白な服を着ているのだから袖を汚さない工夫をすればいいのに。


「どんな話を聞いて欲しいの?」

「何が訊きたい?」

「俺が決めるの!?」

「司祭でも何でもないお前に話す悩みは無いからな」

「じゃぁ、何で話を聞いてくれって言ったの?」

「何でだろうな。お前はなんか人間じゃない感じがしたから、うん、そう、妖怪みたいな」

「アルプ?」

「そう。だから、何言っても大丈夫な気はしたんだろうな」

「司祭でもない俺に何を告解するの?」

「告解ね。みんな懺悔って言うけど、よく知ってたね」

「今、俺のこと馬鹿にしたでしょう!」

「してないけど、してたかも。悪かったね」


彼はもう米粉のガトーショコラを食べ終わって、メニュー表を見ている。次も何か菓子を頼むのだろうか。私は久々にカフェインを胃に入れたおかげで胸焼けがしてきた。

「ヴィーガンケーキ置いてるならノンカフェインも当然あると思った」

「あるよ?ほら豆乳のなんか」

「豆乳は苦手なんだよ」

「すきっ腹にカフェインはよくないんじゃない?何か食べたら?」

「何で朝食べてないって分かった?」

「なんとなく」

「やっぱりきもちわるいな」

彼は手を上げながら暇そうな店員によく通る声で「アーモンドクリームタルト1つ!」と叫んだ。

朝からよく食べる男だ。


「ここのお代出してくれるの?」

「ん?俺あんまりお金持ってない」

「・・・・・・初めからおごって貰うつもりで食べてたのか?」

「ううん?電話したらすぐ来る犬がいるから。日曜だし」

「ああ、そう」

おそらく犬ではない人間に少し同情しながら、こいつは本当になんなんだろうか、何処ぞの世間知らずの坊ちゃんにしては作法がなってないし、坊ちゃんにしては身体を作り過ぎている。

こういう奇妙な人間は大体自分と似た領域に住んでいると、長年の勘が言っている。本当にこいつは、偶然帽子を私の頭上に落としたのか?

重い冬用の帽子は春風で飛ぶのか?


「私を知ってるんだろう」

「知らないよ」

「いや、知ってるんだ。もしくは、こういう人間を狙う妖怪なんだろ?」

「俺人間だけど」

「人間のふりが上手いんだろう」

「いや人間だけど!」

「割とでっかい組の若頭が消えちまってな、私はそこに雇われてたんだが、カシラが変わっちまって方向性も変わっちまって、お役御免で今仕事無いんだよ」

「そう」

「別に誰に聞かれてもどうとでもなる自信があるから、ここでお前に言うんだ」

「そう」

「原則カタギに手を出さなきゃぽんぽん人殺してもやってける世界だと思ってたが、最近は全然そうじゃないみたいだな」

「そう」

「私みたいなのは時代遅れなんだと」

「ふうん」

「聞いてんのか、お前」

「あそこに置かれてるの、俺のタルトだと思うんだけど中々持ってきてくれないんだよ!」

「すいませーん!そこのタルト!こいつのですか!?」

私は久々に大声を出したので反動で暫く咳き込んで、苦手なタイプの紅茶を喉に流し込んで、水も流し込んだ。

いきなり大声で呼ばれた店員は慌ててカウンターのタルトの皿にお詫びのミニクッキーも乗せて慌てて運んできた。

少しぼーっとしているが、よく教育された店員だ。だが、整髪料の匂いが少し鼻につくのでいずれ店長かバイトリーダーか何かに注意されるかもしれない。


「ありがとう。またお礼が増えちゃった」

彼はやっと来たタルトをまた手づかみで食べながら礼を言った。

「増やすな。面倒臭い」

彼は幸運にも付け足されたナッツ入りの小さなクッキー2枚を皿ごと私に差し出したが、私は手で制した。

「ナッツは無理」

「そう」

「さっきの聞いて、どう思った?」

「ん?これからどうやって生きていくのかなって思った」

「だよな」彼は能天気な顔でタルトをもぐもぐ頬張っている。

「他の窓口は無いの?」

「無いね。信用第一の仕事だから。絞ってたんだよ」

「仕事紹介して貰えるような知り合いはいるでしょ?」

「いるが・・・・・・もう、辞めようと思ったから」

「何を?」

「生きるの」

「唐突だね!」彼はもうタルトを食べ終わって指を舐めている。

「唐突じゃないさ」

「いつ死んでも別にいいと思ってる人間が出来る仕事じゃないでしょう?」

「よく分かってんな」

「完遂出来なきゃ仕事にならないからね、何事も」

「そうだな。そうだ」

よほど手がべとべとしたのかまだ指を舐めている彼に紙ナプキンを差し出した。こいつは誰にも世話されずに生きてきたか、全部世話されて生きてきたかのどっちかだと思った。どっちにしろ本当にきもちがわるかった。


「お前きもちわるいな。よく言われるだろう」

「え?ううん?顔が良いって言われる」

「顔しか褒めるとこ無いんじゃねぇのか」

「初対面の相手に失礼な人だなあ!」

「いや、帽子を拾っただけで1キロ近く後ろを付いてくる人間に言われたくないな」私はやっと重たい紅茶を飲み終わった。

「それって失礼なの?」

「失礼だろ。痴漢として通報されても文句言えない、って、さっき」

「そっか。何で通報しなかったの?」

「さっきの話聞いてたか?」

「聞いてたよ?死にたいんでしょ?俺と一緒に捕まったらいんじゃない?」

「証拠を残すような仕事はしてないんだ。国は証拠が無いとそうそう死刑に出来ないだろ」

「必ずしもそうじゃないよ。状況と消去法だけで死刑囚になってる人もいるし。間違いで死刑になってる人もいるよ」

「お前が死刑制度に疑問を抱いている事は分かった。今はそれ横に置いておこう」

「え?それ横に置いて、何の話するの?」

こいつまたメニュー表見てる。まだ食べるのか。そんなに楽しいのか喫茶店が。今まで生きてきて喫茶店に来た事がないのか。これが最期の食事なのか。こういうちょっと洒落た喫茶店は高いんだぞ。犬の財布事情は大丈夫なのか。

私が見知らぬ犬人間の財布を心配している事には全く気付かず、また米粉のガトーショコラを大声で頼んだ。突然大声で遠くから注文を叫ぶタイプの客に当たった事の無い店員はびくびくしていて可哀想だ。私もさっきやってしまったので、大変申し訳ない気持ちだ。

いや、嘘だ。本当は別に何とも思っていない。


「お前は私を殺せないだろ?」

「無抵抗だったら誰でも殺せるんじゃない?」

「戦って、死にたかったんだ」

「戦国時代みたい」

「戦国時代知らないけどな」

コップの水を飲もうとして、もう全部飲み切っていた事に気付いた。彼は自分の水を私のコップに半分注いだ。私は礼も言わずに飲んだ。

「昔母が死んでな、それで父を殺して、そこから仕事が始まったんだ」

私は他人の唾液が入った水など嫌いだ。そもそも他人から貰ったものを食べたり飲んだりしない。こいつも余り喫茶店に来た事が無いんだろうが、私も仕事以外では無い。今日を最期の日にするつもりで家を出てきたら、うっかり重い帽子を握ってしまって、調子が狂った。

狂った調子の責任は全て彼に背負って貰いたい。

「母は良い人だった。私が人を殺す人間になるとは1ミリも思わずに死んだだろう。私の人生で唯一良かったと言える点だ」


「君は、嵐山くんだ」

「うん」

「最近よく噂を聞いてたから私は知ってるんだよ、君を」

「そう」

「私は仕事をしてる時だけ、生きていると感じられた。今はもう駄目だ」

「そう」

「今日、自分で終わらせる為に家を出てきて、昔母に背負われて歩いた土手を歩いていたんだよ」

「そう」

「そしたら君が、帽子を落とすから、全部予定が狂ってしまって、凄く・・・・・・凄く、悲しいんだ、と思う」

「そうか、ごめんね」彼は何も思っていないような顔で私のコップに自分の水を全て注いだ。私は流した涙を補う為にまたそれを飲み干した。


「君と、君の犬で2人がかりだったら、私を殺せると思う?」

「ううん、俺は多分観てる。犬に任せるよ。俺はどっちが死んでも後処理だけを担う」

「そうか、良いご身分だね」

「うん、実を言うと、全然興味ないんだ」

「そうだろうね、お前は人間じゃぁないから」

「人間だけど」

「自分を助けた相手に時間を割くのはお前の単なる趣味で、それで相手が救われようが救われまいが、お前が全く興味が無い。そのガトーショコラやタルトの方がまだお前を満たせるだろう。お前が何かをきっかけに変わる事など生涯無い。お前はずっとただの現象。誰と関わろうと、お前はずっと独りだ。ずっと、独りなんだよ」

彼は何も感じていないような微笑で私をじっと見つめるだけだった。


息継ぎもせず低い声で呟いたものだからまた咳き込んで、水を飲もうとコップを持ち上げてもう全部飲み干した事をまた思い出した。彼がまた店員に大声で「お水ください!」と叫ぶ。あの店員、もうずっとこのテーブルの近くにいた方が楽なんじゃなかろうか。それとも聞いたら面倒な事になる会話だと勘付いているのだろうか。それなら賢い店員だ。

「上之段に電話するね!あ、さっき言った犬。っていうか、本当の犬もいるんだけどさ、そっちはかわいいし、良い犬」

「悪い犬とかいないだろ」私は思わず笑って返す。

「そうなんだよね。そうなんだよ」彼も笑った。

私は彼が私にとても似ているから、彼がとても嫌いなんだと分かった。


父を自分で殺す前にお前に出会えたら、私はお前に父を殺せと頼んだだろう。そしてお前はコバエでも払うかのように父を殺せたはずだ。

私は笑って笑って、咳き込んで、朝常備薬を飲まずに家を出た事を悔やんだ。万全の状態ならば上之段でも誰でも何でも殺せただろう。

初春の夕方の土手は暗く、寒く、橋の下となれば、猶更だった。私は頸動脈を的確に押さえられながら、橋の下では空が見えないと、また悔やんだ。

母に背負われて寝たふりをしながら横目で見た夕焼けは、とても綺麗で、母が死んで40年近く経った今でも昨日の事のように覚えている。

脚で抑え込まれた左手を抜いて彼の犬人間の人中を拳から突き出した中指で思い切り殴り、私は橋の下から逃げ出した。橋の下から出ても空は暗く、曇っていて星も見えなかったので、私は生涯で初めて死にたくないと切実に感じた。

その後すぐに後頭部に感じた衝撃が、嵐山が座っていたコンクリートブロックによるものではないかと一瞬過った後、受け身も取らずに地面に倒れ、草の汁と土とカビのような匂いを感じながら、私は意識を全て脱ぎ去って、父を殺した時よりもずっと、ずっと、清々しい血だまりの中に消えた。

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