41年目
「ろくでもなく怠惰で傲慢な殺人者を、俺が殺すわけないじゃないですか」
僕は去年のクリスマスに死ぬはずだった。
いや、一度殺されたのかもしれない。そのへんの「境」の記憶が曖昧だ。
僕はもうずっと自分の部屋の黒カビをワイパーで拭きとるくらいの感覚で人を殺してきたが、嵐山という死体解体好きだった天使みたいな悪魔に憑りつかれてから、僕というおっさんは上手く働かなくなってしまった。
いや、賃金の出る労働はしている。レトルトカレーのパッケージとか何とかを作ってる会社で事務をしている。
上手く働かなくなってしまったのは僕の脳だ。いや、感情だ。
以前はゴミ捨て場で口論になっただけで首捩じ切って捨ててんげりという勢いで常に苛々していたが、最近の僕の感情はさざ波のようで少しの事では苛つきもせず、口論など一切しなくなった。
怒りだけが活力という時期もあったにも関わらず、今の僕ときたら現政権に都合の悪い事実をSNSで流しまくるぐらいしかしない。
2日前なんかは、長年僕の機嫌を伺うようにひっそりひっそり子鼠のように仕事をしていた事務員の部下から初めて菓子を貰った。20年近く菓子のやり取り等していなかった間柄にも関わらず、僕も思わず乳酸菌入りのチョコを取り出して「どうぞ。お腹に良いらしいです」と渡してしまった。なんだ?
これではまるで、「普通」の人間みたいじゃないか?
「殺人なんて普通の人間がやる事です。そこら中の人間に出来ますよ」
去年のクリスマスに、すっかり嵐山の手によって死体になる心づもりでいた僕を、嵐山は完全に無視した。酷い侮辱であった。
相手に抱き着くように背中から腎臓を貫けば何の音も漏れず静かに一瞬で殺せる、というお得な情報まで教えて、オンタリオナイフまでプレゼントしたのに、殺さなかった。奴は、死体を解体するのが大好きなのに、だ。
「何故殺さないのか」とまで僕に言わせた。こんな馬鹿みたいな台詞をクリスマスに吐くとは、僕は本当に馬鹿になってしまったようだった。
嵐山は心底軽蔑しています、という顔で頬杖をついて僕をじっと見ていた。
「上之段さん、俺、別に死体解体するのが趣味ってわけじゃない、って言ったらどうします?」
去年のクリスマス以降、嵐山の部屋に死体を持っていっていない。
嵐山は別に死体解体が趣味ってわけじゃないらしいからだ。
そして、僕は死体をこさえる事もしなくなった。面倒臭いからだ。
人体を始末するのは非常に面倒臭くて遠回りな作業だと、殺人者でいる事を辞めてしまった今は深くそう思う。何故、僕はずっと人を殺していたのか。
祖父が。父が。母が。母の愛人が。母の愛人の息子が。「この世に多くある凡庸な悲劇が!更なる凡庸な悲劇を次々と生み出したのだ~!」と、僕の背景に煽りが出てきそうな家庭環境ではあったが、別にどれもこれも殺人の直接の理由ではなかった。少なくとも、僕は。
何も理由は無かった。少なくとも、僕は。
真新しく彼に創出された理由は「嵐山がいるから」だった。
そして、去年のクリスマスにそれを突然剥奪された。
もう死体はいらないんだそうだ。はっきり彼がそう言ったわけではないが、彼はずっと僕を軽蔑していたのだと、僕は初めてその日に気が付いた。
すっかり彼は僕を好きなんだと、僕は勝手に思い込んでいた。
好きだから、感謝のしるしに殺すのだと。僕を殺してくれるのだと。
道路一面ガムの屑みたいな世界に降りてきた白い天使のような悪魔なんだと信じていた。
違った。僕は「普通」で、僕もただのガムの屑の一味だった。
嵐山は利己的に理不尽に断罪と救済を繰り返す、嵐のような現象の人間だった。
嵐のようだが、ただの面倒臭い人間だった。
「もしもし、嵐山です。上之段さん、俺犬飼う事になったんすけど、一緒に面倒見ません?」
あれ以来、1年近く連絡を取らず、2つ隣の部屋に住んでるというのに顔も会わさず、きっといつの間にか僕の知らぬ間に引っ越してしまうのだろうぐらいに思っていたので、突然「犬の面倒を見ろ」と呼び出されたのには面食らっった。
黒い、雑種の、マジに、ただの犬、だった。13歳。オス。
「ちょっと俺のせいで彼の家族が全員死んでしまったんですよー」
ちょっと?って何だ?と思ったが、1年ぶりに見る彼はやはり怖ろしく真っ白な服を着ていて、やはり天使のようだと感じて少し感極まってしまい、詳しい経緯をすっきり訊きそびれた。
「上之段さん、もう1年人を殺していないですね」禁煙か。
「何でそう思う?僕をずっと見張ってたか?」
「ええ」即答だ。帰ったら盗聴器を探そう。
「何故殺さなかった」また、するりと馬鹿な質問が口から出てしまった。
「シケイ反対派だから、とか?また同じ事言わなきゃ駄目です?」
「人は必ず改心するとでも思ってんのか」
「いいえ、心なんて初めからありません」
僕は笑っていない嵐山の顔を斜め後ろから盗むように眺め、とても美しいと思った。
「その者の口から出たり、手先から出たりしたものだけが全てです。心なんて、魂なんて、あってもなくても同じじゃないですか?何故あると信じたんです?何でそんな事が気になるんです?」
「お前の事が分からないからだ。多分」
「多分?俺ほど分かりやすいものも無いと思うけどなぁ~」
「あ、そ。じゃぁ、もういい」
「何が?わんちゃんの世話してくださいよ?」
「何で」
「ここにいるから」
いつの間にか嵐山の太ももに顎を乗せてくつろいでいた老犬と目が合った。
「上之段さん必ず定時で帰るでしょ?夜のお散歩を担当してくださいね。朝のお散歩は俺やりますから。もうおじいちゃんですから体調をよく見てあげて、気温もチェックしてくださいよ」
嵐山は犬の両頬を優しく撫でた。犬は実に気持ち良さそうに目を細めた。
笑ってるみたいだ。
僕は今迄誰かに理解されたいとか理解したいとか一度も思った事が無かった。全ては僕の眼前を通り過ぎる映像で、たまに立ち上がる面倒な障壁を排除する、それだけの生活だった。心が通う、という発想など無かった。
去年のクリスマスにそんな強固な僕が死んでしまった。
いや、そんな「強い」僕はいなかった。ずっとやわな事を隠していただけ。
嵐山を知りたかった。何故近くにやってきた。何故そんな事をした。
何故僕みたいなクソ畜生を殺してくれないんだ。すぐに殺せ。
人に心を与えておいて、何故心を否定するんだ。殺せ。
クソ畜生はお前だ。馬鹿野郎。偽善者。暇人。死ね。殺してやる。殺せ!
「ねぇ!これ見て!結構深いでしょ?この子に噛まれたんです。すぐに洗えなかったんだけど、狂犬病にでもなったらどうしよう?」
「金持ちの家の犬だろ?予防接種してるに決まってる」
「そうなんです?」
「ほら、犬は各市町村に登録されてて、って自分で調べろ馬鹿」
僕は「普通」の人間だった。人を殺すのは大体の人間にとって簡単。
今はもう底知れぬ憎しみを抱いても剥き出しの首に手をかけられないけど。
それどころかそいつが勝手に拾ってきた謎の犬の散歩までしてやってる。
朝、あいつが犬と散歩してるのを遠目に見ながら出勤する事がある。
真っ白なコートに真っ白な帽子。
まるで「汚れたら全てお前のせいだ」と言わんばかり。
夜、真っ黒な犬に光る首輪を付けさせて、懐中電灯を持って散歩していると、ボロアパートの二階の窓から嵐山が動かず見ている時がある。
逆光でその表情は分からない。でも、きっと。いや、でも。もういい。
彼の私刑は、僕にとって、愛のようなものだった。
僕は41年生きてきて、初めて愛のようなものを知り、そして生涯本物を受け取る事は無いと思い知った。
かつての僕は既に死に、今の僕はかつての僕の悪業を背負い、私刑か死刑に反対しつつそれを行う彼に日々監視されながら夜道で黒い犬を散歩させ続けている。
この老犬が死んだら自首とやらをしようと思い、永く生きろと抱きしめた。
彼の匂いとは全く違う、獣と青い草の匂いがした。
いつも、いつの間にか春だった。
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