第四話:びしょ濡れ

 バッシャーンという音は、すぐに水中独特のぼこぼこっとした籠もった音にかき消された。


 一気に変わった世界に、一瞬何も考えられなくなる。

 見えていた太陽もまた、池に落ちた途端に見えなくなったけど、キラキラという光は水越しにも分かる。

 と言っても、水で眼鏡が意味をなさなくなった俺の目じゃ、はっきりとはわからないけど。

 

 でも、何処か綺麗だな……。

 ぼんやりとした頭に過ぎったそんな思考は、次の瞬間肌に感じた予想外の冷たさで、一瞬で吹き飛んだ。

 なっ!?


「ごぼっ!?」


 驚きで声を上げそうになった口から出た泡。口に入ってこようとする水。

 って、このままじゃ溺れる!?


 我に返った俺は、咄嗟に両手両足を動かし、何とか水面であろう光る方を目指そうとする。

 けど、水を吸った服のせいで重く動きづらい。


 やばいやばいやばいやばい!

 それでも必死に水を掻き、水面目指して浮上していくと──。


「ぶはぁっ!」


 何とか池から顔を出せ──ぐっ!?


「げほげほっ!」


 さっき勢いで飲み込んでしまった水を、咳き込みながら吐き出していると。


「遠見君!」


 聞き覚えのある叫び声が聞こえた。


 視線をそっちに向けたけど、水が眼鏡に付いたせいでちゃんと見えない。

 何とか無理矢理腕で眼鏡を拭うと、手摺りを握り、こっちを心配そうに見つめている近間さんの姿が見えた。

 周囲には何事かと、野次馬も集まっている。


「ぼ、帽子は? けほっ! けほっ!」

「そんな心配いいから!」

「兄ちゃん! 早くしねえと風邪引くぞ!」


 体格のいいお兄さん二人が、柵の内側に立って手を伸ばしてくれる。

 そう言われて改めてそっちに意識がいったのか。身体を一気に寒気が襲う。

 た、確かにこのままじゃ、やばいかも……。


 俺は慌てて岸まで泳ぐと、その二人の手を取る。


「いくぞ。せーの!」

「それ!」


  ざばーん!


 水面から引き抜かれた俺は、近間さんが下がって空いた手摺りに、必死にしがみついた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 正直まだ呼吸は整ってない。

 水中よりは寒くないけど、時折吹く風で悪寒が走る。


「兄ちゃん。自力で反対にいけそうか?」

「は、はい。頑張り、ます」


 息を切らしつつも、助けてくれたお兄さんに頷くと、何とか手摺りに足を掛け反対側に回り、その場に両手を付き四つん這いになった。


 た、助かった……。


「あ、あの……ありがとう……ございます……」

「ありがとうございます!」


 助けてくれた二人が称賛の拍手に包まれる中、俺が何とかお礼を口にすると、近間さんも済まなそうな顔で勢いよく頭を下げる。


「いいっていいって」

「兄ちゃん。彼女に良いところ見せたいからって張り切りすぎんなよ!」


 助けてくれた人が掛けてくれた気さくな台詞。

 そこに勘違いが含まれていたけど、正直それを否定できる余力もなくって、俺はコクリと頷くので精一杯だった。


      ◆   ◇   ◆


 その後。

 誰かが呼んでくれたのか。公園の管理会社の人が来てくれて、俺と近間さんは園内の管理事務所に案内された。

 道すがら、もっと怒られるかと思ったけど、素直に事情を話すと、小言は言われたものの、あまり責められなくってほっとする。


 とはいえ、正直服もびしょ濡れ。靴もぐしょぐしょ。

 こんな姿だったから、ここまで来る時に通りがかりの人が奇異の目でこっちを見てきた。

 それはきっと、一緒に付いて来た近間さんにも向けられてたのかもしれなくって。その罪悪感から心が鬱々とするけど、正直寒さの方がきつくて、表情に気を配ってなんていられなかった。


 管理事務所に着くと、職員の人が小さな会議室に案内してくれて、タオルを幾つか貸してくれた後、


「帰られる時は、お手数ですが受付に声を掛けてください」


 と言い残して部屋を去っていき、今この部屋は俺達二人だけだ。


 風邪をひかないよう気を遣ってくれて、暖房を入れてくれた部屋は思ったより温かい。

 だけど、やっぱり濡れた服は重いし冷えている。


 ジャケットは事務所に入る前に絞ったりしたけど、流石にズボンは脱ぐわけにもいかなくって、借りたタオルで何とか水気を取るのに留めざるをえなかった。


 移動を始めてここまでの間、近間さんは何も喋らずずっと気落ちした顔をしてて、今この部屋でも、椅子に座って俯いたまま。

 帽子は何とか柵の向こうに届いたみたいで、今も彼女がちゃんと被ってる。


 エアコンの音と、俺が身体を拭く音だけが耳に残る、とにかく静か過ぎる部屋。


 ……流石に気まずい……。

 そんな気持ちが、俺に口を開かせた。


「ごめん。迷惑掛けちゃって」


 立ったまま髪をゴシゴシと拭く俺の言葉に、ゆっくり顔を上げる近間さん。

 そこに彼女らしい笑顔はなく、少し真顔になっている。


「遠見君。何であんな事をしたの?」


 何時になく低い、ギャルっぽさ皆無の声。

 

「……ごめん。その、取らなきゃって思って、……反射的に……」

「それだけ?」

「うん。ごめん……」


 眼鏡越しに見える目には、やっぱり怒りが籠ってる。

 彼女にここまできつい目を向けられたのは初めてで、俺は自然と萎縮し、視線を逸らす。

 はぁっという大きなため息が、より空気をより重くする。


「あのねー。春めいてきたからって、まだ五月も始まったばかりなんだよ? 池の水だってめっちゃ冷たかったでしょ?」

「う、うん……」

「風邪ひくかもなんてのは可愛い方でさ。酷い時には心臓麻痺とか起こす事だってあるの。それくらい、この季節ってまだ水は冷たいんだよ? それなのに何しちゃってるわけ? あたしの帽子なんて買えばまた済むじゃん。それなのに、危ない橋を渡るような真似してさ。流石に考えなさ過ぎっしょ」

「……ごめん……」


 確かに、ここまで池のほとりを歩いてきた時にも、危険だから池に飛び込むなって看板はあったじゃないか。

 だけど、俺は本能の赴くまま。咄嗟に行動して池に落ちただけ……。

 

 考えなしに行動しちゃった俺のことを真剣に考え、怒ってくれている近間さん。

 俺は頭を掻く手すら止め、奥歯を噛み俯いて彼女の視線を避けてしまう。


「ちゃんと手は動かす」


 動きを止めた俺を咎めるかのような声に、はっとした俺は腕だけ動かし始める。


「いーい? あたしは、あたしのせいで友達に何かあるのなんて絶対嫌なの。だからもう、あんな無茶はダメだかんね。わかった?」

「うん。ごめん……」


 何度目かの謝罪の言葉。

 流石に聞き飽きたのか。また彼女からため息が漏れる。

 そして……。


「……もう。言い訳ひとつしないとか。遠見君真面目過ぎっしょ」


 何処か呆れたような、だけど柔らかな声が聞こえたんだ。

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