第二章:眼鏡の理由

第一話:変わり始めた日常

 二時限目が終わり、三時限目までの休憩時間。


「ねえねえ」


 一気に賑やかになった教室で、隣の近間さんが俺に声を掛けてきた。


「どうしたの?」

「遠見君って、因数分解の宿題終わってる?」

「あ、うん。一応」

「やっりー! 悪いんだけどー、今日もちょっと、ノート見せてもらっていーい?」


 てへっと舌を出しながらそんなお願いをしてくる彼女。今週何度かこのパターンで声をかけられてるから、その理由も分かってるし、断る理由もあまりない。


「いいよ。俺ので良ければ」

「ありがと! 実は一箇所、自信ない所あったんだよねー」


 近間さんは外見や口調を含め、やっぱりギャルっぽい。

 でも、眼鏡が似合うだけあって、ちゃんと宿題もやってくる真面目な一面を持っていた。

 え? 眼鏡は関係ないんじゃって?

 いや、きっと関係はある。多分。


 机から出した数学のノートをペラペラとめくり、昨日夜に済ませた宿題のページを開くと、彼女も自身のノートを開き、並べてそれを見比べていく。


「おー。合ってた合ってた。良かったー」


 互いのノートに書いた因数分解の解法と答えが同じだった事に、はっきりと安堵する近間さん。

 っていうか、こっちの答えが間違ってたらどうするんだろう? なんて思いつつ。彼女の安心した表情を見た俺は、自然と笑みを浮かべていた。


      ◆   ◇   ◆


 あの日から数日。

 俺と近間さんの距離は、少し縮まったような気がする。

 と言っても、それは別に俺の頑張りじゃなくって、彼女の社交性のお陰なんだけど。


 基本的に人気者の彼女。

 昼休みなんかは変わらずみんなに囲まれる。で、今までだと授業の合間の休憩時間も、他の生徒と話していたんだけど。

 あの日以降、こういったちょっとした機会には、俺に話しかけてくる事が増えた。

 まあ、こうやって学校の授業に関する事とか、相変わらず消しゴム忘れたとか、そんな他愛もない話でだけど。


 ただ、急に話す機会が増えた事で周囲の目を引いたのか。


海笑瑠みえるって、そんなに遠見君と仲良かったっけ?」


 なんて勘繰る生徒も出てきたんだけど。


「いやー。席が隣だしー、何気に勉強もできそうだから、仲良くなっておこっかなーって」


 彼女はそうあっけらかんと答えてたっけな。

 まあ、勉強はできるといえばできるけど、別に学年トップになるような事もないし、それはそれで過大評価だと思っている。


 ちなみに、俺にも今まで話しかけてこなかった男子が、近間さんとの関係を聞いてきたりもしたけど、そこは急に話しかけられるようになっただけ、と答えておいた。


 これも事実は事実だし。流石にみんなもここ一ヶ月弱、俺の消極さと彼女の積極さを見てきてるからこそ、誰もこの答えを疑いもせず受け入れてくれた。

 とはいえ。浮いた話にすら思ってもらえない辺りは、流石は影の薄い俺って感じがする。


 以前彼女と交換したMINEについては、あれから動きはない。

 まあ人気者の近間さんの事だ。

 色々な友達とID交換をしてるだろうし、私生活でもみんなとやり取りも多いんだろうって勝手に思ってるし、元々連絡なんて誰からも来なかったんだ。それに不満は一切ない。


 少しだけ変わった、でも大きくは変わってない日常。

 それがまた動き出したのは、明日から連休という日の夜だった。


      ◆   ◇   ◆


 夜九時過ぎ。

 風呂を上がり、バスタオルで頭を乾かしながら、俺は眼鏡をしていないぼやけた世界の中、パジャマ姿でベッドに腰掛けていた。


 眼鏡がない時の視力は右も左も〇・一を下回っている。

 だから俺にとって、この世界は慣れ親しんだ、だけど現実感の薄い世界。


 元々は普通の視力だったけど、ガクッと落ちたのは小学校高学年くらいから。

 当時も勉強を頑張ってたのもあるけど、ゲームに夢中になり出したのもこの時期。

 必ずしも因果関係があるとは限らないけど、まあ両親が寝静まった後、暗い部屋でこっそりやっていたから、影響がないとは言えないかな。


 ……そういえば。

 近間さんも眼鏡って事は、視力が悪いんだよな。どれくらい目が悪いんだろう?


 何気なくそんな疑問が頭に過ったのと同時に、ベッド脇のサイドボードに置いていたスマホがブルルッと短く振動した。


 ん? この時間に?

 俺はちょっと首を傾げた。


 家族は父さんの海外転勤で、一緒にニューヨークにいる。

 時差から考えれば向こうは朝。平日の朝は慌ただしいし、こっちにも気を遣ってくれるから、MINEの連絡にしても、こっちが休日の昼間って時間が多いんだ。


 となると……。

 一瞬脳裏を過ったのは、眼鏡ギャルがにんまり笑う姿。

 ……いやいやいやいや。流石に数日連絡ないんだぞ。

 今更──。


  ブルルッ


 そんな俺の思考を遮るように、またも短く震えたスマホ。

 ……とりあえず、見ればわかるか。


 一旦バスタオルを首にかけ、ベッドのサイドボードに置いた眼鏡を掛けると、流れで隣に置いていたスマホを手に取った。

 ロック画面の通知欄にあるのは……近間さんからのメッセージを示す通知。

 そこにあった現実に、俺の心が一気に緊張する。


 っていうか、正直MINEのやり取りだって、家族ともそんなに多くない。

 そんな慣れない状況下で、彼女からメッセージが届いてるんだ。そりゃ緊張しない方が無理ってもの。


 とりあえず画面のロックを解除しMINEを立ち上げると、近間さんとのタイムラインを眺めてみた。


『やっほー。今起きてる?』

『あ。もしかしてご飯とかお風呂とかかな?』


 さらっと書かれた二行のメッセージ。

 ……多分これを見たって事は、既読が付いたはずだよな。

 とりあえず返しておかないと悪いかな?


『こんばんは。今風呂上がり』


 そんな短いメッセージを送ると、マッハで既読になったんだけど、そこから矢継ぎ早にメッセージが飛んできた。


『あたしも風呂上がりだよ♪』


 というメッセージの後、にっしっしと笑う猫のスタンプ。


『あのね』

『時間あればでいいんだけど』

『通話とかできない?』

『ちょっと話したい事があってさー』


 直後、どうかな? と首を傾げる猫のスタンプ。


 ここまで二十秒もかかってない。

 って、めっちゃ入力早いんだな……って、あれ?


 感心して肝心な部分を読み飛ばしそうになったけど……通話?

 メッセージのやり取りじゃなくって?

 あまりに突然の申し出に混乱していると。


『ダメかな?』


 という短いメッセージ。

 ……まあ、用事があるわけじゃないけど……。


 予想外のお願いに、急に喉が乾いちゃって。ゴクリと生唾を飲み込む。

 一度大きく深呼吸した俺は、『大丈夫』という、これまた短いメッセージを返した。


 瞬間、やったね! と喜ぶ猫のスタンプ。

 ……近間さん、本当に嬉しいのかな?


 目まぐるしく送られてくる文章やスタンプから、容易に想像できる彼女のリアルでの反応。

 とはいえ、それを素直に受け取れるほど俺も自分に自信なんてないし、なんたっては近間さんはこういうのも慣れてるはず。


 ……うん。下手に考えすぎないほうがいいかな。

 余計なこと考えてると変に緊張するし、なんて思って、またも大きく深呼吸していると。


  ブルルルッ ブルルルッ


 規則的な振動音と共に、画面がMINE通話が掛かってきた時の画面に変わり、俺は思わず固まってしまう。


 この画面自体は家族との通話でも使うから見慣れてはいる。

 けど、『近間 海笑瑠みえる』という表示名が、一気に緊張感を煽る。


 と、とりあえず、放置ってわけにはいかないよな。

 恐る恐る応答ボタンを押すと、スマホを耳に当てると。


『やっほー! 聞こえてるー?』


 そんな、近間さんらしさ全開の声が、耳に届いたんだ。

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