いつか華胥で
俺の行きつけ散髪屋は実に風変りで店長の目が見えていない。
しかもスタッフはその店にその盲目の女しかおらず、器用という言葉では量れない程に器用に一人で店を切り盛りしており、常連客は俺以外にも多い。
常連客といっても殆どかたぎのもんじゃない。
散髪は事のついでで、重要な事はそこで受け渡される違法な何かがおおよその人間の目的だ。
しかし、目が見えていなければそこで何か取引されているかなんて分かるまい。いや、目が見えていたとしても単なる封筒、単なる鞄を交換したりしているだけだ。万が一何か知られても店員はその店長一人だけ。いくら図体がでかいからといって女一人くらいどうとでも処理出来るだろう。
その女は最近まで俺が男だと間違えていたくらい化粧っ気の無い女で、身長は190cm近く有り、体重は大関か横綱かという巨体で、常連客の間では嘲りと親しみと多少の畏怖を伴って「稀勢の里」とあだ名されている。しかし、稀勢の里よりは千代の富士?いや千代の山?まではいかないだろうが、年齢はどうやら世間的には婆さんと呼ばれるような多少昔に生まれた人間である事は確かだ。しかし顔の皺も脂肪で張っている為か本当の年齢はよく分からん。まぁ、とにかく「婆さん」ではあるんだろう。俺は稀勢の里の顔が好みでないので単に「婆さん」と読んでいる。
今日は珍しく何となく気が向いて、というか、耳にかかってきた髪がちくちくと煩わしくて、特に違法な用事も荷物も無いが、その婆さんの散髪屋へ向かった。
「おや、随分お見限りじゃないかね」
「気色悪ぃなあ、足音で分かるんか?」
「お前さん、歩き方が左に寄ってるからね。整体行きな」
「婆さん、俺ぁ髪切りぃ来たんだ」
「一番奥の席に座りな」
「真ん中で良いだろ?」
「後で予約の客が来るのさ。邪魔なんだよ」
「はぁ、接客態度ってもんがなっちゃいないね」
いつもの軽口を交わす。生きてきた中では一番喋りやすい女だ。
そりゃそうだ、最近まで男だと思って接してたんだから今更態度を変えるにもいかない。十数年来の男友達のような慣れ合いが心地よい。
「耳に髪が当たって気持ち悪いんだろ?」
「毎度の事ながら目ぇ見えねぇってのによう分かんね」
「触れば分かるさ。で、何ミリだい?」
「単位で訊かれたって分からねぇよ。とにかく耳の周りは短く、トップはいつも通りソフトモヒカンにしといてくれ」
「そっちのがわぁー分かんねぇな。まぁ、テキトーに切ってやるさ」
「信頼してるよ」
「髭は剃るかい?」
「いい、自分で揃えてんだ」
これもいつも通りのやり取りだ。
しかし、そこからが違った。婆さんは何かよく分からない黒いドーム型の機械に俺の頭を入れやがった。
「おいおいおい何だよこりゃ」
「頭洗う機械さ。買ったんだよ。目の見えない婆に洗われると泡が目に入って仕方ねぇって野郎が文句付けて来たんでな」
「そりゃそいつの言いがかりだ。いつも通り洗ってくれよ」
「悪いが予約の客の電話が入った。わぁ電話してくっからその妖怪頭洗いに頭をガシガシ洗われておくれ」
婆さんはバックヤードに引っ込んでしまった。
何かおかしい。婆さんは仕事の時に別の客の電話を取った事がない。俺が今まで知る限りは。
そりゃそうだ。何を具体的に取引してるかは分からねぇだろうが、密談である事は確かな場で、警察のエスに間違われかねないような行動を取る頭の悪い人間じゃない。
しかし、今日はこの妙にくすぐったくてグイングインと気持ち悪く頭を揉む確かに妖怪じみた機械に俺を任せて、しかも俺に聞かれないように店の奥に隠れてしまった。おかしい。この頭の機械も早く外して欲しい。くすぐったくて考えがまとまらないし、何だかにわかに発情してきた。気持ち悪い。早くこれをどうにかして欲しい。いや、もうこれは自分で外そう。そして自分でシャワーで洗い流そう。もう十分揉まれに揉まれただろう。
頭を機械に揉まれて股間を膨らませた事を誰にも知られたくなかったので、取り敢えず機械から頭をどうにか抜き、起き上がって襟が塗れるのも構わずに自分でシャンプーを洗い流した。ついでに冷水にして、悶々とした下腹をどうにか鎮めた。俺は一体何をやっているんだ……
「何やってるんだい?」婆さんが戻ってきた。
「婆さん、この機械、気持ち悪ぃよ」
「そこらじゅうびっちゃびちゃじゃないか、掃除が大変だよ」
「見えるのか?」
「見えるか。湿気と水の匂いで大体の惨状は分かる」
「デアデビルみてぇだな」
「なんだいそりゃぁ」
「アメコミだよアメコミ」
「お前さんは昔から趣味が変わってんね」
「俺は普通さ」
売られるとしたら、ポリか、ちょっと焦げ付いてる敵対組か、昔ボコした後輩がいる半グレ集団か。
ここに後から来る予約席とやらには一体誰が来るのだろう。
「婆さん、俺を売るんだろ」
「丁度良いとこに来たからね」
「丁度良い?」
「ああ、ちょっと変わった稼業の男がいてね、そいつの情報屋をやってたのさ」
「ほいほい言うね」
「ああ、最期だからね。逃げるんなら逃げていいんだよ」
「何言ってんだか、鋭利なもんくらいバックルにも足首にもその他にも常に用意してる。ただじゃ殺られねぇや。しかもここで殺るって事はもうあんたも廃業なんだろ?最後に綺麗な髪にしてから引退しろや」
「そうかい」
そっけなくいつも通りに鋏を進めていく。女でしかも婆なのが残念だ。
俺の右腕に欲しかったのはこういう男だった。仕事が出来て、情が薄く、話が速くて、無駄が無い。ここぞって時に負ける稀勢の里なんか俺は大嫌いだったんだ。千代を背負った男が欲しかった。
「わぁ八千代ってんだ」
「名前なんて知りたくねえや」
「戦争でなぁ後ろ手に縛られてる男を銃剣でな、やれ!言われて殺った事があんだ」
「あんたは女だろ?赤紙来とらんやろ」
「190cmで女だなんてばれやせん、ばれても大体わぁより弱かってん、面白半分で夜這いに来た奴ぁ全員玉無しにしてやったよ」
「・・・・・・嘘やろ?あんたいくらなんでも戦争ん時は小さい子供ちゃうか」
「別に信じんでええ」
「ああ、続けぇ」
「目隠しされた男は2人いてな、わの隣の奴が刺す方は中国語と日本語で必死に命乞いしてんが、わぁーが刺す方の男は黙ーったまま、下向いて、黙ったまま。銃剣を肋骨の間から心臓へ入れた時も一息詰まっただけやった。で、そいつらを簀巻きにして川にぽーんて流すんや。それでお終い。ずーっとずーっと川の向こうに沈みながら、行ってしまう死体をわぁはずっと覚えとるんや」
「で、何が言いたいんや」
「復讐の話や」
「は?」
「わぁの兄は中国人で、わぁもそうだった。わぁは日本の兵士になったが、兄はならんかった。あれは兄やった。わぁが刺したんは兄やった」
「・・・・・・で?」
「わぁは自分で目を潰したんや」
表扉が軽快にカランコロンと鳴り、男が1人と雑種の犬が1匹下りてきた。
そして別の男がバックヤードから出てくる。ずっと裏にいたのか。
「嵐山と申します!こちらは犬のかしこ。後ろのは上之段っておっさん」
「あ?」
「かしこ、匂いで分かるか?あのやくざもんが流した質の悪い薬でな、お前の御主人、あんな酷い目に遭ったんだよ」
「は?何の話だ」薬?半グレ後輩連中がばら撒いてた薬か?
「かしこ、好きにおし」
あんまり獰猛に見えない犬が蛇のように素早く俺の足元まで走ってきたと思ったら、思い切りアキレス腱に噛みついた。
叫びにもならない激痛で前のめりになり、バックルの仕込みナイフを抜き、犬の首に刺そうとしたが、婆さんの太い腕がそれを阻止した。
そうだ、俺は裏切られたんだった。
犬は俺の喉に深く噛みつき、俺はブクブクとピンクの泡を口から出し、やがて呼吸が出来なくなって、俺の両の腕を肩関節が外れるまで強く後ろに絞り抱いている八千代という名の婆さんと目が合った気がして、そこからはもう何も分からなくなった。
「いやいやいやー!ありがとうございますー!助かりました、すっかりお膳立てして貰っちゃって」
「いつもとは違う報酬が貰えんのじゃろ」
「ええ、はい、そこの上之段が中国語分かるってんで来て貰いました」
「いや、僕ただの事務だし・・・・・・たまに中国の顧客からもメール来るってだけで、それも大体英語だし・・・・・・」
「まぁ、ちょっと試しに一目見てみてくれんか」
巨体の老女はアクリル板に綺麗に挟み込んだ古くて茶色い染みのある、文書を出して、上之段に渡した。
上之段は数分その板を眺めていた。
「これ、遺書っていうか、詩だと思うが」
「訳せるか」
「いや、僕のセンスじゃちょっと」
「要約でもいいから訳してよ、今日お前その為なんだから」
「犬の散歩じゃなかったのかよ・・・・・・」
上之段という嵐山より大分年上らしい声の男は、皮脂の匂いがするトレーナーの襟ぐりを面倒臭そうに引っ張りながら詩を訳した。
「千年経っても言わないだろう、私が本気でお前を愛していたとは。狂王の為に長く太いピンのブローチを。お前がずっと私を愛せるように。王のいない華胥で会おう」
「・・・・・・意味分かんないんだけど」
「僕は必死で訳した。狂王はオイディプス王だろう」
「おいでぃぷすおうって?」
「お前は教養が全く無いんだな」
「小学校も行けてないもん」
「いや、十分だ。上之段さんとやら、ありがとう」
老女は詩の入ったアクリル板を上之段から受け取った。
「別に僕が訳さずとも誰か専門家に頼めばもっと綺麗に訳してくれただろうに。内容を大まかに知るだけなら誰かにGoogle翻訳にでも代わりに入れて貰えばいい」
「いや、内容を滅多な人間には知られたくなかった。これでいい」
「その男は?」
「ん?ああ、たかが数十年の付き合いだった常連客だ。どっちみち楽に死ねる人生じゃなかっただろう」
「かしこー、帰るよー!」
かしこは噛み殺した男の顔を殆ど食べ尽くしていた。
「こりゃぁ掃除が大変だ」
「分かるのか?」
「分からん。匂いで想像するしかない」
「掃除は俺と上之段が大体やってくし、死体は俺が持ち帰るし大丈夫だよ」
「僕も作業員に入ってんのか」
「当然だろ」
片付けを丁寧にやっていたら真夜中になってしまった。
帰りがけに上之段が老女に聞いた。
「あれ本当か?男のなりで戦争に行ったって」
「いや嘘だ。あれは兄の話だ。兄が戦争に行って兄の大事な人を殺した話」
「ああ」
「あの文は兄が唯一持ち帰ったものだ。兄は目を錐で脳に達するまで突いて死んだ。あの文章の意味が分かったんだろう」
「失礼だが、貴方のそれは?」上之段は自分の両の目の目蓋を指で叩いた。
「生まれ付きだ。私は兄が死んだ後に生まれた。兄の生まれ変わりだと言われたよ。そっくりだと。千代に八千代に生きろ、で八千代。全く迷惑なもんだ」
「そうか」
「うーえのだーん!帰るよー!お腹空いちゃったよー!」
もう横断歩道をいつの間にか渡り切った嵐山(with死体袋)が大声で呼ぶ。口の周りが血だらけのかしこは置いてきぼりにされたのかリードを引き摺りながら、どうしていいやらという風に横断歩道の前でうろうろしている。
「犬連れてけよ!お前の犬だろ!あと口の周り拭いてやれ!」
「これ重いんだよ!手ぶらの上之段の仕事でしょー!」
真夜中の横断歩道で叫び合う男どもを聴きながら、八千代は男に生まれたかった、と思った。
いや、別にどちらにも生まれたくはなかったが、どうせなら兄そのままに生まれ変わり兄が殺した人を同じように愛してみたかった。
愛も恋も分からぬままに80超えてしまったが、あの床に滑り落ちて無様に顔をべちゃべちゃと犬に食われていた男は、中々気に入っていた。
あれが愛だったなら、いつか後悔するのだろうか。
腕の感触や血の匂いを思い出して狂うだろうか。狂えるだろうか。
いや、多分、私は狂わないまま人生を終えるだろう。
店をテキパキ畳みながら、それでいい、それでいい、と満足した。
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