感謝のしるし
どうにも面倒臭い事になってしまった。
5日前の早朝、雨降りしきる中道端で倒れている男性がいたので、大変だと思い声をかけた。
一緒にいた男友達は「どうせ酔っぱらいだからほっとけよ」と言ったのだが、「酔っぱらいだとしてもこんな雨の中倒れてたら低体温症で死んでしまうかもしれないじゃないか」と反論し、迷わず声をかけた。
呼びかけながら肩を叩くと、その男性はゆっくりとだるそうに起き上がり、周囲の状況を確認するよりも先に財布を確認し、「しまった、財布を盗られてしまったようだ」と無感情に呟いた。
背中と首元に怪我をしているのか、白いコートから血が滲み出る程だったので「救急車を呼びましょうか?」と言ったが、「や、いいんだ。浅いから大丈夫だ」と首を振った。「交番がすぐそこにあります。お財布も無くなってますし、被害届を出しましょう」と言ったが、「や、いいんだ」と水の溜まった地面に座りこみ続けたまま、ただ首を振る。
「頭がおかしいんじゃないのか?早く行こう。会社に遅れる」
「あんたは本当に薄情な奴だね。あんただけ先に行きなよ」
男友達で同僚の芳賀は薄情な奴だが、「頭のおかしい」男と、か弱くもなくもない一応女の私をそこに置いて出社する程には薄情ではないらしく渋々その場にとどまった。
白いコートの男はやおら頭がはっきりしたように私の方を見上げて、にこりと笑い、「何かお礼をしなければいけませんね」と言った。
「いや、お礼なんて。それより本当に病院も警察も行かないんですか?」
「何かお礼がしたいのです」
「ほら、やっぱり変な奴だ。ほっとけよ。早く行こう」
「水を置いていきます。まだ口付けてませんから。それと屋根のある場所に移動出来ますか?肩を貸しましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。何かお礼をさせてください」
「新手のナンパだよ。木崎さん、早く行こう!」
私もその男から妙に不穏な雰囲気を感じたので、少し怖くなって芳賀に腕を引っ張られながらその場を離れ、始業ぎりぎりに出社した。
その夜、久々に定時で上がれた私は、値下げシールの貼られたカット野菜を買ってチンジャオロースでも作って食べようと、近所のスーパーに寄った。
そしたら、あの白いコートの男がいた。
「ああ、こんばんは。偶然ですね。今朝はありがとうございました」
白いコートは朝とは別のものらしい。濡れてもいないし、血の痕もない。今朝のけだるげな様子は全く消え失せて、快活なはっきりとした喋り方だった。立ち上がった姿は思っていたより身長が高く威圧感を感じる。
「最近、この近所に越してきたんです。本当に偶然だなあ!」
「はぁ・・・・・・」私は少しこの男が怖くなっていた。
「私は嵐山と申します。またスーパーで会うかもしれませんね、いずれお礼を」
「いえ、結構です。何もいりません。では、さようなら」
私は目当てのカット野菜も買わずに、スーパーから逃げ出した。あの男は何故そんなにお礼をしたがるのだろう。本当に新手のナンパ?ストーカーなのだろうか?
暫くはあのスーパーで買い物をするのをやめようと思った。嵐山という謎の男のせいで私の行動が制限されるのがムカついて仕方がなかった。次に声をかけられたら警察に相談しよう。警察もそうそう当てにならない事は過去にストーカーの相談をした際にも十分分かっているが、しないよりはマシかもしれない。
「自意識過剰」と嗤われても実際に被害に遭ったら「自衛が足りなかった」と言われるのは私なのだ。あの嵐山は要注意だ。私は仕事の鞄の中に久々にスタンガン付きの懐中電灯を入れた。
休日の朝、ぴんぽ~んというやる気のない玄関のチャイムで起こされ、適当にパーカーを羽織って上までチャックを閉め、玄関ドアのチェーンをかけたままドアを開けた。
嵐山だった。
「郵便です。いやぁ、偶然ですね!私はついそこの郵便局でバイトをしているのですよ」
「帰ってください」アパートの部屋を特定されてしまった事に絶望的な恐怖を覚えた。
「私はただお礼がしたいだけなんです。あとこれ郵便なんですけど、氏名・住所、お間違えないですか?」
「え、あ、はい、間違いないです。ありがとう。でももう来ないでください。別の区域の配達担当に変わってくだ、いえ、私から郵便局に電話します。嵐山さんですね?本当にもう来ないでください。お礼はいりません。私は貴方が怖いんです」
「どうして?」
「写真を撮らせてください。いいですね?警察にも行きますからね」
チェーンの間から素早く写真を取り、郵便物(アニメイトからだった)を奪い取って、ドアをばたんと威嚇するように閉めた。
何故ああいう男というものは、自分の力の強さや図体のでかさを意識せず、たった149cmの私のような女に簡単に信用して貰えると思っているのだろう。本当に嫌だ。郵便局にもクレームを入れなければ、ああ、それより先に警察だ。警察にとりあえず行かないと。
「でも偶然だって言ってるんでしょう?」
「偶然なわけないじゃないですか。お礼をしたいお礼をしたいってそればっかりで本当に怖いんですよ」
「この写真が、嵐山っていう男?」
「そうです、その男に警告してください。七海台第二郵便局でバイトしていると言ってました」
「でもこの人凄いイケメンじゃない!」
「は?」
「お礼って一緒にお茶して欲しいぐらいの事じゃないの?」
「こんなイケメンにお礼がしたいって言われたら、おじさんが女の子だったらついてっちゃうけどなぁ、ははは!」
「何言ってるんですか?イケメン無罪とかマジで信じてるんですか?いくらイケメンでも挙動が不審だったら一発アウトなんですよ。私は怖いって言ってるじゃないですか」
「ちょっと警戒し過ぎなんじゃぁないの?」
「本当に偶然で、本当に善意だったら、この人が可哀想じゃない」
「何言ってるんですか?」
駄目だ。もう何も話の通じる気がしない。
数年前と同じく、また無能の警察官に当たってしまったようだ。もう警察は信じられない。郵便局に状況を伝えて、配達の区域を変えて欲しい、という要望くらいなら通るかもしれない。郵便局の窓口はいつも女性が多いし、きっと分かってくれる人もいるはずだ。
「嵐山?さんですか?」
「はい、近所の郵便局と言ってたので、そちらの七海台第二郵便局だと思うのですが」
「男性ですよね?どんな方ですか?」
「背が大体180cm、いやもっとありますね、とにかく高身長で、痩せていて、髪は黒くて真ん中分けで、20代後半か30代前半・・・・・・あ、郵便局の制服は着てなくて、バイトだと言ってました」
「うーん、うちにはいないですね」
「では駅前の七海台郵便局の方でしょうか・・・・・・」
「いや、そっちにもいないと思います。契約社員の方は2つの郵便局を行ったり来たりしてるので、全員顔は見てるんですよ。でもその年代で、身長が高い人はいませんね。それにバイトの方も全員制服着てるんですよ」
嵐山、あのクソ野郎。私のポストの郵便物を勝手に出して、渡しただけだったんだ。完全にやばい奴だ。あのぽんこつ警察に伝えれば少しは動く気になるかも・・・・・・いや、今日はもう遅いし、明日は月曜日だ。被害届を出すとなると結構な時間を取られるだろう。今は仕事を休める程、暇な時期ではないし・・・・・・
「面倒臭いなあ~!」
「家把握されてんだよ!?玄関まで送るぐらいしてくれてもいいでしょ」
「そうやっていつも便利に僕を使って~」
「信頼出来る男友達、あんたぐらいなんだよ!お礼はいくらでもするから!」
「はいはい、分かったよ~」
渋々家まで送ってくれる事になった芳賀を盾にして、無事アパートの玄関まで辿り着いた。玄関前で嵐山が待ち伏せてたらどうしようかと思ったが、いなかった。良かった。
「特に誰も後ろからついてきてたりしないし、待ち伏せてもいないし、まぁ良かったんじゃない?」
「今日だけかもしれないだろ。本当にマジやばいんだから」
「でもお礼がしたいって言うだけで、特に何もしてこないんだろ?」
「してるよ!勝手に郵便局員名乗って家特定してんだよ!?立派なストーカーでしょ!?」
「木崎さんは思い込み激しいからなぁ」
全く、男というものは男に甘すぎる!家までちゃんと送ってくれた分、芳賀はまだマシな部類かもしれんが、それでも私の恐怖に共感してくれる男ではない。この恐怖を分かってくれる男に・・・・・・人間に、今後出会えるだろうか。田舎者の両親は正月の度に結婚しろ結婚しろと煩いが、私の恐怖を理解しない人間と暮らすなんて、恐怖そのものだ。そんな伴侶と同じ空間で暮らしたくない。
私は色々と脱線しつつ思いふけっていると、芳賀がまだ目の前にぼーっとつったっていた。
「ん?ああ、ありがとう。もう帰っていいよ」
「ええ~!?なんかお茶でも飲んでく?ぐらい言ってくれてもいんじゃないの!?」
「ええ~、めんどくせーなー。今度ポッキーか何か買ってあげるよ」
「子どもか!今日コート忘れたから寒いんだよ。コタツ持ってんでしょ?ちょっとあったまらせてよ」
「んー、しょうがないなー。家に上げたからって完全に信用してるわけじゃないからね?」
「ひでぇ~。ほんと自意識過剰~、木崎さん」
寒い寒い煩い芳賀を仕方なく家に入れた。
コタツの電源を入れて、電気ケトルで湯を沸かす。
「木崎さんち、部屋汚ねぇ」
「うっせぇ。人をあげる前提で暮らしてないんだよ」
「コーヒーがいい」
「図々しい。カフェインレスのフレーバーティーしかない」
「え~」
カチッと僅かに音を立てて湯が沸いた事をお知らせした電気ケトルを持ち上げながら、ふと台所と対極の位置にある風呂場に目をやると、風呂場のドアが閉まっていた。あそこは湿気がたまりやすいので、私はいつも開け放している。凄く嫌な予感がした。
じわじわと染み出る恐怖で立ち尽くしているといつの間にか芳賀が近くに来ていた。
「な、何?」
「お礼なんでもしてくれるんでしょ?」
「あ?」
「キスくらい別にいいよね」
「はぁ?」
「木崎さん、僕が木崎さんの事好きな事分かってて便利に使ってるでしょ?そういうのずるいと思うんだよね」
「何?あんた私の事好きなの?」
「あんたあんたっていっつも言って・・・・・・僕が年下だから馬鹿にしてるの?それとも僕が不細工だから?」
「あ、貴方が不細工だと思った事一度もないよ。離れてくれる?」
「嘘吐きだなぁ。どうせお前も俺を馬鹿にしてんだろ」
唐突に壁へ肩をガンと押し付けられて体勢を崩した私は、左手に持った電気ケトル内の熱湯を「思いがけず」芳賀に頭からぶっかけてしまった。
ギャッと大きく叫んで顔を抑えてうずくまった芳賀を見て、テーブルに置きっぱなしにしてたミネラルウォーターを手に取り、芳賀の後頭部からかけ流した。
「何やってんの。すぐ救急車呼ぶから」
「クソ!クソ女!あんだけ優しくしたのに、こんな、クソ!」
もう普段の芳賀とは思えなかった。レイプ被害の殆どは身内や知人からだと知っていたのに、何故こいつを簡単に部屋にあげてしまったのだろう。
芳賀は火傷で真っ赤な顔のまま私を押し倒し、スーツとシャツを乱暴に引き裂いた。床に置きっぱなしの鞄の中にはスタンガンがある。熱湯で火傷を負った顔を殴れば逃げられるかも。股間を蹴り上げれば・・・・・・
色んな抵抗の選択が脳内を過ぎ去っていくばかりで身体が恐怖で動かない。このままでは。このままじゃ。
真っ白になった頭を急に現実に引き戻したのは、芳賀が何の前触れもなく、私を下敷きにして倒れたからだ。全く動かない。
「・・・・・・芳賀?」
「あ、どうもすみません、勝手に家に入りこんで」
芳賀の背中にはサバイバルナイフ?が深々と刺さっており、目の前には白いコートの嵐山が立っていた。
動かない芳賀の身体を私からどけて、はだけた私の身体に自分のコートをかけてくれた。
「趣味なんですよ」
「え?」
「死体を解体するのが趣味なんです。だから、この男の解体は任せてください。世間的には失踪扱いになると思います」
「・・・・・・」
「構いませんか?」
「・・・・・・構わない!助けてくれてありがとう」
「やっとお礼が出来たようで何よりです。私は殺したり人体を解体したりする事くらいしか得意な事がありませんから、何かお礼をしたい時は人を殺すと決めているんです」
「マジもんのやばい奴」
「そうですか?感謝のしるしに殺すってそんなにおかしな事ですかね」
私にはよく分からない理屈をぶつぶつと呟きながら嵐山は白い服の何処も汚さずに芳賀の死体を謎の黒い密閉袋に入れて、軽々と肩にかついだ。
「じゃ、これで失礼します」
「殺し屋なの?そういう仕事の人?お金渡した方が良い?」
「言ったじゃないですか。趣味なんです。それにこれはお礼です」
「・・・・・・もう二度と、私の前に現われないんだな?」
「そうです」
「なら、いい。クソ野郎を片付けてくれて感謝する」
「いえいえ」
嵐山の代わりにアパートのドアを開けると、いつの間にか階段の下に大きな黒い車が止まっていた。あの車で死体を運ぶのだろう。
「人を音も無く殺せるのに、何であの日、怪我して倒れてたんだ?」
「私はもう貴方に踏み込みません。貴方も私に踏み込まぬよう」
「あ、そうね。何か知ったら巻き込まれそう。じゃ」
スーツとシャツが駄目になったが、それぞれ予備を持っていて良かった。やはり、備えあれば憂いなしだ。
私は翌日なんの変化も無くいつも通り出社した。芳賀が無断欠勤したと上司が怒り、他の同僚は何かあったのでは、と芳賀のスマホに電話をかけたりしていたが、電話は通じず、結局何も分からずに一日が終わった。
このまま芳賀の行方が誰にも分からないまま日々が平穏に過ぎ去って欲しいものだ。
今日こそチンジャオロースを作るぞと、値下げシールの貼られたカット野菜を買った。何だか胸の内のもやもやが晴れたような、実に清々しい気分だ。仕事の鞄の中には相変わらず懐中電灯型のスタンガンが入っているが、鞄の底板の下には最近購入したコロンビアナイフも入っている。
日本が銃社会だったら、きっと私は銃も購入しただろう。
「なんだ、人って殺せるのか」と当たり前の事に気付いた私は、勘違いだとしても何だか強くなった気がした。
真っ白なコートの嵐山はもう何処にも転がってないし、全然見かけない。
きっとまた何処かの誰かを「感謝のしるし」と称して殺しているんだろう。
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