唇の味
彼は犬だった。今も犬だ。
犬だが、自分の状況がとても良くない状況で、このままでは犬ではなくなってしまう、つまり死んで肉になってしまう、というのは分かった。
犬は「かしこかしこ」と彼女に褒められて育ったので、「かしこ」という音が聞こえると自分の事だと即座に反応して走り寄った。
名前という概念はよく分かっていなかったが、自分は「かしこ」と呼ばれた時に行けば撫でられて褒められるというのは分かっていた。
人間の物差しでは動物の能力を正確に把握出来ない事と同じで、「かしこ」の賢さも、飼い主やその周辺の人間達には余りよく理解されていなかったようだ。
かしこは深い川の底へ沈んでいく大きな石とともに厚手の白いビニール袋に入れられて、飼い主の家から遠く離れた橋から落とされた。
かしこは川に着水すると同時にその大きな石に頭をぶつけたので、一瞬自分が次に何をすればいいのか分からなくなったが、かしこはとても賢かったので、「ビニールを破る」という行動を選択し、即座に行動した。
あのてっぺんに毛の無い声の低い人間が布袋や革袋を選択せずに安価なビニール袋を選択したのは幸いだった。
かしこは彼女と共にもう13年は生きていたので、爪が変形し内側に曲がり、彼女が甲斐甲斐しく爪を切ってくれなければ、散歩の間に爪が折れたり肉球を傷つけたりして、怪我をした。
最近は彼女の調子が良くないのか中々会えずに伸びきり曲がったままだった爪はビニールに突き刺して穴を開けるのに向いていた。爪が何本か折れて痛かったが構わずビニール袋の穴を大きく広げ、一気に水が中に入り切るのを待ってから外に泳ぎ出した。
かしこは泳ぎが得意だった。
もう5年は泳いでいなかったが、ずっと覚えていた。
かしこが若い頃は夏になる度に、何処か水も空気もひやっとした人間の少ない高地へ彼女は彼を大きな灰色の進む道具に載せて連れ出した。
かしこは草原を走り周り、川で泳ぎ、水をふるふると撒き散らし、彼女と彼女の家族を笑わせた。
かしこには笑うという行為がよく分からない。だが、彼女らを笑わせると必ず何か「おやつだよ」と肉の含まれた棒状のもの等をくれるので、彼は彼女らが笑うのが好きだった。
しかし、今はその笑顔にはもう二度と会えないだろうという確信めいたものが彼の中にあった。
それでもかしこは冷静で賢かったので、ざわざわした黒い毛を夜の川に馴染ませながら下流へ下流へ必死に泳ぎ、誰も見ていないのを確認してから川から上がった。
ここは見た事も嗅いだ事も無い林の近くで、すぐ近くに固い灰色の人間用の道路があったが、「帰る」には何処をどう行けばいいか見当もつかなかった。
しかし、かしこは賢かった。
かしこは落ち葉や柔らかい土が沢山ある場所を見つけてそこで転がりまわり、水気を落とした。そして、そこから移動し、いの一番に朝日が当たるであろう場所に腰を下ろし身体を休めた。ほどなくして朝日が当たり、かしこの真っ黒な毛を乾燥させ、じわじわと体温を上昇させた。
体温が上がるにつれて、かしこの鼻は冷たい夜の時よりもずっと利くようになった。
分かる。分かるぞ。あの彼女の血の匂いが分かる。
昨夜、かしこが彼女らを見つけた時、彼女らは既に全身から真っ黒な血を一面に流していた。見知らぬ者が土の付いた固い足で彼女らの縄張りに立ち入っている事に気付き、かしこは大きくワンワンワンワン吠えた。
そして、ミックスの中型犬のかしこはてっぺんに毛の無い大きな人間に軽々抱えられ、何故か喧嘩をしているように見える見知らぬ人間達の座る、例の灰色の進む道具の後部座席に縛られて、結果的にてっぺんに毛の無い大きな人間に袋詰めにされて川に落とされてしまったのだ。
でもそれはもう過去の事だ。今はそれどころではない。
かしこは賢かったので、冷静に身を隠しながら血の匂いを辿り、辿り、辿り、探しては辿り、何時間も山道を登った。何時間も集中して警戒して歩いた。折れた爪もなくなった爪も今は気にならなかった。痛かったが、どんな形でも「帰り」たかった。
そんな山道の途中で変な人間が丸まっていた。
真っ白な人間だ。
「あ!ああ!やあやあ、さっきはどうも!」
どうやら挨拶されている。さっきと着ている毛皮が違うが、てっぺんの毛がない人間の隣で喧嘩をふっかけていた人間の顔面に似ていなくもない。
かしこは警戒してウウウ~と低く唸った。
「ああ、君はやっぱり凄く賢いんだね」
かしこはこの見知らぬ人間が自分の名前である「かしこ」という音を口から発した事に驚いた。彼女の仲間なのだろうか?
喧嘩をふっかけてたのはてっぺんの毛がない人から彼女達を守ろうとしたからかもしれない。かしこがワンワンワンと吠えたように、彼も彼の発音で吠えていたのか?
若干警戒を解いたかしこはその場にすっと座った。何か「指令」があるかもしれない。
「誰かに救われたら感謝をしなくちゃいけないだろ?」
「でも今回はその感謝をする相手がちょっとまずい人間でね、俺は協力したくなかったんだよ。別の事を提案しても全然駄目でね」
かしこは犬なので、何の話だが全然分からない。この人間に鼻を近付けると色んな種類の血の匂いがする事は確かだった。
「俺、臭い?着替えたんだけどなあ。でね、協力したくなかったから逆に彼女に警告しに行ったんだよ。逃げた方が良いよって」
「でも俺失敗しちゃったんだ。尾行されてたんだ、彼、彼らに」
「それで、ああなっちゃったわけ。見ただろ?」
「あーあ、俺のせいだ。どうやって償ったらいいんだろう」
「まあ、償える罪も返せる恩も無いんだけどね」
「君も袋に入れられて大変だったね。でもビニールだったからきっと出られるって信じてたよ。俺は犬を川に投げるなんて大反対したんだけどさ」
「ああ、前足も後ろ足もぼろぼろで可哀想だ。消毒液とガーゼがあるから軽く手当をしてあげるよ。犬の手に上手く巻けるか自信無いけど」
彼はぶつぶつ色々言った後、何か小さい容器を取り出し、前足を警告無しに取ってプシュッととてもしみる水をかけた。かしこはとってもびっくりしたのでその人間の腕を噛んだ。
「ああ、ごめんね。事前に言えば良かったね。この消毒液しみるんだよ。我慢してね。包帯も付けさせて貰っていいかい?」
結構思い切り腕を噛んだのに人間は全く動じず、私の前足に白い布を巻き出した。全部の足に同じ事をすると「よし!」と立ち上がり、「歩いてごらん?さっきより痛くないんじゃないかい?」と言われ、指で回るよう指示された。
指の向きに合わせてぐるりと回った。さっきよりも足がジクジクしない気がする。
「やっぱり君は賢いね!」
また呼ばれた。やっぱり彼女の友達なのかな。かしこはちょっと嬉しくなって頭を摺り寄せたらさらさらと撫でてくれた。いつもの彼女の強引な撫で方とは全く違ったけど、それは少しかしこの気持ちを明るくさせた。
「君は彼女の血の匂いを辿ってるんだろう?」
「俺も連れてってくれないかい?」
「彼女も沢山血を流してたから助かってるとは考えにくいけど、今わの際に会えるかもしれないよ」
「彼女に会いたいんだろう?」
かしこには分からない言葉をつらつら並べたが、どうやら彼も彼女に用があるらしい。かしこの後をゆっくりついてくる。
「登山は厳しいな~」と言いながら犬のペースについてくる。結構動きが出来るタイプの人間なのかもしれない。人間は人間によって身体機能が全然違うので驚いてしまう。犬もそうなのかもしれないが、かしこは家の中にいる事が多く散歩でも他の犬に会う機会があまり無かった為、犬についての知識が少ない。でも人間はパーティー等で沢山見てるので、人間については少し知っている。あの彼女だったらここは大きな灰色の進む道具でしか登れないだろう。あの道具から降りた後も彼女はずっと動く台に乗っていて、彼女が他の人間のように2足歩行をしているのは見た事がない。ベッドに前足だけで這いずって乗るのはよく見たが。そしてかしこはいつも細い下肢を守るように寄り添って一緒に寝たのだ。
白いうるさい人間はまた何か後ろで喋っている。
「君は彼女に会いたいんだね。そこが君の帰る場所なんだね。一緒に行こう。実は彼女の身体だけが山の上のコテージに運ばれてるんだ。何故か。結構血を流してたから今生きてるか分からないけど・・・・・・」
「きっとコテージにはそのハングレ系?の見張りとかなんちゃらが沢山いるだろうから俺が道を開けるよ。俺が開けた道を縫って走って、彼女の元に行くんだよ。いいかい」
この人間はかしこが犬だという事を認識してるのだろうかと、かしこは心配になった。頭の悪い人間は邪魔だから連れていきたくないんだが・・・・・・
その時彼女の血の匂いが一気に一点に向かって太いリボンのように漂い始め、かしこはたまらなくなって全速力で走った。
走って走って走ったら、黒っぽくて四角い大きな扉の付いた物が現われ、大きくぼこぼこと筋肉?が膨れ上がったスーツの人間が2人こっちに近づいてきた。何とかすり抜けて走り抜こうとした時、いつの間にか彼らの顔の真ん中に穴が開いて倒れている事に気付いた。
後ろから「走って!」と聞こえた。
彼女の声ではないが、いつも彼女がフリスビーを投げた後に発する音だ!
白い男がドアを脚で蹴破ると同時にかしこは室内に飛び込み、匂いのリボンが続く2階へ、その上の3階へ走った。
走って走って3階の奥の間のベッドの上に彼女はいた。
手錠をはめられており、足は膝から下が無かった。
止血もおろそかで刺された脇腹からも血が拡がっている。
もう殆ど目も見えていないかもしれない。
かしこはワン!と一声大きく鳴いた。
虚ろだった彼女の目に一瞬光が宿り、きょろきょろとあたりを目だけで見まわした。
「カシオ!カシオ!生きてたのね!」
それだけ叫ぶと安心したようにまた虚ろな目に戻り動かなくなった。
本当はカシオという名前らしいかしこは彼女の頬っぺたをべろりと舐めた。
彼女はか細い声で震えながら言った。
「お腹が空いたでしょう。食べていいよ」
今のはおやつの時の彼女の音だ。でもどこにも肉のジャーキーは見えない。
「犬はね、死んだ飼い主の肉体の柔らかい部分から食べるって何かの記事で読んだのよ。賢いカシオ。私が死んだら私の唇から食べていいのよ。唇が一番柔らかいだろうから」
カシオは彼女の言う事が何も分からなかったが、もう彼女は長く生きれないという事は彼女の状態から分かった。
「カシオ、お前より早く死ぬなんて思わなかった。見送れなくてごめんね。私をちゃんと食べて生きるのよ。ママとパパのお顔もお食べ。きっと許してくれるわそのくらい。こんな死に方するくらいなら貴方の糧になった方が良いわ」
カシオは彼女の言葉が分からない事が分からず、何故か悲しかった。
「最期に会えて嬉しかったわ、賢い子。カシオ。おやすみ」
どんどん細く消えてなくなりそうな掠れた声になり、その後はもういくら待っても声も息も聞こえなくなった。彼女は、死んだのだ。
そうか、彼女は、死んだのか。彼女の腹から滲んでいる黒い血だまりは足の包帯を黒く染めていく。もう生きていない。彼女は肉になってしまった。
カシオと呼ばれたかしこは彼女の唇に鼻を寄せた、吐瀉物、胃液、乾いた唾液、誰か別人の体液の匂いがした。そのうち内臓が自然に溶けていく匂いもするだろう。
厚い灰色の唇は「高級なソーセージ」よりも柔らかかった。
「高級なソーセージ」とやらは若い時に一回バーベキューで彼女の父親から貰ったきりだったが、彼女らは顔面に常に食料を乗せて生きていたのか。確かにそれを狙って襲う他の動物もいるのだろうな、と納得しながら彼女の美しい唇に歯を立てちぎり、むしゃむしゃと食べた。
むしゃむしゃと無心に彼女の顔を食べて、「もう彼女はこの顔で笑う事も私を呼ぶ事も無い」と考えると、凄く寂しくなって、もう原型をとどめていない彼女の顔に擦り寄ってクンクンと寂しく鳴いた。
私はちゃんと帰ってきた。ちゃんと帰ってきたんだよ。
彼女の唇は美味しかった。
空腹だったからかもしれないが、生の肉は初めて食べた。
美味しかった。
「彼女とお別れ出来たかい?」
白い毛皮の人間が裾を黒い血で汚しながら部屋に入ってきた。
「おや、彼女を食べたのか」
もう彼女ではなくなった顔をよく見つめながら「君に食べられて嬉しかっただろう、きっと」と言った。
「君が死んだら君は君を食べて自分の体内に入り込む蛆虫になって、同じく蛆虫になった彼女にまた出会う!これはドラマで聞いたフレーズまんまだけどさ!」
彼は自分の大きな白色の移動道具にかしこを乗せると、全然知らない土地に連れてきた。
そして彼の首輪を今更検分した。
「君、名前カシオっていうんだね。首輪の内側に書いてある」
「でも自分ではかしこだと思ってるみたいだね」
彼は「かしこ」に合わせてワンと小さく返事をした。
「じゃぁ、今日から君はかしこだ」
「これからの君との生活は君への償いの生活だ。間接的に君の大事な家族を殺してしまったわけだから」
白い彼はかがんでもう一度首輪の裏側を見る。
「13歳か。そのうち介護が必要になる年齢だな。一人では大変だ。手を増やそう」と言って人間がよく持っている四角い小さな板に頰を寄せた。
「もしもし、嵐山です。上之段さん、俺犬飼う事になったんすけど、一緒に面倒見ません?」
「下で犬猫めっちゃ飼ってる人もいるけどさぁ、基本ここペット禁止だぜ」
「そこは大家の弱みを握ってるので大丈夫です」
「大丈夫なのかよ」
以前の豪邸とは全く違うぼろぼろのアパートの1階の庭は、案外広く草がぼさぼさと伸びてるがそれもまた心地よく、休日はそこを走りまわって遊ぶ事にした。
「13歳の割りに元気だな」
「雑種ですし、長生きかもしれませんよ」
「ふぅん」
走り回っている姿を見て欲しいのにあの2人はベランダの淵に座ってお喋りしてばかり。かしこの方を見て笑ったり、肉の棒をおやつだと言って差出したりはしてこない。
人間は人間でも、彼女とは全然別の人間なのだ。
この世でもう彼女みたいな、いや、彼女という人間に出会う機会は無いのだと草木を分けて走りまわりながら彼は悟り、とても落ち込んだが、それをちっとも感じさせないくらい愛想よくぴょんぴょんと走り回った。
「犬は気楽そうだなぁ」
「気楽に生き延びられる動物なんてこの世にいませんよ」
「じゃぁ僕は例外か」
「俺も例外かもですね」
ああ、ああ、もう彼女はいない。彼女の唇。彼女の鼻。彼女の瞼。彼女の顎。全て飲み込んでもうこの身体は彼女とともにある。もう彼女の元に帰らずともずっと側にいるというのに何故こんなにも悲しいのか悲しいのか。
カシオという名前だったかしこは、無垢なふりをして丸が連なったようなゴムの玩具を、てっぺんの毛が長い方の人間に差し出して、「遊べ」とアピールした。毛が長い方は渋々受け取った。
「ほら!取り行け!」
かしこはすぐに振り返って走って、その玩具が敷地のフェンスを越えてしまう前に高くジャンプしてキャッチした。
「お~すごいすごい。投げすぎたかと思った」と無表情でのんきにパチパチ手を叩く人間を見ながら、本当にもう彼女は何処にもいないんだと「笑ってるみたい」と言われた顔で写真を撮られながら、悲しくなって混乱した。
あの人に会いたい!会いたい!会いたい!と走ってぐるぐるした。草の匂いが全身を包み込む。そして体内に取り込んだはずの彼女に問いかける。「一緒にいて!側にいて!貴方じゃなきゃやだ!側にいて!」と問いかけるが彼の血肉となった彼女は喋らない笑わない怒らない泣かない驚かない投げない私をなでなでしない。
仕方なく私を拾った白い男の方に擦り寄り撫でるように促す。
「なでてほしいの?よしよし」
彼女とは撫で方が違うが、それでも撫でられたら嬉しい。
ああ、あの人、こんなに沢山人間はいるのに、あの人は、もう、私は、あの人の唇に私は完全に帰ったはずなのに、私は。私は。ああ。
「ごめんね、もう彼女はいないんだよ」
白い男は私を抱きしめた。彼女の血の匂いがして、かしこは少し安心した。
それから毎日薄くなっていく彼女の匂いと、濃くなっていく彼自身の匂いに慣れるようになった。その他色々な血の匂いも。
今はもう彼女の血の匂いは彼に残っていないけれど、彼に抱きしめられ血の匂いを嗅ぐ度に彼女の唇の味を思い出す。
この白い毛の彼はどんな味の唇を持っているのだろう。
今の希望は彼の死に立ち会って彼の唇を食べたい。ただそういう単純な欲求だけが彼の中で静かに眠っている。
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